2014年09月23日

「至福のとき」「最高の幸福」について書きます。

『至福(しふく)』というのは、『この上ない幸福感』の事です。英語では、これをgloryとかblissと言います。それは、外的な環境のありようを言うのではなく、心の平和と喜びが続く幸福感の事です。

ですから、これは、『信仰(神様への信頼)によるの喜び』と深く関係があります。


ポール(パウロ)は、クリスチャンについて次のように言っています。とても印象的で、しかも衝撃的な言葉です。“8 私たちは尊敬されるし、また辱められます;私たちは、侮辱され、また称賛されます。私たちは、嘘つきども として扱われますが、でも私たちは本当の事を話しているのです; 9 人に知られていないようですけれど、全ての人に知られています; 死んだようですけれど、ごらんのように、生きています。罰せられているようですが、私たちは殺されず;10 悲しんでいるようですが、喜んでおり;私たちは 貧乏(びんぼう)のようだけれども、たくさんの人を富(と)ませ; 何も持っていないようだけれども、実際、私たちは全てのものを持っているのです。”(2カリンシアンズ(コリントの人たちへの第二の手紙)6章8〜10節、Good News Bible、2CORINTHIANS , 8-10の翻訳)。 このポールの言葉は、この『至福のとき』をとてもよく 言い表してていると思います。 

この言葉は、一見、とても、矛盾しているように見えるし、また強がりを言っているような、つむじ曲がりの あまのじゃくな人が言っているような感じを受けます。でもその内容は、とても深いのです。ようするに、これを一言(ひとこと)で言えば、ポールたちは、『どんな境遇にいても、いつも心が富んでいる』、『じっさいに幸福感を感じている』。『神様に深く感謝して 喜んでいる。』 と言いたかったのでしょう。 これが、クリスチャンが持っている幸福感、至福のときの気持ちなのです。


幸福感というものは、外部の環境で決まるのではありません。もっと別の要因で決まるのです。それは、神様への感謝の気持ちで決まるのです

同じものを見ていても、同じ境遇(きょうぐう)にあっても、人によっては不満に思う人もいれば、そのなかでも恵みを感謝出来る人もいます。

私たちは、芸術的に優れた絵画を見、優れた音楽を聴き、すぐれた文学を読み、優れた聖書の言葉を読むとき、または、美しい自然界に接する時、素晴らしい幸福感を味わいます。しかし、それは、すでに心にある種の喜びがあり、それが、それらで増幅(ぞうふく)されるからです。


一部の人たちが言うように、人間のイマジネーションの力や想像力が優れているから 人は喜べるのではありません。天国を想像して、天国を心に描ける人は、実際に天国を経験した人だけです。芸術、文化・文明・自然を通して素晴らしい感動が得られるのは、よく言われるように、想像力が鋭敏なためではありません神様の愛の力の実在を知っているからだと思います。

美しい夕焼けや朝焼けの空を見て、「ああ、あれは、本来ああいうものなのだ。」と思う人は、至福のときを過ごせません。クリスチャンではありません。 「あれは神様が作られているのだ、永遠が存在し、神様の永遠に続く栄光が輝いているのだ。」 と信じられれば、深い喜びと感謝にひたれます。 つまり、永遠的な『至福のとき』を過ごせるのです。


≪まとめ≫

人の幸福とは、外的な条件では、かならずしも決まりません。物質や環境は、恵まれているに越したことはありませんしかしまわりの環境は恵まれていなくても、幸福感を味わう事は出来ます。小さい恵みに感謝出来るのです。そういう感謝の気持ちが、世の中にないから、みな不愉快な怒った顔をしているのでしょう。

そういう深い感謝は、自分が神様の前につまらないものだということに気付いて、神様の自分に対する愛に気づいたときに 起こります。ですから、人が神様に立ち返って ジーザスの愛に気づくことが、もっとも大切です。 

キリスト教にこの幸福感があったからこそ、人は、どんなときにもめげないで、明るい希望と喜びをもって過ごせる人たちを作ったのです。そしてしかも、その何ものにも屈しない精神が、創造的な、しかも弱い人への愛に満ちた文化・文明をつくったのです。


いくら、人の救いについて 哲学的に論理的に理屈をならべても、もしその本人の心に 明るい喜びと感謝の心がなければ、その主張は、偽物だと思います。

2009.2.3.) (2014.9.23.大はばに増補・改訂)  (2014.9.23.再投稿)


【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時【200786日〜2014331日】に投稿したブログのうち 多く読まれたものを順序不同で 少し改訂して、ほぼ同じものを再投稿します。

その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、いっぽう、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  

そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます。

今日は2009.2.3.付けのブログを 改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

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2014年09月21日

「舌は心の蔵(くら)にあるものを取り出す」という話をします。

「ジーザスにあって、ほんとうに信仰がある人」は天国の喜びを話したがります。しかし、「そうでない人」は、心の中の、自分勝手な、悪い不平、悪い不満、悪い欲望、または、根拠のない「おそれ」や、思いわずらい、心配(しんぱい)を話すのです。

新約聖書に、『8 でも、誰も舌(した)をうまく使ってはいません。それは、悪くて、なかなか使いこなせないのです、それは、たくさんの恐ろしい毒でいっぱいです。9 私たちは、舌を主(しゅ)と父である神様に感謝するために使うかと思うと、神様に似た形に作られたほかの人たちをののしるのに使っています。10 感謝をささげるための言葉と、呪い、ののしりの言葉とが、同じ口から出るのです、こんなことはあってはなりません。(ジェイムズからの手紙(ヤコブ書)38から10節、Good News Bible Good News Translation,JAMES3.8.-10.の翻訳)』と書いてあります。これは、そういう意味だと思います。

ここで、「神様に感謝する」というのは、口先だけで、心にもない感謝の言葉を繰り返すことだと解釈すればよいと思います。

いっぽう、ジーザスも、『36 お前たち蛇(へび)たち― あなたたちが悪いのに、どうして良いことを言えるでしょうか? 人は心にあふれることを話すものだからです。35 良い人は、良い宝の倉庫から良いものを持ってきます。悪い人は、悪いものがいっぱい詰まった宝の倉庫から、悪いものを取り出すのです。(マスュー(マタイ)による福音1235から36節、Good News Bible Good News Translation,MATTHEW12.35-36.の翻訳)』と言いました。

今日は、このジーザスの言葉が主題です。


心の底から出てくるものを話さないまでも、人は、習慣的に使い慣れている言葉や表現を ついつい使うものです。その中でも、先日、妻、輝子と話している間に気づいたのですが、『死に物狂いで働け。』という言葉が日本語にはあります、この表現は、聖書の言葉が基礎になっている欧米の英語圏にはありません。 「全身全霊全力を尽くして、」という言葉はありますが、死に物狂いで働くは、見かけない表現です。

思うに、これは、仏教国・儒教国である日本国特有の表現だと思います。


同じような表現として、私は、ブログ上でも、かねがね反対している表現に『頑張る(がんばる)』という表現があります。これは、もともと『かたくなに 自分のおもい(人間的な計画)をおし通す。』という意味です。いずれも、仏教的、儒教的宗教思想から生み出された日本特有の『不信仰な表現』だと考えています

とくに、『自分は死に物狂いで働いた。』という表現は、自分の命を大切にしない、愚かな表現です。これにつながる表現が、『一生懸命』、『一所懸命』という表現です。これも自分の命を懸(か)けるのです。 あるいは「自分は死んでも良い」と考えながら仕事をするべきだ。そんな、「自殺をも容認しかねない日本人」らしい「自分の命を軽く見る考え方」を私はうれえています。

また、『頑張る』も英語圏にはない表現です。昨年の2011.3.11.の東日本大震災の時以来、とくに盛んに使われた この表現は、欧米では、『あきらめないnever give up』と翻訳されて外国に伝えられました。


日本人が、この『死に物狂いで働く』なり『一生懸命』を使うとき、そこに、もともと潜(ひそ)んでいる言葉の意味をそれとなく感じ取りながら、舌が話すわけですから、そこには、命を軽視する思想や、かたくなに自分の思いを押し通す(頑張る)考え方が、こころに育(はぐく)まれ、こころに染(し)みついてきます。  つまり、ジーザスの考え方からすると、とても悪い考え方が、こころの倉庫にしまわれるわけです。


≪まとめ≫

日本語にあって、キリスト教国である欧米にはない言葉や表現は、「日本のことわざ」も含めて非常に危険なものがあります。それらは、やがて私たちの心の底までも、むしばんできて、やがて、私たちはジーザスの考え方に違和感を持つようになります。

これが、日本人が聖書に親しまない、ジーザスの教えに耳を傾けない一大原因の一つではないかと 私はいぜんから、ひそかに心配しています。

私たちは、私たちの心(こころ)の倉庫に、このような悪い宝物(たからもの)をできるだけ入れないようにしたいと思います。

そのほか、わたししたちが習慣的に話す 「汚(きたな)い言葉」も、悪い宝物として心の蔵(くら)にしまわれるのですから、注意しなければなりません。

2012.5.6.) (2014.9.21.おおはば増補・改訂)  (2014.9.21.再投稿)


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今日は2012.5.6.付けのブログを 改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

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2014年09月20日

「舌は心の蔵にあるものを取り出す」という話をします。

ジーザスにあって、ほんとうに信仰がある人」は天国の喜びを話したがりますが、「そうでない人」は、心の中の、自分勝手な、悪い不平、悪い不満、悪い欲望、また、おそれ、心配(しんぱい)を話すのです。

新約聖書に、『8 でも、誰も舌(した)をうまく使ってはいません。それは、悪くて、なかなか使いこなせないのです、それは、たくさんの恐ろしい毒でいっぱいです。9 私たちは、舌を主(しゅ)と父である神様に感謝するために使うとおもうと、神様に似た形に作られたほかの人たちをののしるのに使っています。10 感謝をささげるための言葉と、呪い、ののしりの言葉とが、同じ口から出るのです、こんなことはあってはなりません。(ジェイムズからの手紙(ヤコブ書)38から10節、Good News Bible Good News Translation,JAMES3.8.-10.の翻訳)』と書いてあります。これは、そういう意味だと思います。ここで、「神様に感謝する」というのは、口先だけで、心にもない感謝の言葉を繰り返すことを言っているのだと解釈すればよいと思います。

ジーザスも、『36 お前たち蛇(へび)たち― あなたたちが悪いのに、どうして良いことを言えるでしょうか? 人は心にあふれることを話すものだからです。35 良い人は、良い宝の蔵(くら)から良いものを持ってきます。悪い人は、悪いものがいっぱい詰まった宝の蔵(くら)から、悪いものを取り出すのです。(マスュー(マタイ)による福音1235から36節、Good News Bible Good News Translation,MATTHEW12.35-36.の翻訳)』と言いました。今日は、このジーザスの言葉が主題です。


心の底から出てくるものを話さないまでも、人は、習慣的に使い慣れている言葉や表現を つい使うものです。その中でも、先日、妻、輝子と話している間に気づいたのですが、『死に物狂いで働け。』という言葉が日本語にはあります、この言い方は、聖書の言葉が基礎になっている欧米の英語圏にはありません。「全身全霊全力を尽くして、」という言葉はありますが、死に物狂いで働く』は、見かけない表現です。思うに、これは、仏教国・儒教国である日本国特有の表現だと思います。

同じような表現として、私は、ブログ上でも、かねがね反対している表現に『頑張る(がんばる)』という表現もあります。これは、もともと『かたくなに 自分のおもい(人間的な計画)をおし通す。』という意味です。いずれも、仏教的、儒教的宗教思想から生み出された日本特有の『不信仰な表現』だと考えています。

とくに、『死に物狂いで働いた。』という表現は、自分の命を大切にしない、愚かな表現です。これにつながる表現が、『一生懸命』、『一所懸命』という表現です。これも自分の命を懸(か)けるのです。 あるいは「自分は死んでも良い」と考えながら仕事をする。そんな、「自殺をも容認しかねない日本人」らしい「自分の命を軽く見る考え方」が感じ取られます。

また、『頑張る』も英語圏にはない表現です。昨年の2011.3.11.の東日本大震災の時以来、とくに盛んに使われた この表現は、欧米では、『あきらめないnever give up』と言いかえられて外国に伝えられました。

日本人が、この『死に物狂いで働く』なり『一生懸命』を使うとき、そこに、もともと潜(ひそ)んでいる言葉の意味をそれとなく感じ取りながら、舌が話すわけですから、そこには、命を軽視する思想や、かたくなに自分の思いを押し通す(頑張る)考え方が、こころに育(はぐく)まれ、こころに染(し)みついてきます。  つまり、ジーザスの考え方からすると、とても悪い考え方が、こころの蔵(くら)にしまわれるわけです。


≪まとめ≫

日本語にあって、キリスト教国である欧米にはない言葉や表現は、「日本のことわざ」も含めて非常に危険なものです。それは、やがて私たちの心の底までも、むしばんできて、やがて、ジーザスの考え方に違和感を持つようになります。

これが、日本人が聖書に親しまない、ジーザスの教えに耳を傾けない一大原因の一つではないかと 私は前々から、ひそかに心配しています。

私たちは、私たちの心(こころ)の蔵(くら)に、このような悪い宝物(たからもの)をできるだけ入れないように、したいと思います。

そのほか、わたししたちが習慣的に話す 「汚(きたな)い言葉」も、悪い宝物として心の蔵(くら)にしまわれるのですから、注意しなければなりません。

2012.5.6.) (2014.9.20.おおはば増補・改訂)  (2014.9.20.再投稿)


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2014年09月19日

今日は、『栄光』という翻訳語の不十分さを指摘します。

「栄光」という言葉は、聖書のあらゆるところに出てきます。 ジーザスからの良い知らせ【福音】の中では、ジョンによる福音に、ジーザスの言葉として沢山出てきます。

その1章に次の有名な言葉があります。『14 その言葉は、人間となりました。それは恵みと真理に満ちていました。そして、それは私たちの間に住んだのです。私たちはその栄光を見ました。それは彼が父(神様)の息子として表した栄光でした。(ジョンによる福音114節、Good News Bible,JOHN1.14の翻訳)』。 ここは、「ほまれ」「名誉」という意味でつかわれていると解釈できます。

しかし、このあと17章の【弟子たちに対するジーザスの祈り】の中で『栄光』という言葉がしきりに出てきます。そこで言葉『栄光』ですが、広辞苑を見ると、『栄光とは 

1.かがやかしいほまれ。光栄。名誉 

2.幸いを約束する光、瑞光』とあります。瑞光(ずいこう)とは、めでたいことを表す光とありますから、この広辞苑の解説で聖書を読む限り、多くの人々は、これらの意味でしか理解しません。

ところが、英語のGood News Bibleで読みますと、別の意味が伝わって来ます。

栄光は、英語ではglory(グローリー)です。それを英・英辞典で引くと、名声、称賛、名誉の他に神様への賛美と崇拝、偉大な美、誇り、尊敬または喜びの特別な原因とあります。

さらに、英・英辞典RANDOMHOUSE WEBSTER’S UNABRIDGED DICTIONARYで引きました。すると、glory6番目の意味として、『絶対的な幸福、大満足感、幸福か満たされた感じ。』と書いてあります。

英語では、言葉gloryの中に、これだけ沢山の意味、ニュアンスが込められているのです。ですから英語圏の人たちが、ここを読む時と、日本人が日本語で、それだけのニュアンスが無い『栄光』として読む時とでは、受ける感覚に大きな差が出てきます。


ジョンによる福音17章に『1 この事をジーザスが話し終えた後、天を見上げて、“父、時が来ました。あなたの息子に栄光をお与えください。息子があなたに栄光を与えられるためです。“(ジョンによる福音171節、Good News Bible,JOHN17.1の翻訳)』とあります。ここにくると、神様をほめさせるとか、ほまれという意味にとると、分かったような、分からないような感じが残ります。そして、そのあとに、『22 私は、あなた(神様)が私(ジーザス)に与えて下さったと同じ栄光を彼ら(ジーザスの弟子たち)に与えました。それはあなたが私と一つであるように彼らも一つになる為です。(ジョンによる福音17章22節、Good News Bible,JOHN17.22の翻訳)』とあるにいたっては、『誉れ(ほまれ)』『名誉(めいよ)』『名声(めいせい)』では意味が、まったく通らなくなります。

ここで、これらの『栄光』を 『最高の幸福(感)(至福(しふく))』という意味として読みかえれば、もっと分かりやすくなることに、読者も、すぐお気づきになると思います。


≪まとめ≫

ジーザスの精神でつちかわれ、はぐくまれた欧米語は、儒教、仏教、神道など日本の思想でつちかわれ、出来上がった日本語と違い、ジーザスの言葉を より深く理解させるのに自然に、有益に出来ています。

その事が、この言葉『glory(グローリー)』に対する日本語訳『栄光』によっても分かるのです。

2009.5.4.)  (2014.9.19.改訂)  (2014.9.19.再投稿)


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その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、いっぽう、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  

そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます。

今日は2009.5.4.付けのブログを 改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

2014年09月16日

今日は、毎日の過ごし方を「主の祈り」から考えます。

私たちには、一日24時間が与えられていますね。少なくても、会社に勤める時間を除いた残りは、ほとんど自分で使える時間のはずでしょう? その時間をどう使ったらよいかをお話ししようと思います。

仕事が終わると、人は、たいていは、まず疲れきってしまって寝てしまうかもしれません。それに食事もしなければなりません。でも、まだ時間があまるはずです。昼夜を問わず、自分が自由に使える時間に、いったい何をし、何を考えて過ごすのが良いのかは、人がこの世に生きている間は、重要な大問題だと思います。

私などは、その点で、いつも床につくと、今日は無駄に過ごしたのではないかと、神様に祈って、申しわけないと、 だいたい「主の祈り」にそって、心の中で神様に祈り、眠りにつきます。 人にとって、この、寝る前に床の中で、心の中で神様に祈る習慣は、とても大事な習慣だと思います。




【「祈り方」を教える「主の祈り」 】

一日をとおしての、人の『人生の過ごし方』、『時間の使い方』は、聖書に書いてあります。 そのなかでも、「主の祈り」と言われる、「祈りかた」を教えたジーザスの教えは、とても重要だと思います。

その中で、私の罪をお許し下さい。と日本語で翻訳されているところは、誤解なく読めば、そのとおりで とても教訓的です。ただ その「私の罪」とは、私が何か犯罪を犯したとか、神様の戒律に違反(いはん)したとかいう事ではなしに、神様に対する 私の「もうしわけのなさ」のことです。


サーム(詩篇)711節に、『11 主、あなたが私にさせたいことを どうか私に教えてください、そして、私を安全な道に導いて下さい。私にはたくさんの敵がいるからです。(サーム(詩篇)711節、Good News Bible Good News Translation, PSALMS7.11の翻訳)』と書いてあります。 これは、簡潔(かんけつ)ですが、とても主の祈りの精神をぐたいてきにあらわしていると思います。

1.私がどう生きればよいかについては、『あなた(神様)が私にさせたいことを どうか私に教えてください。』という このサーム(詩篇)の言葉に、それが はっきり あらわれているとおもいます。

睡眠と休養を十分にとり、食事をゆっくり感謝してとることもふくめて、さらに、私たちが考える内容をも含めて、私たちは、主が私にさせたいと思うことを毎瞬、毎瞬、知らなくてはいけません。


2.また「主の祈り」の 『私を試みに合わせず、悪からお救い下さい。とある箇所は、「に、私たちに反抗する人や事がらが多いことをしめしています。

このことも、このサーム(詩篇)711節の後半に良く書かれています。デイヴィッド(ダビデ)が作った詩とされている この詩では、

私を安全な道に導いて下さい。私にはたくさんの敵がいるからです。』とそこを表現しました。


に対処(たいしょ)する道」も、「主の祈り」には書かれています。それは、『私に罪を犯す(おかす)ものをゆるしますから、私の罪をもおゆるしください。』とあるところです。

ジーザスによると、敵への報(むく)いは、主がすることであり、私たちは、その敵の反抗に、議論や、感情的な言い合いで対処(たいしょ)しないことが大切です。そして、うらみに思わない。そして、神様の判断と神様からの彼らへの報(むく)いにまかせることです。それが、ここでいう「敵をゆるす」ということでしょう。 何も、悪をよしとするわけではありません。

『私に罪を犯すものをゆるしますから、私の罪をもお許しください。』の「私の罪(つみ)」というのは、たぶん、主への「スィン」から来た 私の失敗や私の不適当な考えや行動も含んでいると思います。

そこをデイヴィッド(ダビデ)は簡潔(かんけつ)に、『私を安全な道に導いて下さい。私にはたくさんの敵がいるからです。』と言ったのです。 敵に反抗するのではなくて、神様の翼(つばさ)の陰(かげ)に逃げ込むのです。 つまり、デイヴィッドは、「敵に対する処置(しょち)」を神様にゆだねているのです。 ここは、とても大切なところだと思います。


≪まとめ≫

『私たちに敵対する者たち、つまり、私たちの敵』は、まず、神様の敵であることを確認することがたいせつです。ですから、その「私たちの敵」に対抗(たいこう)する、報復(ほうふく)や敵への戒(いまし)めは、神様がなさることなのです。私たちは、他人(神様)の召使い(敵)に対して、判断をしたり、罰を加える資格はないのです。その力もありません。しかし、その判断や罰は、主ジーザス、天地万物を作られ、つかさどられる神様には、それをなさる力があります。報復(ほうふく)は、けっきょく神様がなさることです。多くの場合、人間的な はげしすぎる「しかえし」は、ふたたび敵の怒りを買い、争いが、絶え間なく続くのです。


わたしたちは、まず祈りによって、「敵に対する神様の怒り」にまかせることが大切です。 

敵の攻撃に対して何もしないというのではありません。しかし、まず、その敵が神様の敵であることをよく知り、そして、神様に祈ることが第一に大切だと言っているのです。そうすれば、しぜんに相手に対する憐(あわれ)みの感情も出てきますね。

神様への信仰(神様への信頼)が無く多くの場合、感情的になって、むりやり神様の守備範囲に私たちが入ろうとするから、すべての「争い」は解決しないのだと思います。 国際政治の問題も、同じです。

2012.4.5.)  (2014.9.16.におおはばに増補・改訂)  (2014.9.16.再投稿)


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その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、いっぽう、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  

そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます。

今日は2012.4.5.付けのブログを 加筆、改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

2014年09月14日

皆さん、いよいよ明日は敬老の日ですね。

私が所属している日本福音ルーテル東京教会では、この日を『信仰の先輩に感謝する日』として、礼拝とお祝の食事会をしています。今年は、それがちょうど今日の日曜日でした。わたしのところにも、その招待状が来ていて参加の返事を出しておいたところでした。

ところが、私はここ数週間、非常な疲労感と疲れを感じていました。しかし、お誕生日祝いのディナーの招待券が来ていましたので、昨日ハイアット・リージェンシー東京のイタリアン・レストラン「カフェ」に私一人で招待の夕食を食べに出かけました。ところが寝たきりの妻輝子のために家の食事づくりや妻輝子の「尿とりパッド」や食料品を買いに、イトーヨーカドー国領店に出かけて、買ったものを冷蔵庫と冷凍庫にしまい、すぐに折り返して車でハイアット・リージェンシー東京に向かったのです。私は疲れて、ぼおっとしていたのだと思います。約束時刻に間に合いそうにないと急いだためもあり、地下3階の駐車場に着いて、いつもとは違う場所にバックで停めるときに、とうぜん車止めがあるものと思いこみ、激しくバックしました。そうしたら、ガチャンと大きな音がして、車の後部の「バンパー部分」が1センチ弱下にずれてしまいました。

すぐに東京トヨペット調布店に電話をし、翌日(今日)3時ころ車を見てもらう約束をしました。「カフェ」の支配人は親切で、引っ越しテープを渡してくれ、それでバンパーがずれないように、左右5か所ずつテープでとめました。


お祝いの夕食は、ファミリービュッフェで、ローストビーフや、スズキのグリル、カモ肉のサラダなどなど、思う存分、ゆっくり夕食を楽しみました。帰宅して、どうも体がだるいので熱を測ってみました。36.6℃もありました。

私の平熱はいつも34℃台ですから、これは私にとっては相当熱があったのです。10年以上わたしの主治医である東京大学医学部付属病院(東大病院)感染症内科の四柳 宏先生に、かねてから36.6℃以上熱が出たら、最低3日間、熱が下がってから2日間は飲むようにといただいていた抗生物質バナン100mg1錠を飲み、眠りにつきました。


今朝目覚めた時には、熱はまだ36.6℃で、いぜん熱があり体がだるかったので、日本福音ルーテル東京教会に 今日の会合への出席を取り消すと電話をしました。 友達に会うために行きたいとも思っていましたが、何か白々しい話ばかりを聞かされる気がして、行きたくない気持ちとがあり迷っていたところでしたが、神様は、結局行くのを止められたわけです。


しかし今日は、東京トヨペット調布店には行かねばならず、約束より遅れて、350分に東京トヨペット調布店に車を持ち込みました。見積もりに約1時間待ち、修理代金として17万円の見積もりが出ました。最近の車は、乗員の安全を第一に考えて、車のほうで衝撃を吸収して、車が すぐこわれるように作られているので、修理に大金がかかるのだそうです。買った時の5%強のお金がかかることになりました。 帰宅後体温をはかってみましたら、640分に熱は34.6℃に下がっていました。


そこで、この車を昨日こわしてしまった原因を考えました。

1寝たきりの妻の介護と、買い物とか、毎日の食事つくりとかで、私が大変疲れていることが、その第一原因だと思いました。

2.それに、熱があるのに、買い物とかを あわててして、疲れていたため、私の認知機能が落ちていたのだろうと思います。

神様から与えられているこの身体については、健康の維持にじゅうぶん注意して 日々 健康を守らなければならなというのが、この事件の教訓でした。


【敬老の日について

高齢者をいたわり、尊敬する気持ちは、おおかたの人たちの考えとは違って、お金持ちや、有名な人や、実力者を尊敬する気持ちとは全くかけ離れた「考え方」から出るのです。

それは、弱者、お金が無い人、力が無い人、病弱な人をいたわる 『ジーザスの考え方』からだけ出るのです。 

『自分が年を取ることを恐れている人。』や、『自分の利益にはつながらないと考えた場合、「お金がない病弱な高齢者」を嫌い軽蔑するような人。』には、「敬老」のひとかけらもないでしょう。


≪まとめ≫

明日の敬老の日を前にして、このところ、私はとんでもない 身体が疲れた日々を過ごしていました。

私は、神様が私にさせようとされていることを思い起こし、神様の前に毎日を有意義に過ごそうと思いました。

そして今日は、『今後も、私は神様のためにだけ働こう』 と心にきめた一日でした。

2014.9.14.
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2014年09月13日

聖書に、『なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからである。(新共同訳聖書、ローマの信徒への手紙

328節))』とありますから、信仰が行いよりも はるかに大切であると書かれていることが分かります。これは、もともと文語訳の聖書で、『28 われらは思う、人の義とせらるるは、律法の行いによらず、信仰(神様への信頼)によるなり。(昭和51215日発行、引照付き新旧約聖書)』とありましたから、言おうとしていることは同じです。

別の表現で、おなじロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)で、『23b だから、信仰(神様への信頼)に基づかないことは、なんでもスィン・罪なのです。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)1423b、Good News Bible, Good News Translation ROMANS14.23bの翻訳)』)とありますから、これは、この考え方をさらに強調したものです。


同様の文言は、新約聖書の別の部分にも数多く書かれています。 代表的なものは、ヘブライ人への手紙(ヒーブリュー)です。『38 わたし(神様)の正しいものは信仰によって生きる。(新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙1038節)』とあります。同じ意味を言っているのです。

ジーザスがしばしば、『“あなたの信仰があなたを治したのです。”』(ルーク(ルカ)による福音1719節b、Good News Bible, Good News Translation LUKE17.19bの翻訳)』と言いました。これも、同じ意味だと思います。


これらの聖書の言葉を わたしは、しばしば取り上げました。 

しかしこの問題は、人々の間に、多くの誤解があるように思えます。

1.まず、信仰という言葉が正しく理解されません。『信仰とは、神様の存在を信じることだ。』というふうにとらえている人が多いと思います。  これは間違いです。

2.また信仰と行いとは、別々のものだという誤解もそこにはあります。信仰と行いとは矛盾するものだという誤解です。  これも、間違いです。


ここで『信仰』と言っているのは、『神様への信頼』の意味です。ですから、それは、神様はきっと私を守ってくださる、わたしに悪いことは起こらない、という確信を生む信仰(神様への信頼)のことです

 しかし、これを迷信だといって軽べつする人がいます。

もちろん、確信は、聖書的な根拠がある必要があり、また、科学と矛盾しないことが必要です。

いろいろ、心配ごとが起こった時、『いや、神様はきっと私を守って下る、わたしに悪いことはけっして起こらない、』 と思うことは、一種の自己暗示だという人がいるでしょう、たしかに、それは一種のあかるい自己暗示です。しかし、根拠のある自己暗示なのです。


こういう、信仰(神様への信頼)にもとづく自己暗示は、とても有益で正しいのです。その思い、その考え方、その信仰が、私たちを思いわずらいや、ストレスや、不安から救ってくれるからです。 ですから、それこそ、まさに、私たちが神様から喜ばれる状態【神様に義とされる】なのだと思います。このことをポール(パウロ)は、

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからである。(新共同訳聖書、ローマの信徒への手紙328節))』と言ったのだと思います。


≪まとめ≫

人の救いとは、神様からの「ゆるし」と「神様の守りへの確信」の二つに基づくものです。

ですから、それは、人が勝手に考えるものではありませんし、人が持っている信仰が、その人の手柄なわけでもありません。それは、神様への感謝をいつもともなうものだからです。

信仰は恵みだと言われるのも、このことを言っているにすぎないと思います。

2014.9.13.

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2014年09月11日

今日は、「愚かしい人」とは、どういう人のことか?「賢い人」とは、どういう人のことか?という話をします。日本人に、あまりにも「愚かしい人」が多く、

そのために、日本人が大多数の意見に弱く、猿まねばかりしていて、一向に良くならないのだと私は考えているからです。

実は「愚かしい人」とは、「考えない人」のことなのです。

聖書の格言(箴言)1215節に、『15 愚かしい人は、いつも、自分を正しいと考えます。賢い人は、どうするのが良いかについての、ほかの人の助言に耳を傾けます。(聖書の格言(箴言)1215節、Good News Bible, Good News Translation PROVERBS12.15.の翻訳)』という個所があります。

ここは、新共同訳聖書では、『15 無知な者は自分の道を正しいとみなす。知恵ある人は勧めに聞き従う。新共同訳聖書箴言1215節)』とあります。新改訳聖書では、『15 愚かな者は自分の道が正しいと思う。しかし、知恵のある者は、忠告を聞きいれる。(新改訳聖書箴言1215節)』とありますから、それぞれ、Good News Bible, Good News Translation と大きくかけ離れているわけではありません。

しかし、そこに微妙な違いがあります。私はこのGood News Bible, Good News Translation の翻訳を見て、大変大きな感激を受けました。


Good News Bibleによると、「愚かしい人(stupid people)」とは、考えが足らず、良い判断ができない人たち」のことです。それは「愚かな人(foolish people)」よりも意味が強いようです。いずれにしても、「賢い人(wise people)」の逆と考えられています。


「愚かしい人」というのは、要するに、人の意見に耳を傾けない人です。「自分はいつも正しい。」との確信に立っているからです。ですから、自分の意見と違う意見については、頭から耳を貸しません。考えたくないのです。せせら笑って、人の意見を無視します。

こういう人は、よく、「問答無用!」とか「話しても平行線だ。」とか言って、議論しようとさえしません。そして、自分と違う意見に感情的に反発します。この「感情的という点を見れば、その人が、「愚かしい人」であるかどうかが分かります。


「愚かしい人」は、感情的な喧嘩はよくしますが、冷静な議論はしません。だいたい、議論はできないのです。

議論・論争ができる人というのは、相手の存在を認めているのです。だから相手の意見に、耳を傾けます。ですから相手を嫌ったり、憎んだりもしません。

いっぽう、感情的な「愚かしい人」は、はじめから、自分と意見の違う人を無視し、嫌い、憎んでいます。 その意味で、「愚かしい人」は、非常に悪魔的だといえます。


日本で、学界でも国会でも、民間の会議でも、冷静な議論や冷静な論争が見られないのは、みな、「愚かしい人(stupid people)」だからなのではないでしょうか?


聖書の格言(箴言)に出てくる「愚かな人(foolish people」とか「愚かしい人(stupid people」とは、つねに、“良い決断と良い判断ができない人たち”のことです。

それは、同時に、天地万物をつくった「ただ一人の神様にたいして不信仰な人」を指(さ)しています。 愚かしい人は、

1.不信仰だから、いつも自分を自慢しているのです。

2.不信仰だから、自分の欠点・欠陥に気が付かない、

3.不信仰だから、へりくだらない、つまり謙虚(けんきょ)でないのです。


だから、この何でもない聖書の格言(箴言)の短い言葉の裏に、深い意味があります


賢い人(wise people):

「愚かしい人(stupid people)」に対して、対照的なのが、「賢い人(wise people)」です。「賢い人(wise people)」は、基本的には、神様に対して“へりくだった信仰”がある人です。

こういう人は冷静な議論、冷静な論争が可能な人です。ですからほかの人の意見や助言に耳を傾けます。それは、いつも、自分を反省(はんせい)しているからです。そして、「本当のことを知りたい!」と、いつも努めています。こういう人は向上します。


 なお、日本語聖書で「無知な」というのは、単に「知識が無い」という意味にとられかねず、適当ではありません。また、知恵ある人、知恵のある者は、「知恵」という仏教用語を使っている点で、「賢い人」とは かけ離れた語感を持っています。


≪まとめ≫

言うまでもなく私たちは「愚かしい人(stupid people)」ではなく、「賢い人(wise people)」にならなくてはなりません。「賢い人(wise people)」とは、自分に謙虚な人のことです。いつも、自分は間違っているのではないかと反省している人です。問答無用と断定したり、「議論をしても平行線だ!」と逃げない人だと思います。

それは、「賢い人(wise people)」は、いつも神様の前で、自分は正しい判断と正しい決断をしているか?と、つねに謙虚に祈っている人だからです。

2012.7.30.)  (2014.9.11.改訂) (2014.9.11.再投稿)


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今日は2012.7.30.付けのブログを 加筆、改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。
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2014年09月08日

文語訳聖書の伝道之書の始まりを読むと、『伝道者いわく、空の空、空の空なるかな、すべて空なり。」とありますから、この空 【くう、言語はへーベルという語】の響きに

私は大きな抵抗を感じたものでした。空(くう)はその後、口語訳聖書では『なんという空(むな)しさ(新共同訳)』と翻訳しました。しかし、やはり「」という字を使っています。

英文の聖書では、ここはNKJVが、vain(欲しい結果を生まない)、NRSVが、vanity 高い価値や大きな効果を生まないのに、強すぎる誇りを持つこと、NIVでは、meaningless(意味がない)という言葉を使っています。しかし、GNTでは、useless(役に立たない)という語を使っています。


』は、『から』で、むなしい、無益である、の他に、大乗仏教の根本真理とされる言葉でもあるらしく、「有」の反対語と記されています。 

このように仏語(ぶつご)を聖書の翻訳に使うのが、日本人の聖書翻訳の特徴の一つです。 しかし、そういうやり方は、仏教徒をキリスト教徒にしようという意図さえ感ぜられて、仏教徒の人にも失礼だと 私は思います。


英文聖書を読む限り、ここの翻訳には、「欲しい結果を生まない」、「意味がない」、「役に立たない」、「大きな価値を生まない」を表す言葉が使われていて、「人間的な目的には、役に立たない。」という意味に ほぼとれます。 したがって日本語訳の「むなしい」という言葉と共通する意味合いは そこにはないのです。


むなしい』には、同時に「はかない」「一時的である」、という語感があり、『将来への絶望感』さえはらみかねない言葉だから 問題なのです。

このため、日本語聖書のこの箇所を読む限り、虚無思想、ニヒリズムに同感する立場をイクリジアスティズ(コヘレトの言葉)は持っているとの誤解を生みます。それは、聖書の本来の思想とは まったくかけ離れた虚無思想が、聖書に書かれているかのように いままで多くの注解書や、聖書の翻訳で、大々的に宣伝してきました

しかし、それは『聖書を自分たちに都合が良いように解釈しようとしたためにすぎないと思います。なぜならジーザスは、虚無思想のひとかけらも 持ちあわせてはいなかったからです!
この矛盾的な問題を解決する鍵(かぎ)は、イクリジアスティズ(コヘレトの言葉)は、人が人間的な計画や人間的な目的をもって人生に立ち向かっても、決して満足をすることはできないことを指摘していることに気づくところにあると思います。

さらにジーザスは、人が永遠的なところに目を向け、事柄が持つ永遠的な意味、あるいは、その霊的な意味をさとるとき、この世は、永遠的な意味を持ってくる、つまり、この世は神様に結びついてくる、そして永遠的な命をそこに 人は感じれらるようになる。そのことをジーザスは教えました。

また、旧約聖書も新約聖書もそういう風に教えてきたと思います。とくに、ジョン(ヨハネ)による福音は、そこをとても強調しています。 

そこにきづけば、「この世はむなしい」のではないのです!人間的な計画や人間的な目的だけをもって人生に立ち向かうから、ひとは 人生に空しさを感じるだけなのです。


≪まとめ≫

聖書の言葉の翻訳が不適当だと、後世に深刻な悪影響を及ぼす一つの例が、この「むなしい」という翻訳だと思います。 ここは「役に立たない」と翻訳すべきでした。

なお、ここでイクリジアスティズ(コヘレトの言葉)の作者を弁護します。イクリジアスティズ(コヘレトの言葉)は いつも神様を尊ぶようにと教えています。その例はその最終章の最後の部に書かれています。

13 結局色々の事を言ったけれど、言わなければならないことが 一つだけあります:神様を敬い、その いろいろな命令に従いなさい、なぜなら、私たちはそのために創られたのですから。 14 私たちがするすべての事、良い事であるにせよ、悪い事であるにせよ、秘かにしたことでさえも 神様は そのよしあしを判断なさるからです。(イクリジアスティズ《コヘレトの言葉》121314節、Good News BibleECCLESIASTES 12.13-14の翻訳)』とあります。 


つまりイクリジアスティズ(コヘレトの言葉)の作者は、ここで神様を見つめることの大切さを強調しています。 ですから イクリジアスティズ(コヘレトの言葉)のは、けっしてニヒリズム思想でも、虚無主義でもないのです。

2007.11.17.) (2014.9.9.増補・改訂)  (2014.9.9.再投稿)


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2014年09月05日

昨日から、“良い判断が出来ない女性の美しさは、豚の大きな鼻にはめられたゴールドの輪みたいなものです。”(聖書の格言(箴言)11章22節、

Good News Bible, Good News Translation GNTの翻訳)という文がずっと気になっていて、女性の美しさについて考えました。心の美しさが無いと、人は醜(みにく)いのです。

ここは、日本の新共同訳聖書では、『22 豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。(新共同訳聖書箴言1122節)』 と翻訳されています。 しかし、心の美しさは、ここの新共同訳聖書で翻訳されているような「知性」から出るのではありません。

「判断」というのは、自分と周囲の人や事情に対する判断の事です。良い判断は、知識と教養から来ると お思いでしょうが、そうではなくて「賢さ」から来るのです。自分にとらわれて、自分ばかり見つめている人は、自分の醜さに やましい気持ちになるか、逆に、自分は良い、美しい女性だと思いこみ、そればかり考えているので 高慢で 下品な人になります。


私たちは、つまらない自分を見つめず、神様を見つめましょう、そして周りの恵みに感謝しましょう。そうすれば、顔つきも姿も自然になり、間違いなく美しくなるのです。どんな人でも、美しくなれると思います。


美しさは、表面のことではなく、内部から現れてくる謙虚さ、心の喜び、そして神様への感謝の心 から出るからだと思います。


≪まとめ≫

こころに後ろめたい気持ちがある以上、人は、決して美しくは なれません。

心が 楽しくないからです。

うしろめたくない気持ちになって、「こころが喜びに満たされる」には、神様を見つめ、神様に感謝するこころの喜び が絶対に必要なのです。

2007.8.21.)  (2014.9.5.改訂)  (2014.9.5.再投稿)


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2014年09月04日

一昨日(2011.6.27.)の夜、古舘伊知郎氏司会のニュース番組で、福島原発の放射能漏れの事故に関連して、何万頭もの豚が放置されていて、そのうち餓死するだろう。

だから、政府が豚を安楽死させることを検討しているとのニュースが報じられました。しかし、牧畜農家の了解が得られなくて困っているとのことでしたそこで、『この豚の一部を、生かしておいて、放射能の影響を調べる貴重なデーターを得る事に利用したいとの案が出ている。』と伝えられました。

それについて、コメンテーターの人が、『はたして、人間の都合で、人間の目的のために、そのように豚を利用して良いかという問題がある。』と発言しました。それに対して古舘氏は、『そうですねえ。』と賛同した様子でした。

パソコンをやりながらの私に、これが聞こえて来まして、非常に不愉快になり、すぐに急いで、テレビを消しました。


人間の目的、と言っても、これは放射能が豚に及ばす影響を調べて、今後の人への放射能の影響を予測する参考にしようとするわけでして、けっして、悪い目的ではありません!

それなのに、いちコメンテーターの、このような反応が起こるところに、【情けない日本人の価値順位観の貧弱さを私は感じて、憤慨したのです】


これは、「人間以外の動物」と「人間」との関係において、人のほうが はるかに一般動物より、本質的に優れているという『聖書の教え』が入っていない日本人の思想の貧弱さが原因です。それをテレビの司会者が気付かずに、賛同する現状の情けなさに、私はまったく、がっかりしたのです。


もう100年も前のことですが、米国の大学に留学して、キリスト教の信仰を得て、洗礼を受けて帰国した「谷津直秀(やつ なおひで)(1877-1947)」が、東京帝国大学(現在の東京大学)助教授となり「実験動物学」を日本にも導入しようとしました。そうしたら当時の東京大学の動物学教室の教授たちから、猛反対にあったそうです。

そこで谷津は、東京大学の教授の職を一時離れて、慶應大学教授に転職せざるを得ませんでした。 一昨日のテレビニュース番組で、私はこの史実を思い出しました。『動物を正当な実験に使うのに反対』という同じ心が、この現在の日本にも生きているのは、何故でしょうか?


理由は言わずと知れた事です。日本人は、旧来からある日本的な価値順位観から脱却できないからです。日本人は、人を怖(こわ)がる、悪い意味での超保守主義者です。そして、新しい真理を理解できず、その考えは付和雷同(ふわらいどう)で、ことごとに新しい真理に反対するのです。


谷津直秀」はその後、実験動物学が、世界の主流だと皆が分かった後に、東大に復職し、実験動物学を推し進め、日本の実験動物学の始祖となりました。「谷津直秀」は昭和天皇を一時教えるなど日本人からすると名誉ある活動もしましたが、その精神は常時、「クライスト・ジーザスを救い主と信じる」、英文聖書と欧米のキリスト教から学んだキリスト信仰にありました。その証拠に、彼は東大在職中、学生に聖書を教えてもいました。「谷津直秀」は、個人生活ではクリスチャンの「猪俣 愛子」と結婚し、3人の子供達には皆、テディ、ユージン、ポーリン等の英語名を付けました。たとえば長女「千鶴子」は、「ポーリン」と名付けられ、戸籍にも登録したようです。戦時中、英語名はけしからんと言われて、戸籍に日本語名を残しました。その後も、親戚、兄弟、姉妹は、たがいに英語名で呼びあいました。谷津千鶴子の長女が私の妻、輝子です。また「谷津直秀」は自分の親が仏教で死んで、位牌(いはい)を残していましたが、自分はクリスチャンだから、この位牌(いはい)を守ることは、出来ないと、和歌山にいた遠い親せきの女性に位牌(いはい)を預けた話は、私どもの中では有名です。


戦時中に直秀が薄紙に書いた後篇の原稿が、最近見つかり、前篇と共に中山書店から2011.5月に出版されました。その『欧州生物紀行』の中のエルサレム訪問記にも、聖書の研究に有益な、動物学者らしい「きめ細かな記述」が多く見られます。このように「谷津直秀」を動かした真理探究の動機は、聖書に記されている神様への愛と畏敬(いけい)のこころから出たものでした。


それを知ってか知らずか、このたび「谷津直秀」の偉業をたたえて、著書『欧州生物紀行』が中山書店50年記念として出版されました。人々は、「谷津直秀」のこの世的な優秀さ、日本での実験動物学の創始者としての「出世」と、人間的な「業績」に着目するばかりで、その裏で彼の熱意を揺り動かしていた「クライスト・ジーザス」への信仰には、まったく着目していません。


≪まとめ≫

『日本人の個人尊崇』が、後世に残す影響は、分かりきっています。

1.一つには、「人は、努力によって偉くなれるのだという迷信。」の固定化です。

2.神様を認めないから、人間の尊さも分からず、動物への畏敬(いけい)の念をぬぐえきれません。

3.天才的な人の 人間的な能力をたたえる『人間的な力』の大切さを信じる心。

4.古くから伝えられているものは良いものだと考える心、それは、人をこわがる心新しい真理に対する反発心です。これが日本人の「基本的な独創の無さ」を生んでいるのです!

それらが今も全く変わっていない日本の現状を考える時、この日本の将来に対する暗雲を感じ取るのは、私だけでしょうか?

2011.6.29.) (2014.9.4.一部改訂)  (2014.9.4.再投稿)


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2014年09月03日

今日は、聖書を読むことの大切さを話します。聖書のどこを開いても なぐさめられるのは不思議な事です。

私は別に、新約聖書の四つの福音でなくても、旧約聖書をふくめて、どのページをパッと開いても、何故かたちまちなぐさめられます。

なぜかを考えて、まず分かったことは、聖書のどこの個所でも、『神様が、生きていらっしゃるということが大前提で書かれているためだ。』とさとりました。  これは旧約聖書を含めて、すべての聖書の記事に共通している聖書の特徴です。そこに例外はありません。

ですから、聖書を開くと、自分の家に帰って来たかのように、私は、こころも、体も安らぐのだと気づきました


さらに別の理由にも気づきました。 

それは、聖書は、私に「ゆるし」をあたえてくれるからです。ここで私が「ゆるし」というのは、今のあなたは、『神様に正しいとされている。』という確信と喜びのことです。それを 聖書を読むと、聖霊が私にあたえてくれるということです

ゆるしには、三種類あると思います

1.一つは、過去に私がしたこと、思ったことに対する「ゆるし」です。これは、私を過去への愚痴(ぐち)から、過去の過ち(あやまち)へのこだわりから救ってくれます。 

2. もうひとつは、現在私が考えていることに対する、神様からの「ゆるし」です。その「ゆるし」というのは、『あなたは、神様の前に今、正しい考え方をしているというメッセージのことです。』 それも、聖霊が、ときに あたえてくれます。

3. つぎに、未来への私の「思い煩い(わずらい)」や「心配」からの脱却(だっきゃく)があります。 それは未来に、自分には「罰(ばつ)」はあたえられないという、救いの約束の「ゆるし」です。


いっぱんに、じぶんの過去を、ああなればよかったのに、ああすればよかったと愚痴(ぐち)り、あるいは現在のじぶんの考え方や行動に、「自信」が持てなくなったり、また、未来へのいろいろな「不安」や「心配」をすることは、人を苦しめる諸悪(しょあく)の原因です。だから、それらからの脱却(だっきゃく)が重要です。

そして、それらは、「いつも神様、ジーザスが、私と一緒にいて下さる。」という神様の守りへの神様への信頼(信仰)に基(もと)づくのです。


聖書を読んでいて、有益(ゆうえき)で楽しいのは、それらの「ゆるし」と「神様の守りへの確信(かくしん)」を通して、私の心と体が救われる、つまり、ストレスが解消する、その「実感」が気持ち良くて、楽しいからです。

人の救い(すくい)とは、これらの神様からの「ゆるし」と「神様の守りへの確信(かくしん)」にもとづくものだと思います。

ジーザスが、「あなたは救われました。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」としばしば言われたのは、こういう意味だったと思います。


新約聖書に、聖書についての的確な記述が二つあります。ヒーブルーズ(ヘブル書)412節と、2ティマシ(テモテ)314節〜16節です。ここで、その2ティマシを改めて翻訳(ほんやく)します。『14 あなたが教えられ、固く確信を持っている色々なほんとうの事(真理truths)から離れてはいけません。あなたは、あなたの先生が誰(だれ)であるか知っていて、15 そしてまだ子供だった頃からずっと聖書を知ってきたことを覚えています;この聖書は、あなたにクライスト・ジーザスへの信仰を通して、あなたを救いにみちびく知恵をあたえることが出来るのです。16 聖書はすべて、神様から力とアイディアをあたえられて書かれたものであり、ほんとうのことを教え、間違いに反論(はんろん)し、誤り(あやまり)を正し、正しい生き方への指針をあたえるのに有益です。2ティマシ(テモテ)31416節、Good News Bible, Good News Translation,2TIMOTHY3.14.-16の翻訳)。これはほんとうのことを言っています。


≪まとめ≫

聖書の妙な翻訳(ほんやく)を見過ごして読みさえすれば

私たちに「こころのゆるし。」と「神様が、あなたと今も一緒におられる。」という確信(かくしん)を私たちにあたえてくれる点で、  聖書を読むことは、神様とジーザスを信じる者には、欠(か)かせないものなのです。

2011.5.31.)  (2014.9.3.改訂)  (2014.9.3.再投稿)


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2014年09月02日

私 男性から見た女性の美しさについて考えましょう。聖書にあるように、物事にも人にも『全体』と『部分』があります。部分が美しい女性は 一杯見かけます。

手だけが美しい女性、首から肩と二の腕にかけて美しい女性、うなじが美しい女性、うしろ姿が美しい女性、肌が美しい女性、顔が可愛い女性、裸体が美しい女性、外見ではないですが、学業や技術に秀でた女性も部分の美しさです。部分も神様が作ったものだから美しいのです。


部分のそれなりの美しさ、優秀さを見て、全体が美しい、人間全体が優秀だと思い込んでしまう事があります、恋は盲目という話ですね?

全体が美しいか、優秀かを見分けるのは とても難しいことです。


でも、少なくとも、言える事は、『ほんとうの意味でクリスチャンなら、 全体が美しくなる可能性を持っている。』という事です。


部分を部分に終わらせず、全体に統合するのは『人間の役目・責任』です。

全体の美しさは、健康はもちろんですが、『謙虚な心の美しさ』から出てきます。その人の喜びが、「部分」に命を与え、全体を美しくさせるのです。深い教養、正しい価値判断力、弱い人に優しく 人に勇気を与える女性の性質、心の喜びと神様への感謝と 神様を たたえる深い幸福感(至福の喜び)が美しさを生みます。


部分が美しいのを見て、その部分を美しいと思うのは、当然だし、美しいと思わないのは 妙な事です。部分の美しさは、一時的なものとして軽視する考え方が東洋思想にあります。「はかないもの」として軽視するのです。これは間違いです。

さらに、女性を見て美しいと思ってはいけないという宗教やキリスト教を名乗る宗派もあります。しかし、それらは、本当のキリスト教、つまり、イエス・キリストの教えにそったものではありません。


私たちは、長く交流するか 対面して話を交わして 全体を見て、特にその目を見て、本当に美しい女性なのかどうかを 直感的に見通すことができます。その際、部分の醜(みにく)さ・不完全さ・欠点は、まったく気にならなくなります。

それほど、心が美しい人の魅力には、すごいものがあるのです。


心の美しさは、神様をたたえる心から出ます。魅力は 人を欺き易いし、美しさは消え失せます、しかし、主をたたえる女性は、賞賛されることになります。(聖書の格言(箴言)31章30節、Good News Bible PROVERBS 31.30 の翻訳)”と書いてあるのは そのためです。


≪まとめ≫

部分が美しくても、いくら優れていても 決して 慢心してはいけません。

いくら美しい部分が沢山あっても、電車の優先席に平気で座っている若い女性を見ると、魅力が 急にすっかり失せてしまいますね?

女性から見た『男性の素敵さ』も同じだと思います。

2008.7.20.) (2014.9.2.改訂)  (2014.9.2.再投稿)


【ご注意】

私のブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時【200786日〜2014331日】に投稿したブログのうち 多く読まれたものを順序不同で 少し改訂して、ほぼ同じものを再投稿します。

その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます

今日は2008.7.20.付けのブログを 加筆し改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。


今日は悲しい話をします。3〜4年前、小田急デパート13階のレストラン「さがみ」の小部屋で、一人で昼食していたときのことでした。隣の席に母親と娘の親子が来ていました。

しずかなので話声が明瞭に聞こえました。その母親が娘に言うのに、『結婚は、絶対、早く死んでくれる夫を選ぶのよ。』と言っていました、娘は「分かった。」と言いました。これが聞こえて、これこそは日本の母親の本音(ほんね)だと思いました

女は夫から子種(こだね)と給料さえ貰えば、あとは夫が早く死んでくれた方が良いのですまさに、愛のない日本の現状を象徴した言葉でした


私は、早く死ぬどころか、今も元気で、食欲も旺盛です。昨日もハイアット・リージェンシー東京の庭園と新宿公園が見渡せるソファ席で、3時間弱かけてブッフェランチを楽しみました。このようなひと時は、私にとっては神様と一緒にいられる祈りの時でもあるのです


私の妻、輝子は、もう40年以上も連れ添っていますが、『私に早く死んでほしい。』とはおくびにも出しません。じっさい そうは思っていないでしょう。しかし、沢山食べる私を「底(そこ)なしに食べる!」とか、「がつがつ食べる。」と言って、いつも眉をひそめています。

その妻は、逆に私から見ると極端に小食で一切れの甘塩じゃけを23食に分けて、食べるような具合です。 その「小食」も遠因だと私は思うのですが、このたび、リュウマチで変形した左足の人さし指の関節が靴にあたって傷になり、化膿して腫れ上がったため、先週2011.5.18.(水)に練馬総合病院創傷ケアセンターに連れて行ったところ、その日のうちに、左足の2指の切断手術を 井上聡先生から受けて入院しました。「2指化膿と蜂窩織炎(ほうかしきえん)」のためです。 34週間入院の予定です。

予後は順調だそうですが、私は、また独り暮らしになりました。買物と炊事や家事、それにお見舞いに行くなどの余計な仕事が増えて、今後どうなるか、今神様に祈っています。


妻、輝子はクリスチャンの家系に生まれ、高校生の時に日基(にっき 日本基督教団)で洗礼を受けました。私と妻とは生活の仕方がまったく違っています。違っているおかげで私は、色々世俗的な知識に触れ、便利して有難かったのです。 しかし、妻は、結婚以来、聖書をまったく読みませんでした。教会に行っても、牧師の話は聞いていません。 そして私が聖書を ひんぱんに読むのを、「趣味だ」と終始嫌がりました。『聖書の言葉の解釈と「イエスの福音」誌の執筆・発行』などには、猛反対です。『そっちの文章なんか見たくもないわ。』といつも言っています。私が回転ずしスシローで順番を待っていた時に、あ、あまり長く待つので思わず聖書を開いて読んでいたら、『とっても、異様よ。これ見よがしに聖書を読んでいるんでしょう?』と私をとがめました。

私は いっこうにそういった言葉は気にせず、今まで40年以上妻と過ごしてきました。妻に言わせると、自分がリュウマチになったのは私のせいだそうです。とにかくそっちは、おこないが無いから、クリスチャンでもなんでもない。』と言い続けました。 私が洗礼を受けることが決まったと話したら、さっそく松田繁雄牧師に、『夫はクリスチャンではないから、洗礼を受けさせないで欲しい。と手紙を書く。』と強く言い張りました。結局は書かなかったのですが、私が洗礼を受けるのはとても不満そうでした。


妻輝子は、実の娘には 『お父さんみたいな人がいるから、決してクリスチャンとは結婚してはだめよ。』と言い含めつづけて育てました。だからか子供(長男【信継】長女【恵理花】、不信者)の二人とも私をひどく嫌うようになって 調布の家にに寄りつきません。それで二人とも不信者の、非クリスチャンを選んでと結婚しました。


妻は、1.私には人望が無いことと、2.この世的に出世しなかったことと、3.稼ぎが少ない事も 非常に不満なのでしょう。


≪まとめ≫

妻はいつもニコニコしていて、人当たりがとてもよく、子供・孫を始め、すべての人に好かれています。その人望は、たいしたものです。

反面、私は 人生で すべての人に嫌われ続けて、人望がありません。

そこで、私は聖書をさらに読むようになりました。『もし、あなたが世に属しているなら、世はあなたを自分のものとして愛したことでしょう。しかし、私(ジーザス)があなたたちを世から選び出しました。だからあなたは世に属していません;それが世があなたを憎む理由です。(ジョンによる福音1519から20節、Good News Bible, Good News Translation JOHN15.19-20.の翻訳)』というジーザスの言葉に慰められています。


妻の主張が正しいか、私がいうことが正しいか、神様が判断なさることです。

一か月前まで一日180人はあったブログの読者が5月から80人に急減していますが、私は「イエスの福音」誌の発行と、マークによる福音の翻訳と、ブログの作成をやめる気は、まったく、さらさらありません。周りの反対の中で書いて行くつもりです。

2011.5.21.)  (2014.9.2.改訂)  (2014.9.2.再投稿)


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今日は2011.5.21.付けのブログを 加筆し改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

2014年08月30日

今日は、「みだら」やそれに連なる「情欲」「不倫」などの「悪い」という意味が はじめからある日本語を日本語聖書で多用する害を述べます。

これはほとんどの日本人の皆さんに、非常識で間違っていると猛反発されるかもしれませんが、あえて書きます。

とくに「みだら」は日本語聖書に数多く見られます。そこには「性的欲望」を好ましくないと思う思想が はじめから感ぜられるので、私は不適当な翻訳だと思うのです。

日本語の聖書に、『28 しかし,わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものは、だれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。(マタイによる福音書528節、新共同訳聖書)。』とある有名な翻訳があります。ここは新改訳聖書では、「情欲を抱いて女を見る」とあり、岩波書店の新約聖書では、「欲情」となっています。

情欲、欲情という言葉は、いずれも すでに性欲を好ましくないという見方で言った言葉ですから、これらは、ほぼ性欲に対する軽蔑的非難の言葉だと思います


ここの「みだらな思い」や「情欲」「欲情」の箇所を、英文聖書では、lust愛がない非常に強い性的欲望という英語を使っています。つまり、NKJVでは、これを動詞に使い、NRSVでは、名詞として使い、NIVでは、副詞として翻訳しています。いずれも、「みだらな」や「欲情」に相当する英語、たとえば「indecent love」や「obscene desire」は いっさい使っていません。


一例として、Good News Bible. Good News Translationでは、ここを、

28 しかし、わたしはあなたたちに言うけれど:女を見て、その女を自分のものにしたいと思う人は、だれでも心の中で、姦淫の罪を犯したことになります。マスューによる福音528節、Good News BibleGood News TranslationMATTHEW5.28.の翻訳)』と翻訳してあります。


ここの日本語聖書の翻訳が、良くない理由:

新共同訳聖書では、「みだら」は、しばしば、いろいろな箇所で翻訳に使われています。しかし、いずれも「みだら」の意味が不明確なのです他人の妻を見て性的欲望を感じるのは悪い、他人の妻を見て性的に興奮するのは悪い、とうぜん悪い、』 という意味でしょうけれど、何故、それが悪いのかの説明がなく まったく分りませんんね。

美しい他人の妻を見て性的に興奮するのは悪いという意味のつもりでしょうが、だいいち、それが他人の妻であるかどうかが分からない場合もあるわけですから、けっきょく、「女性を見て性的に興奮するのが悪い」という意味になりますね。そうすると、どのような性的欲望が「悪い」のかが分からなくなります。だから、いっぱんに性的欲望は悪いという意味になりますね。 『すくなくとも他人の妻でないことが分かってから性的に興奮せよということになりますね。

男に そんな 事情がわかってから性的に興奮するかどうかを決めるなどの うまいコントロールは出来ません。

だから、ここは、「一般に性的欲望が悪い」という意味になるのです。 

まとめ:

ここを『他人の妻を性的欲望を持って見る人は、だれでも心の中で、姦淫の罪を犯したことになるという意味』のつもりだとすると、性欲そのものが悪いという意味になります

性欲がない男性はいませんから、男は みんな悪いわけです。でも、その性欲は、神様がおつくりになったものです。ですから、これは、とっても困った話になります。 

いや、ジーザスは、そう言ったのだと言いたいのでしょうけれど、ジーザスがそんなことを言うわけはありません!   だから、ここは翻訳が間違っているのです。

ここの日本語の聖書の翻訳は、まあ、ひどい翻訳ですね。


性欲・性衝動の問題に対する聖書の見方。

さらに姦淫の問題、浮気の問題、婚外セックスの問題などは、実は、男性の女性に対するだけの問題ではありません。女性の男性に対する問題でもあります。

男にせよ、女にせよ、異性を性的な興味の対象として見るのは、健康な人間なら、ごく普通で自然なことです。 それがないなら、その人はそういう病気にかかっている体の弱い人です。異性をかわいいなとか、美しいなとか、魅力的だなとか、すてきだなとか、触りたいなとか、抱きしめたいな、抱かれたいとか、お話ししたいとか、そういう感情で異性を見るのは、人間として、ごく当たり前で、自然で、正常な「思い」なのです。


もし、それがいけないということならば、つまり性的欲望そのものがいけないと言っているのです。そして、それは、『ほんとうのスィン・罪の意識』とは全く別の、『無用な罪の意識』とストレスを生むだけです。


ところが、前述のようにGood News BibleGood News Translationでは、この箇所をほかの聖書のようには翻訳してはいません。つまり女を見て、その女を自分自身のものにしたいと思う人は、・・・と翻訳しています。

しかも、ここでは「他人の妻」ではなく、「女」です。Good News Bible.によると、女を見て性的な関心をもっても良いけれど、「自分自身のものにしたい。」と思うことがいけないことになるのです。」 

この翻訳は、現代に合わせて、性倫理に関して、一歩退却した翻訳なのでは決してありません! 逆に、人の性的欲望は良いものですから、その点を踏まえての翻訳なのです。


≪まとめ≫

今日は、ジーザスの姦淫に対する戒めの本体(マスュー(マタイ)による福音527から30節)については、何も申しませんでした。その解釈は、「イエスの福音」誌(61号)には、詳しく書いてあります。ここでは、マスューによる福音527から30節の解釈が、伝統的に、まったく間違っているとだけ申しておきます。

人の「性欲」と、「恋愛感情」や「性的な接触欲」、さらいは「婚外セックスへの欲望」、さらには、それにともなって起こってくる、「自慰行為(self-touchself-pleasuring、一人エッチ)」は、男女とも、みな、まったく自然なことです。  それは昔のキリスト教界が、つよく禁じたようなスィン・罪では けっしてありません!

【誤解をさけるために、男性の場合について記しておきますが、ここで自慰self-touchself-pleasuringとは、男性が精液を射精する行為自体を言うのではありません。気持ちよさを楽しむことが大切なのです。頻繁に行われる射精は男性の体力を消耗させ、ストレスを増し、無益で有害です。そのため、聖書でも、オウナン(オナン)がした行為についていましめられています(創世記389節)。自然な射精は 有益ですが、毎回むやみにするものではなく我慢するべきです。】

「性欲の充足」は、『神様に感謝しながら、男女双方とも自由に楽しむ』 のが正常です。

この「そうほうが、共に、神様にその恵みを感謝しながら」という部分が大切なのです。片方だけが楽しむのでは、犯罪です。

このことを、どんな性欲をも罪悪視し、あるいはすべての性的欲望を隠したがる、ほとんどの人に、十分に認識して欲しいと思います。

2011.9.30.) (2013.10.13.加筆) (2014.8.30.改訂) (2014.8.30.再投稿)


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2014年08月27日

神様の教えに学ばず、野生動物と同じように生きる人たちは、神様から呪われ滅ぼされてしまいます。

自分は常識に反せず、正常に生きていると思い込んでいる人たちが、実は動物的な判断基準で生きていて、『お互いに愛し合うように。』との神様の要請には応えていない現状が

あります。

ピーターからの第2の手紙に、『12 これらの人たちは、生まれて、捕まって、殺されてしまう野生動物たちのように、本能から行動を起こすのです。そして、殺されます;彼らは、自分が理解しない事を 侮辱的な言葉で攻撃します。こういう人たちは、野生の動物たちと同じように滅ぼされてしまうでしょう。(ピーターからの第2の手紙212節、Good News Bible2PETER,2,12の翻訳)』とあります。 ここには、救い主を忘れ、『性的に不道徳なimmmoral)生活(7節)』、『激し過ぎる性欲にしたがって、神様を軽蔑して生活する人たち(10節)』への警告があります。当時、神様の権威を軽蔑する教師たちが、「不道徳な不快なほどの激しすぎる性的欲望」を満たす事を薦(すすめ)めていたようです。そういう人たちは神様の裁きを避けられないと、ピーター(ペテロ)は警告しているのです。

ここで「激し過ぎる性欲lusts」とは『愛をともなわない ほとんど犯罪的ともいえる一方的な性欲』の事でしょう。

しかし、このほぼ犯罪的といえる『愛が無い、激しすぎる性欲』の問題には、ジーザスは、ほとんど触れていません。 この点は、ひじょうに重要なことです。

ジーザスによると、『道徳的な、』 つまり英語でいう形容詞の『moral』とは、戒律、律法、規則、法規、決まり、ルール、法律などを形の上で守る事ではありません。その精神を守ることです。

スピード違反は、超過速度自体が悪いのではなく、事故により、おそろしい被害を生む可能性が大きいから悪いのです。規則や聖書に書かれている律法には、精神がありますが、多くは、精神的な愛の精神から出ています


『神様を恐れない人(godless people)』の行動は、『動物的な判断』から出ます。動物たちは自己防御的な本能や恐怖心から行動します。たとえば、動物は、ほかの動物を思いやる事はしません。動物の母親には自分の幼い子供を守る強い本能があります。しかしこの「母性愛」はジーザスが教えた「愛」とは全く無縁です。犠牲を伴いますが、自分を守る気持ちから出た本能です。動物は怒るし喧嘩もし、戦いも殺し合いもします。また親は自分の赤ちゃんを守ろうとし、子供は母親を慕います。しかし、乳離れした動物たちが親孝行をしている姿など見た事がありません。親も年老いて子供の動物に援助を期待しません。それが『動物たちのやり方』なのです。

なおさら動物たちが神様に祈り、神様に感謝して喜ぶ姿などは見かけません。もちろん、動物に 高齢動物、病気の仲間、弱い動物をいたわる事実はありません。


≪まとめ≫

『神様に信頼しない人間たち』も この動物的な判断と動機と気持ちで行動しています。

いまや ほとんどの人々の『道徳』は、『動物的な次元の判断』になり下がっています。

人間が野生の動物同様になっている。これは霊的な愛を教える神様の目から見ると、スィン(sin)以外の何ものでもないでしょう。

その先には、不機嫌・絶望・憎しみなどの精神的な破たん、スピリチャルな滅びが待っています。恐ろしいことです。

2009.326.) (2014.8.27.改訂) (2014.8.27.再投稿)


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2014年08月26日

暑くて夜中に目が覚めたので聖書を開いたら、ふだん、あまり開(あ)けないザカライア(ゼカリヤ書)がぱっと開きました。そこに感動(かんどう)したので、その感想をかきます。

あとから見ると、ここは、Good News Bibleで「囚(とら)われた人々が、その家族のもとに呼び戻される。」という題が付いた個所の終わりの部分でした。これは、夜中にザカライア(ゼカリヤ)が幻(まぼろし)として夢で見た『主からの知らせ』の1個所でした。Good News Bibleでは、21013節にあります。そこの翻訳をのせます。

10 “ジェルースレムの人々、喜びの声を上げて歌を歌いなさい!私は来て、あなたたちの間に住みます!”と主(神様)は言われました。11 その時、多くの国々は、主のもとに来て、主の民となります。彼はあなたたちの間に住まい、あなたたちは、彼が私を遣わした事を知るようになります。12 再び、ジューダ(ユダ)は、主の聖な地で、主の特別なものとなり、ジェルースレムは、主が最も愛される都市となります。13 皆、主の前で黙していないさい。何故なら、彼は、彼の聖な場所から来られるからです。ザカライア(ゼカリヤ書)210から13節、Good News Bible,ZECHARIAH,2,10-13の翻訳) 』


これは新共同訳聖書の翻訳とあまり違いません。それでも13節の「帰依して」が、11節で「主の民となる17節の「肉なる者よ」と「立ち上がられる」が13節で「皆(みな)、」と「来られる」になっている違いがあります。 この方がはるかにわかりやすいでしょう?


この個所を読んで、私が感動したわけは、ここがたんに「イスラエル国家の国民を励ます預言」としてではなく、「私たち希望を失った者たちを 力づける言葉」として書かれていると思ったからです。  そのたとらえかたのちがいに、ユダヤ教とキリスト教とのちがいがあるのです。


≪まとめ≫

主(しゅ)、救い主(すくいぬし)が、私たち悩み苦しみ行きづまった私たちの所に来られる!この知らせを私はかんじて、勇気づけたのです。 ザカライア(ゼカリヤ)の予言(よげん)はすごいなと思いました。

それは、救い主ジーザス(イエス)が来られる事を予言(よげん)したと考えられるからです。

イズリエル(イスラエル)のユダヤ教の信仰は、このようにして、ジーザス(イエス)によって、クライスト・ジーザス(イエス・キリスト)への信仰、つまりキリスト教に変わるのです。

主(しゅ)が私たちと一緒に住み、一緒に行動し、一緒に悩み、一緒に生きておられる。これが新約聖書の「主がともにおられる」つまり「インマニュエル」という言葉と信仰の意味(いみ)だそうです。

それはジーザス(イエス)が生まれたときに名付けられた「インマニュエル」という名前【マスュー(マタイ)による福音123節】の由来(ゆらい)、意味(いみ)でもありました


旧約聖書は、じつは、わたし(ジーザス)について話そうとしているのです! (ジョン(ヨハネ)による福音539節b、Good News Bible, Good News Translation JOHN5.39b)』 とは、こういうことだったのです。

2009.8.30.) (2014.8.26.改訂)  (2014.8.26.再投稿)


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2014年08月25日

今日は『聖書を読むこと』について書こうと思います。聖書を適切に読まないと、かえって害があると思います。

聖書の読書については、聖書では次のように記されています。神様の言葉は、生きていて活動的で どんな諸刃の剣よりも鋭いのです。それは、たましいと精神が落ち合うところを通って、関節と肉が一緒になる所まで刺し貫きます。(ヒーブルーズ(ヘブル書)412節、Good News Bible, Good News TranslationHEBREWS4.12の翻訳)』という怖い言葉があります。 聖書は 読み方によっては、人を 善悪に決定づけてしまう、 そういう怖いところを持っています。


しかし、今日は、私が 何故、聖書を読むのかについて書きましょう。


私にとって聖書、― おもに新共同訳聖書を開いていますが―、 聖書の読書は、私が神様と出会うための最も確実な方法です。

たとえ、ほんの一瞬でも良いから、聖書をパッと開いて、目にとまった個所から私は たいてい神様を感じとることが出来ます。


聖書を他の本と同じように、疑惑的な心をもって事務的にズラズラと読む人が多いようです。しかし、『聖書は、原則として【通読】するものではないと思います。

人が旧新約聖書全部に目を通し終わったと言っても、その人が聖書を本当の意味で読んだことにはならないからです。それは目を滑らしたにすぎないと思います。あるいは、その言葉の一部を暗記したに過ぎないと思います。  「聖書学者」の読み方は、えてして こういう読み方になっています。


聖書を 尊敬せずに 事務的に ずらずらと読んで、批判的に聖書を調べることは、べつに聖書を尊敬して読んでいるわけではありませんから 有害です。 

神様を想いながら聖書を読むのでなければ、聖書の読書は かえって害があると思います。


≪まとめ≫

私にとって、聖書を読むことは、自然を眺めて神様を想うのと同じです。

いやそれ以上に神様を思い、神様と出会い、神様と一緒にいるために、聖書の読書は 私にはかかせないもので 生きてゆくために 無くてはならない環境なのです。

この意味で、ジーザスの言葉を含めて、聖書の言葉は、【人の心を生かす唯一の書物だ。】と思います。

ようするに 聖書は、「聖霊」を持って読まなければならない書物なのだと思います。

2011.2.26.)  (2014.8.25.改訂)  (2014.8.25.再投稿)


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2014年08月24日

一昨日(2012.8.14.)の夜NHKのニュース9で、今年のロンドンオリンピックの総括として、日本人選手の『チームワークの優秀さ』をほめ称えました。

私はこれを聞いて、ひどく考えさせられました。確かに女子バレーボールや女子サッカーや女子アーチェリーの団体競技、男子競泳などで、日本人選手がメダルを取り、その『チームワークの優秀さ』が目立ったことは確かです。しかも、それは、おめでたい良いことでした。

しかし、私がこの報道を聞いて、ショックを受けたのは、この日本人の特長とされる『チームワークの優秀さ』が、手放しで褒められ楽観できるものではないという点でした。

この点が、どうしても、私の頭から離れませんでした。


2012.7.28.のロンドンオリンピック開会式の模様を翌日録画でゆっくり見ました。北京オリンピックと違って、映し出されるイギリスの風景が、「メッチャきれい。」で、先進キリスト教国、イギリスの文化・文明の深さに圧倒される映像がつぎつぎと流されました。あちらこちらに十字架を掲げてそびえる美しい教会堂が建っており、私など、街の道路の隅々にまでキリスト教文化・キリスト教文明の香りが染み出ている様子を感じて、今さらながらに、イギリスの精神的な深さがにじみ出た風景に見とれてしまいました。


日本人選手たちは、これは歴史的にこういうものだと思い込もうとしたかもしれません。しかし、私がその時、感じたことは、日本人選手が、はじめてこれを見て、どう感じたかということでした。

『キリスト教なんか迷信か、習慣的な形式にすぎず、『日本の無宗教のほうが、』はるかに進んだ精神文化だ。』 と確信していた選手の多くは、心の底から、劣等感を抱いたのではあるまいかと心配したのです。

開会式でも、死者を弔う賛歌と紹介されましたが、日本語歌詞で「日暮れて夜もは暗く、わがたまはいとさびし」で始まり、「…主よとも(共)に宿りませ。」で終わる よく知られた美しい讃美歌(讃美歌39番)が、伴奏つきでイギリスを代表する女性歌手によって静かに独唱されました。国歌は国歌で、「神様、王(女王)を助けてください・・God save the Qeen・・」で始まる「神様とジーザスへの信仰(英国聖公会)」そのもののようなイギリス国歌だったし、この国の精神文化の深さをあらためて感ぜざるを得ませんでした。


『キリスト信仰に反感を持っている日本人』の、特にたぶん男子選手たちの多くは、このキリスト教の雰囲気に圧倒されて、競技で戦う気力を損なわれたのではあるまいかと私は心配しました。結果は、女子のほうが、多くのメダルを取ったようです。


【日本人の『チームワークの優秀さ』】

そこで日本人の『チームワークの優秀さ』の話ですが、これを今回の選手たちに限定しないで、日本人一般の『チームワークの優秀さ』あるいは、『和の精神』の素晴らしさ、あるいは、日本人の『協調性の素晴らしさ』をほめたたえるということになりますと、これはちょっと、そうとう危険な考え方だと思います。

『チームワークの優秀さ』は、皆が、『正しい目的』を共有し、正しくその目的の達成に各人が力を合わせて注ぐことで、はじめて効果が得られるのです。最近では、独創的な発想による 日本の宇宙船「はやぶさ」の成功にそれが現れました。日本人の和の精神、協調性、チームワークの強靭さは、この、『正しい目的』を共有することで素晴らしいものとなるだけであることを私たちは明確に自覚しなければならないと思います。


【正しい目的について。】

さて、『その正しい目的』ですが、それは、『深く考え、深く祈った個人の考え』から出るのです。この個人は、複数人であってもよいのですが、あくまでも、ほかの人の意見に動かされず、自分で 『ほんとうのこと』を知ろうとする『集中した孤独な熱意』の中から生まれます。

ユニクロのファーストリテイリングも、会長の柳井 正氏個人の発想によったものだし、ワタミ株式会社も、会長の渡邊 美樹氏個人の発想によったものです。最近騒がれる「維新の会」も、橋下 徹氏個人の発想によったものでした。破たんに近かった日産の再建はブラジル人のカルロス・ゴーン氏の発想によって再建を果たしました。「個人の力によって、個人が、神様と対峙してえた発想」によって、『正しい目的』はすえられるものなのです。


『日本人のチームワークの危険性』

付和雷同し、人に嫌われないように振る舞おうと、周りの声を恐れて行動するのが、ほぼ全員だと言ってよい日本人は、『チームワークの優秀さ』があだになり、間違った方向へと、力を合わせかねない危険性を持っています。  近くでは、そのよい例が、第2次世界大戦の開戦とその後の悲劇的な戦闘と結末でした。


≪まとめ≫

『私たちを作り、守り、導かれている神様の存在』を信じることが、もはや当然のこととされる欧米の風潮に対して、異議を唱える多くの日本人は、

20 神様が世界を創造されてからこのかた、神様の見えないご性質、その永遠的な力と神様らしいご性格は、明白に表われています;神様が創られたいろいろなものの中に、彼らは、それを気付くことができるのです。だから、これらの人たちは、何の弁解もできません。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)120節、Good News Bible, Good News Translation ROMANS1.20.の翻訳)』 とある聖書の言葉を無視するものです。

そして この 『神様の見えないご性質』は、キリスト教国の文明・文化にも表われています。この聖書の言葉を無視する考え方は、『個人にしめされる神様からのメッセージ』から生まれるもので、『付和雷同の精神』から生まれるものではありません。

私たちは、和の精神、協調性、チームワークの強靭さ を尊ぶあまり、『個人に与えられる「ほかの人に反対されるような考え」』を軽視してはなりません。

2012.8.16.)  (2014.8.24.改訂)  (2014.8.24.再投稿)


【ご注意】

私のブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時【200786日〜2014331日】に投稿したブログのうち 多く読まれたものを順序不同で 少し改訂して、ほぼ同じものを再投稿します。

その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます

今日は2012.8.16.付けのブログを 加筆し改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

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2014年08月22日

昨日から東京地方も小雨が降りだし、やっと梅雨らしくなりました。今日は、Good News Bibleで『平和ではなく、剣』と表題がついた聖書の箇所を解説します。

折から一昨日は、東大病院の精神神経科の受診がありました。10年ほど前から私の主治医である若い笠井清登医師に、私ども二人の子供たちの私たち父母に対する態度について相談し、あらためて意見をうかがってきました。これは現代の家族間のトラブルの一番大きな問題のようです。

帰りに、妻と一緒に銀座松屋の1階の売り場を歩いていた時に、この子供たちが、『何故、この10年間、毎月2万円出すとかしてでも私たちを一切、扶養しようとしなかったのか?』の理由の一つが分かりました。神様が急に教えてくださったのです。今から気づくのは遅すぎたとも言えそうですが、今まで私は、さすがにそれには気づきませんでした。そして、それに気づいて、ぞっとしました。その利己主義的な考え方に恐ろしくなったのです。


金曜日は合計3時間半しか眠っていなかったため、一昨日は11時半の消灯から連続的に深く熟睡できました。それで朝6時半に目が覚めました。何とか、この問題をブログに書こうと、ベッドでGood News Bibleを開いたとたんに、マスュー(マタイ)による福音の次の箇所が開きました。奇蹟としか言いようがありませんでした。神様がこの箇所を使って、ブログを書くようにと、私に教えてくださったのだと気づきました。それは、

34 “私(ジーザス)が平和をもたらすために世に来ていると思ってはなりません。決してそうではありません。私は平和をもたらすために世に来たのではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのです。35 私は、息子たちをその父に、娘たちをその母に、息子の嫁たちをその義母に反抗させるために来たのです;36あなたたちの最悪の敵は、あなた自身の家族の中にいるのです。(マスュー(マタイ)による福音1034から36節、Good News Bible, Good News Translation MATTHEW10.34-36.の翻訳)』という箇所でした。


神様は愛です。しかし、その愛の神様が何故、すぐに愛に満ちた社会や、愛に満ちた家庭を来させないのでしょうか? 

それは、世の中に、悪魔的な精神が満ち満ちているからです。

それは、人々がジーザスを誤解しているからです。 

そして、信者がジーザスを、自分の救い主であると熱心に信じるからです。


ジーザスの前に、『自分の誤った考え方』を悔いる心がないところに、平和は来ません。

たとえ家族の中でさえも、夫婦の間でさえも、平和は来ません。むしろ家族の中では、心のほんとうの思いが、あからさまになります。 そのことをジーザスは、『あなたたちの最悪の敵は、あなた自身の家族の中にいるのです。』と指摘したのだと思います。


【遺産がもらえることを前提にした見せかけの愛】

表面的な愛、見せかけの愛は、実は、ふつう 遺産がもらえることを前提にした『自分中心の利己的な欲望』から来ています。 あるいは単に、動物の世界でも見られる「一時的な、親にすがりたい情愛」の裏返しにすぎません。 ですから、私たちの子供たちのように、「親が死んだら、即座に『相続放棄』を届けよればよい、と心に決めているような人間には、親が借金をたくさん積み重ねてくれて、自分たちは なるべくお金を渡さないようにすることが良いことであって、それが自分たちにとっての最善の利益だと思っているのです。 

昨日(2012.6.16.)に銀座松屋で歩いて気が付いたのは このことでした。


このたび、支払わなければ、ガスを64日に止めるとの最終通告があり、妻がやむを得ず、長女にメールして2万円貸してくれと言った時も、615日の年金で必ず返してよとの約束でした。そのため、一昨日2万円を長女に返金しました。

長男とその嫁(佐知子)は、二人とも東大医学部出身の現役の産婦人科医で、二人の娘がいます。長女(恵理花)は、同じく東大薬学部大学院卒で私立大学薬学部助手(2014年現在助教授)、東大薬学部大学院卒のクラスメートと結婚し二人の娘がいます。そして、社宅に住んでいます。この私たち二人の子供の母親【妻、輝子】は、40年間、慢性関節リュウマチで苦しむ身障者1級の身体障がい者で、今も病気がちであり、私どもには、貯金も財産も皆無になりました。 そして、年金暮らしの苦しい生活をしています。それをとっくに知っていながら、二人とも、私たちには、よりつこうともしません。特に長男の嫁などは、逆に私たちに自分たちが出したお金を、 貸したお金だと言いはって、全部【2014年現在80万円くらい残っていると 増額して自称。】返せと また言ってきてきました。


【こんなことが起こる理由】

なぜこんなことが起こるのかと言えば、それは要するに、旧約聖書、新約聖書で教えられている考え方を まったく理解していないからです。 『父と母を敬え』というのは、モージズ(モーゼ)の十戒の一つですが、もちろん、その教えにも反しています。 


≪まとめ≫

ジーザスの考え方からしても、聖書の教えからしても、子供が、困っている親を助けることは、至上命令です。 お金があるのに扶養拒否などはとんでもないことです。それは、ほかの宗教や、儒教など ほかの多くの倫理観でも支持しているところだと思います。

それを『親の扶養は政府や自治体が公的に行うのに任せればよい。』、『自分たちには自分たちの生活がある。』と考える間違った考え方によって、逆に、公的な助成、公的な福祉制度を子供たちが 悪用していることになります。本来なら子供たちが払うべきそのお金をたいへんだろうから と国や自治体が一部助成してきているにすぎないのに、『年金その他でやっていけるはずだ。』とか、『自分たちには親を助ける義務はない。』と考えるのは、結果的には 国からのお金を 自分たちがせしめていることになります。 

だからこのことは、大きな反社会的な行為でもあります。

またそれは、『人は困っている人を助けるように』という神様が決めた、ジーザスの本来の考え方にも まったく反しています

私どもの例だけではありません。日本の社会で今 盛んに行われている、『日本人の親不孝』は、みなこのようなものです。 それは『親殺し』の一種です。それは、一言でいえば、神様に対する不信仰から出たものなので、国をほろぼす 非常に憂うべきことなのです。

2012.6.17.)  (2014.8.22改訂)  (2014.8.22.再投稿)


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2014年08月20日

ギリシャ語で聖書を読むのが一番良いと思っている日本人が圧倒的に多いようです。新約聖書はギリシャ語で書かれているので単純に、それなら、

その原典で聖書を読むのが一番正確なはずだとか、正しく解釈出来るだろうと考えるのは、愚かで単純すぎます。日本で、この傾向が特に強いのは、何故か日本人が皆、学者に弱いからです。ギリシャ語で読むことが学問的で正統(せいとう)だと思ってしまう。たしかにギリシャ語の専門家が、新約聖書の原典を翻訳するのは彼らのつとめです。Good News Bible, Good News Translationでも、聖書学者や語学者がギリシャ語原典なりヘブライ語写本を参考にしているようです。しかし、いくらギリシャ語などのあらゆる辞書を網羅(もうら)して聖書を翻訳しても、当時使われていた言葉のニュアンスなどは、もう決して、絶対に分かりっこありません。


私が無教会主義の集会に出ていた頃、そこでは、しきりに説教者が黒板にギリシャ語を書いて見せました。皆は感心して、やはり先生は学があるのだと思ったことでしょう。でも、教会をコイノニアというなどと教えられても、何の益もありません。めんどうで無益な言葉の知識が入るだけです。ギリシャ文字をひけらかされて、わずらわしく有難迷惑でした。


欧米では、大学でギリシャ語が必修ですが、それは聖書をよく理解するためではありません。西欧の文化の基礎にギリシャ思想があるから、それらの本を理解出来るようにと、ギリシャ語を必修の古典文学として読むのです。


聖書をその精神まで良く理解する為に必要なものは、ギリシャ語ではありません! 必要なのはただ一人である神様への愛と尊敬と信頼だけです


日本のキリスト教界のほとんど90%の人は、ギリシャ語を振り回されないと尊敬しません、逆にそれを知っているように見せると、バカな信者から尊敬されます。

「だからギリシャ語を学ぶのだ。」というのは、妙な事です。『人から尊敬されたい為にギリシャ語を勉強するのですか??』 『ギリシャ語の専門家でない素人(しろうと)が原典で読むと、なにか有益なことがあるのですか??』 私には、さっぱり分かりません。


同じような事が、Good News Bibleに対する牧師たちの評価でも言えます。日本の諸キリスト教界では、Good News Bibleは悪い聖書だと言われています。次第に変わるでしょうが、欧米人牧師でもそう言う人が多いそうです。これは、まあ迫害の一種です。Good News Bibleを、牧師が盛んにアンチョコとして使っているのに、既存(きぞん)の世界のキリスト教界から、「一般信者は読むな。」と排斥されているのです。その理由は、Good News Bibleには、「解釈(かいしゃく)」が入るからということのようです。これは松田繁雄さんから教わりました。

もっと うがった見方をすれば、Good News Bibleは分かりやす過ぎて、これは聖書ではないと言った欧米人牧師がいるそうです。何故かと聞いたら、聖書というものは、ほんらい分かりにくいから聖書なので、分かり易ければ聖書とは言えないと言ったという、笑えない笑い話があります。


日本の99%の牧師たちは、Good News Bible, Good News Translationを良くない翻訳だと言っています。、これにたいして、ある欧米人神学者によると、Good News Bibleを読まれてしまうと 教会で説教する種(たね)が無くなってしまうから困るのだそうです。聖書が分かりにくいからこそ、教会に毎日曜日来てもらって、聖書の解釈を教えるのだそうです。つまり分かりにくい聖書は、説教者の『飯の種』になっているのです。


Good News Bibleを批判しない点で、日本福音ルーテル小岩教会の松田 繁雄牧師は例外中の例外です。彼はGood News Bible, Good News Translationを高く評価しています。私に、貴重だから、マークによる福音から翻訳するようにと勧めているほどです。


≪まとめ≫

聖書はギリシャ語を勉強すると、よりよく理解できるものではありません!Good News Bible, Good News Translationがすぐれているのは、ギリシャ語の原典を独特に翻訳したからではありません。 聖書の精神を全体的に理解し、丁寧に、少しの矛盾もなく、ジーザスの考え方に合うように、また不明確な翻訳も無いように、文脈を生かし インスピレーション(聖霊)を持って、これを独創的に、創造的に解釈・翻訳したからです

2010.7.1.) (2014.8.20.一部改定) (2014.8.20.再投稿)


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2014年08月19日

皆さん今晩は、私はこのところ、夜も熟睡できず、身体がとても弱っているのを感じています。そこで、昨日23時にベッドに入って、すぐに寝つけはしたのですが、

1250分にはお手洗いに行きたくなって起床してしまいました。そのあとベッドに入ったのですが、まったく眠れそうにないので、新共同訳聖書を開きました。そうしたら次のところが開きました。そこでそれをGNTで読み直してみました。 私の翻訳が、適切かどうかは、わかりません。しかし、これは私の心の中の言葉が読んだのです。


わたしたち信仰において強いものは、弱い人たちが重い荷物を運ぶのを助けなければなりません。私たちは、私たち自身を喜ばせてはなりません。2 そのかわりに私たちはみんな 私たちの兄弟が、良くなるように喜ばせるべきなのです。それは、彼らの中に彼らを信仰(神様への信頼)において成長させるためです。3 なぜならクライストは自分を喜ばせませんでした。かえって、聖書にあるように“あなたに向けられた非難の言葉が、私にふりかかった。”と聖書に書いてあります。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)151から3節、Good News Bible, Good News Translation ROME15.1-3.の翻訳)』


私はこの3節に目が釘付けになりました。ジーザスは、自分が、人々に非難されるのをじっと我慢した、信仰によって我慢したということでしょう。その神様をきらっている心が、人は人々は、私に向けて、私を非難しているのだということでしょう。【サーム(詩篇)6910節b】。

もちろん、ここの人々や人は信仰において弱い人たちです。その弱い人たちが、神様を、嫌い、神様をないがしろにする、その心を 私たちはじっと我慢する。それが、かえってそれらの信仰において弱い人たちを 良い方向に導く一番良い方法だということなのでしょう。


≪まとめ≫

私たちが、迫害(はくがい)、いじめ、毛嫌い、そういうものに出会った時に、まず私たちは それが神様へ向けられた非難の心が自分に向けられたのだと気が付かねばなりません。私たちは、信仰によってジーザス(イエス)がそうであったように、また昔の預言者【サーム(詩篇)69篇ではデイビッド(ダビデ)とされる】が、いつもそうであったように、神様への信仰によってそれに耐えなければならないのです。

信仰(神様への信頼)において強い人が、弱い人の弱さのためにひきずっている重い荷物を いっしょに運んであげるということは ここのポール(パウロ)の場合、そういう意味だったのです。

2014.8.19.

2014年08月16日

発熱が完全にはおさまらず、私を尖った槍でさし殺すという怖い夢を見て、寝苦しい夜をすごし午前8時に目が覚めました。聖書を読もうと聖書をあけたら

1テサロニケ51622節が開きました。10数秒間読んだだけで 心が軽く楽しくなりました。新共同訳聖書でも感動出来る箇所は沢山あります。同じところをGNTで読み直しました。“16 いつも喜んでいなさい、17 どんな時にも祈りなさい、18 あらゆる境遇で感謝していなさい。これが、キリスト・ジーザス(イエス)と一つになった あなた達の生活の中で 神様が求めておられる事なのです。19 聖霊を止めてはなりません。20 インスピレーションを受けて出来た話を軽蔑してはいけません。21 すべての事をそれでテストしなさい:良いものを守り続け 22 そしてあらゆる種類の悪を避けなさい。(1セサロウニアンズ(テサロニケ人への第一の手紙)51622節、Good News Bible の翻訳)”


これは、私たちへの日常の大切な薦(すす)めです。

1.いつも喜んでいなさい、

2.どんな時にも祈りなさい。

3.あらゆる境遇で感謝していなさい。

3つは、毎瞬を楽しく過ごすために、非常に大切な心構えです。

4.そして、19節に 『聖霊を止めてはなりません。』とあります。

私たちは聖霊と神様の声を聞いて 本当の事を忘れずに守らなければなりません。言ってみれば、アイディアが出たら逃さず書き留めなさいという所でしょうかね。

5.そして5番目に『インスピレーションを受けて出来た話を軽蔑してはいけません。』とあります。

良い事は、インスピレーションを通して神様から出ています。ですから 大切に守らなければならないのです。神様は あらゆることに関与していて、イエスを信じていない人から出ても 文化・文明、科学・学問、芸術などなど 良いものは良いのです。真理は真理なのです。

逆にクリスチャンから出ても、悪いものは悪いのです。悪いものと分かれば 遠ざかりましょう。そうすれば時間の無駄も ストレスも減ります。


≪まとめ≫

聖書には 非常に実際的な知恵・戒めが書いてあります。 神様への信頼を持ちながら読めば、聖書は最重要な本、人を生かし、人を慰める最高の書物だと言われるわけです。

2007.9.1.) (2014.8.16.加筆) (2014.8.16.再投稿)


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2014年08月15日

“神様にだけ劣るものとして、神様は人々を造り 栄光と誉れを冠として与え、あなたが造られたすべてのものを治めるようにされ、彼らを すべての創造物の上に置かれました。”

(詩篇8篇5〜6節、Good News Bibleの翻訳)”とある記事は、ほんとうのことを言っています。

これは創世記12629節と同じ 有益な信仰です。

しかしこの5節は、今までの聖書では“神にわずかに劣るものとして”(新共同訳)とか、 “あなたは人を神よりいくらか劣るものとし”(新改訳)と翻訳してあります。しかし、『神にわずかに劣る』とか人を神よりいくらか劣る』いう訳は不適当です。人は、わずかにではなく相当に根本的に神様より劣るからです!ここは、人は、そのつくり主である神様の心にしたがうべきものであることを言っているのでして、これを読んで、『わずかに』とか『いくらか劣るとして 人が神様の前に高慢になるのは、考えが逆で 間違っています。

なお、Good News Bible以外の ほかの英文聖書でも、「天使より少し低い(NKJVNIV)」、とか「神より少し低い(NRSV)」と翻訳してあります。

しかしGood News Bibleでは、はじめに書きましたように、ここを『5 しかしあなた(神様)は人をただあなた(神様)にだけ劣るものとして造られました。(サーム(詩篇)85aGood News Bible, Good News Translation PSALMS8.5aの翻訳)』 と翻訳してあります。 これなら問題はありません。


さて、そんなふうに人が高慢だったから、 アダムとイヴが、神様に食べるのを禁じられていた『禁断の実』を 蛇に誘惑されて、神様のようになれると思って食べたのですね? そのため、人は神様によって楽園から追放され、 苦しい生涯を送るようになった【創世記319節】と 聖書の神話には書いてあります。


【人が神様からはなれたことによる 苦しみ】

1.神様を離れたことによる 第一の苦しみは、『自分たちが神でない たんなる動物に過ぎないことを 人に知られたくない。』という思いです。

そこで 自分の裸を恥ずかしく思って、アダムとエヴァは、葉で、その性器を覆(おお)いました(創世記37節)。

自分が動物であることをみとめたくない、神と同じようでありたいというプライドが許さないのでしょうね?


食欲と性欲を隠すためには、  『武士は食わねど、高楊枝(たかようじ)』とか、

『自分はセックスに淡白な人間だ。』という 振りをするかになります。

そして、そうでない人を非難するようになるのです。


2.次に、自分が勝手に立てた 『神様の心から離れた 勝手な人間的な計画』を どうしても達成しようと、がむしゃらに働くようになりました。

これが『額に汗して働く。』のが神様からの刑罰(けいばつ)として、神話でしるされている(創世記319)理由です。 今で言う、働き過ぎですね。

その結果は、過労死か うつ病か、不健康な生活か、無駄な人生とか、絶望です。


≪まとめ≫

「聖書の不適当な翻訳」への報い(むくい)や、「神様の心に反した高慢(こうまん)への報い(むくい)」は、怖い(こわい)ことですよね。

2007.8.27.)  (2014.8.15.改訂)  (2014.8.15.再投稿)


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今日は2007.8.27..付けのブログを 加筆し改定して再投稿しました。投稿日は変えていません。

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2014年08月14日

日本語聖書の翻訳に不適当な翻訳があまりにも多い中で、「罪【つみ】」「罪びと【つみびと】」という翻訳語くらい後世に禍(わざわい)を残している翻訳はないと思います。

これ(英語ではsin)はとても日本語への翻訳がむつかしい言葉だからでもあります。しかし日本語では「罪【つみ】」は、犯罪(crime)という意味も持っているから 困るのです。

この翻訳が、大きな禍(わざわい)と大きな誤解を、現在に至るまで日本人に及ぼしています

さらに、この翻訳語は、不要な「うしろめたさ」と、むやみに互いに批判し、断罪し合う 「醜いこころ」も生じさせました


英語で「sin」と言えば、このような意味は まったく ありません。そのため日本語で起こるほどの深刻な問題は生じません。

『「sin」とは、英・英辞典で見るかぎり、「神様や宗教的、道徳的な律法に対する違反OXFORD英・英辞典)」』 と 一様に書いてあります。 また牧師や宣教師も同じように言います。 したがって英英辞典で見る限り英語の「sin」の意味も、ジーザスが意図している意味とは、大幅に違っているのです。


sinの原語(ギリシャ語)の本当の意味』について

もう 何十年も前のことになりますが、私は、矢内原忠雄から直接、「sin」の原語、ハマルチア【ギリシャ語】は、「的はずれ」という意味だと教わりました。 これは、矢内原忠雄著:ロマ書講義、罪の問題2にも 記されています。


sinに対する私の見解』

これから記す 「sinに対する 私の見解」は、したがって、全世界的な深刻な問題でもあります。そこでブログにもかかわらず、少し詳しく、でも、なるべく簡潔に書きます。

sin」とは、人の「いろいろな間違った行いや誤った考え方や、人の失敗」について、神様に対して申し訳ないと感じた時に自覚されるものですしたがって私は、ジーザスが指摘しているsinのほんとうの意味は、「神様に対して申し訳ないこと」という意味だと思っています。


人の「失敗」も、それに含まれます。「sin」「スィン・罪」とは、神様からの命令とされる「戒律」や「律法」、「法」、「きまり」に反する違反の形を言うのではありません。それは、違反の行動ではなく、違反する心の問題なのです。


また、sin」は、ほかの具体的な人に対して、その行動や考え方や心が「sin」であると指摘したり、断罪したり、判断したりするものではなく、まずは、自分が自覚して、神様に対して申し訳ない自分」を意識した時に成立するものだと、私は考えています。


もし、それ(sin)を一般のほかの人に対して指摘するなら、それは彼らの 神様に対する不信仰な心を警告するためのもので、「神様を愛し神様を賛美し、神様の力を信頼しないから、そのような不適当な行いをするのではないか」という指摘、でしょう。


sinの翻訳』

この「sin」を、日本語で どう翻訳したらよいかについて、私もずいぶん悩み続けました。一時は、妥協として、「sin」を「スィン・罪」と翻訳してきました。 しかし、どうも、それも、ピンときません。何故なら、その中に「罪【つみ】」と言う語が入っているからです

そこで、今回考えましたのは、英語「sin」の翻訳として、「神様の前でのあやまち(過ち)」、「神様に対してした申し訳ないこと」という翻訳が一番ぴったりすると考え付きました。

しかし、この言葉は長すぎすよね。そこで、sin」は、日本語にない言葉なので、カタカナ英語でたんに「スィン」「スィンをおかす」と翻訳するしかないと思うようになりました。


キリスト教界での「スィン・罪」の使われ方

日本の教会で使われている「主の祈り」という文章(祈祷文)があります。 これは、キリスト教界の人たちは、何も疑問を感じないで、習慣的に唱えている「文章」です。

ここで、1662年に作られた英国国教会(イングランド国教会)の「主の祈り」の英文に着目したいと思います。 それには、「私たちの過ち(tresupass)をゆるしてください。(日本語に翻訳―花田 桂一)」とあります。 trespasssinより、わかりやすい、広い意味があります。

私が知る限り、それ以外の「主の祈り」のこの部分は、すべて、私たちのスィンをゆるしてください。と書かれています。


このイングランド国教会の「主の祈り」は、マスュー(マタイ)による福音69から13節の翻訳文の影響を受けたものです。いっぽう、世界中で現在、一般的に使われている「主の祈り」は、ルーク(ルカ)による福音112から4節の翻訳の影響を受けて作られています。


≪むすび≫

sin」を「スィン・罪」とするか「過ち」、「神様の前でのあやまち(過ち)」、「神様の前にした申し訳ないこと」とするかは、大した問題ではないとお考えの方もいるかと思います。意味が分かってしまっちる人には「罪」でよいかと思います。そうでない人や、初めてキリスト教の聖書に接する人にとっては「罪」は、誤解のもとになります。「罪」は、犯罪をにおわせる観念的な言葉ですが、「(神様に対する)過ち」、「神様の前にした申し訳ないこと」は、実際的で具体的です。


この観念的か具体的かの違いは、信仰を生きたものにするか、死んだものにするかの違いさえ生みますから、事は重大なのです

このように、日本語にない考え方でできた言葉を簡潔に表現するには、カタカナ英語で「スィン」と表記するのが一番良いと思います。 そしてそのほんとうの意味を 日本語てして定着させるしかありません。下手な翻訳語を使うと、誤解が起こるからです。


神様の前に自覚する私の失敗や間違いは、かならずしも 人が私に対して指摘する失敗や過ちとは違います。いや全然違うと思います。

それは私自身が、神様の前に考えて気づく、私のの弱さ、私の過ち、神様に対する申し訳なさなのです。それは、私の「スィン」を神様に、泣いて詫びる言葉なのです。


『サーム(詩篇)の例で補足説明』

サーム(詩篇)4012から13節に、GNTで表題に「神様の助けを求める祈り」として、次の詩があります。

12 私は、たくさんの悩ましい難しい問題trouble】に囲まれています。―それは、あまりにも多くて、数えきれないくらいです!私のいろいろなsin(スィン)は、わたしを捉え、私はもはや、いろいろなものを見ることすらできません;それらは、私の頭の毛よりも多いのです、それで私は、すっかり気力を失ってしまいました。13 私を助けてください、主よ!いますぐわたしをたすけてください!(サーム(詩篇)4012から13節、Good News Bible, Good News Translation PSALM40.12-13.の翻訳)』

これはとても深刻な悩みで、いわゆるスィンの意識に圧倒されて、心が身動きもできなくなり、絶望の悩みのふちに置かれた状態にいると言ってよいと思います。

このサーム(詩篇)4012節前半のGNTで、たくさんの悩ましい難しい問題と私が訳したtroublesは、NIVGNTでは「troubles」ですが、NKJVNRSVでは「evil」、新改訳聖書では「わざわい」、新共同訳聖書では「悪(たぶんevilの翻訳)」となっています。

つまり、新共同訳聖書で サーム(詩篇)4012から13節を見ますと

12 悪は私にからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪にとらえられ何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く、わたしは心挫けて(くじけて)います。14 主よ走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。(詩篇4012から13節、新共同訳聖書)』と翻訳してあります。

NKJVNRSVも、ここは不適当な翻訳だと思いますが、最も重要で不適当な翻訳は、冒頭に「悪は」としている点です。

なぜ不適当かと申しますと、ここで読む人にsinスィンは、「悪」に等しいとの先入観が植えつけられるからです。「」という言葉は、複雑な意味を持っている言葉です。しかし、少なくとも、道徳的に悪いというニュアンスが ここにあることは否めません。


≪まとめ≫

sin」は、「道徳的に悪い」という意味よりも、神様の前で、弱い、申し訳ない、神様が求めていらっしゃることを、うまく実行できない、その自分の神様に対するお申し訳なさを 私の「スィン」と言いあらわしたものです。

「道徳的に悪い」ということは、えてして「人様に対して恥ずかしい」というような意味も含んでいます。それで、「神様に対して悪い、神様に対して申し訳ない」という意味から外れがちです。

ですから、「sin」は、「神様の前でのあやまち(過ち)」とか「神様に対する 私の申し訳なさ」と解釈し、簡潔には「スィン」と翻訳するのが、適当だと思います。

2013.8.29.) (2014.8.14.に改定)  (2014.8.14.再投稿)


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2014年08月13日

『友のために命を捨てる』のが果たして一番大きな愛なのでしょうか? この聖書のヨハネによる福音書15章13節の言葉が 日本で大きく誤解されているようです。

これはイエスが十字架の上で殺された事実をどう見るかにも微妙にかかわってくるので キリスト教界の根本問題に繋がる 大きな問題です。

日本には、昔から武士道(サムライ・スピリット)を尊ぶ思想があり、切腹、自害、神風特攻隊精神を受け入れる素地があります。そのうえ「人の世話になるくらいなら、死んだほうがましだ。」というような世俗的な人生観が根強くあります


聖書からの思想が伝わる欧米には それらは、まったくありません。

日本ではおまけに 自分を犠牲にする行いを尊びます。そこに、欧米から聖書が入ってきたので、こういったジーザス(イエス)の精神とはかけ離れた思想の部分が強調され、それをもとに日本語に聖書が翻訳されました。


その極端な例を挙げますと、ヨハネによる福音書15章13節に『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(新共同訳聖書)』と翻訳された部分です。ここは、イエスが十字架の処刑に遭うことに集中して言われ書かれたことを知って読む必要があります。


そもそも、「命」と訳した英語の「life」には、命、生活、生涯、一生という4つの意味が、同時に込められています。日本語で「命」というと「肉体的な生命力」のことしか、大方の人はイメージ出来ません

そこで私は この危険な箇所を、『13 その友たちのために人が持つことが出来るもっとも大きな愛は、その人たちのために、自分の人生をささげることです。(ジョン(ヨハネ)による福音1513節、Good News Bible, Good News Translation JOHN15.13.の翻訳)』 と私は翻訳しています。


≪まとめ≫

ジーザス(イエス)の福音は 、むしろ私たちが お互いに愛し合うようにとの教え(たとえばジョン(ヨハネ)による福音1512節)で満ちています。互いに肉体的な生命力を捨てあって愛し合うのではありませんね?

それは、「わたしたちの全生涯をささげる。」 あるいは「自分最優先の心を持たないで、愛し合う。またはたんに、自分の損得を忘れて人を愛する。」という意味に過ぎませんよね?

このように聖書の翻訳とその解釈が間違っていると、後世に与える被害は計り知れません。戦争も起きます。高齢者、弱者もさげすまれます。 高齢者、弱者はその命を捨てればよいのですからね。

世界でもそうですが、特に日本で この種の間違いが激しいのは、日本で古来から伝わってきた 武士道、仏教、神道、儒教思想の影響が大きいためと思われます。

2007.8.18.)  (2014.8.13.加筆改訂)  (2014.8.13.再投稿)


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2014年08月12日

先週の土曜日の夕暮れ、甲州街道を車で下って帰宅する途中、前方の大きな並木の切れ目から、真っ青な空が見え、そこに、美しいオレンジ色を帯びた大きな雲が

二つ浮かんでいました。私はそれを見て、神様は必ず、これからの私の生涯を恵み、祝福してくださるに違いないと確信しました。私はそこに『私に対する神様の愛』を見たからです。それで嬉しくなりました。

今後の私の生涯が祝福されるという具体的な理由も、直接的な理由も、何もありません。しかし、何故か、その 今まで見たこともない、そのきれいに輝く不思議なオレンジ色の雲を見て、私は、それをさとったのです。 今まで学んできた「神様の言葉」が、ひきおこしたことは確かです。 それは、私に対する神様の約束でした。


信仰とは、直観だと思います。目に見えるものを信じるのではなく、目に見えないものを直観し、確信するのです。 それは、一種の洞察のようなものだと言えます。何も目には見えていませんが、何かが、私たちの心の中に、霊的な感動をひきおこすのです。


【奇蹟について】

その、目に見えない感動の経験を言葉に表そうとした時、そこには、どうしても、ファンタジーの世界のような表現も、当然生まれてきます。それを「幻想」と言ってバカにする人もいます、「キチガイ」だといって非難する人もいます。しかし、それは、霊的なものを知らない「愚かしい人たち」の言いふんだと思います。

たとえば、『神様が私と一緒に居てくださった。』というような表現にしても、実際に、神様という目に見えないものが、私のそばに居てくださったことを 科学的、物理的に証明することはできません。 ですから、その状況を ほかの人が見ることもできません。それを「ファンタジーではない言葉」でどう表現したらよいのでしょうか?人は、ただ私の顔や表情やしぐさの中に、信仰の喜びを見て取れるだけになると思います。


モウジズ(モーゼ)が、火がついた茂みの中で、主(しゅ)(神様)の存在に気づきました。『2b 茂みに火が点いていました。でも、燃え上がってはいませんでした。(出エジプト32節b、Good News Bible, Good News Translation EXODUS3.2の翻訳)』と 旧約聖書にあります。

そして、モウジズは神様の声を聴いた(同4から8節)のです。

もちろん、この場合、実際に茂みが燃焼していたわけではありますまい

たぶん真っ赤な夕日の輝きを受けて、あたりや木々がオレンジ色に輝いて見えたのでしょう。その輝きを見て、モウジズは、それを神様がつけた火と直感したのです。つまり、霊的な目で神様を実感したのです。そして、神様からの直接の言葉として、言葉が浮かびました。そういう、言葉では言いあらわしようがない信仰的な感動を覚えた時、彼は、神様の実在を実感し、確信したのでしょう。 それを言葉で的確に言いあらわそうとした時、この「出エジプト」に書かれているような幻想的な光景として言い表わすしか表わしようはありませんでした。

それを、後世の、『意地の悪い,石頭の論理哲学者たち』から、そんな超自然的な現象が科学的に起こるわけはないと言って、「うそつき」扱いされるのです。


聖書に記されている「奇蹟の数々」の証言も、皆このような、表現になっています。そして、不信仰な人たちや、科学者であることを威張っている、浅薄で、愚かしい人たちから、誤解され、軽蔑されます。あるいは逆に、キリスト教原理主義の人たちや無教会主義者の石頭(いしあたま)の人たちは、私が「ファンタジー」、「幻想」というと、聖書に書かれていることは、文字通りにあったことで、絶対に幻想ではない!と叫んで激しく怒りました


「奇蹟の記事」は、大げさと言えば大袈裟です。誇張と言えば誇張です。しかし、私たちは、そこに、当時の人たちの「信仰的な、霊的な大きな感動」があったことに気付かなければなりません

ジーザスを救い主と信じ、神様を愛の神様と信じるためには、この「信仰的な感動」が欠かせないのです。


【信仰と論理】

『ほんものの信仰』を作り出すために、あるいは、『ほんものの信仰』を呼び起こそうとして、論理を使う人たちがいます。でもその試みは、『頭だけの信仰』を作り出すだけのことが多いので、非常に危険です。

たとえば、神様の一人息子である救い主ジーザスが、十字架の上で『私たちのために死んだ』と人々は暗記しています。ただ、「ために」の意味は誤解されています。

だからジーザスが代わりに罰を受けたのだから、私たちが、今まで犯した罪・スィンは、すべてゆるされ、これから犯す罪・スィンもゆるされるのだという『論理的な信仰』を作り出すのです。これは危険です。人は、頭で信じて救われるわけではないからです。 そうではなくて、心から信じることが必要なのです。

ただし、「心から信じた」と頭で思い込むことは、もっと危険です。

『言葉の論理』の筋道、『言葉のまやかし』を覚(おぼ)えること、いわば、そういう『言葉の遊戯』をすることで、私たちが救われるわけでは、決してありません!!


言葉の論理は、聞いていて、暗記が出来、それを頭で繰り返せますから、愚かしい人には、わかりやすいわけです。 それは、さも何か、学問的で、冷静で、理性的で、科学的なことのようにすら思えて、それで頭で共感を覚え、理解するのです。


しかし、そこには何らかの 『(にせの)論理』があります。 ちょっとみると、学問的で、科学的で、理性的で、ほんとうの事のように見えるのです。ですから、こういう言葉の論理は、思い込み』を人に与えやすいのです。「神学」の大部分は、これです

でも、『信仰』とは、そういうものではありません。信仰とは、霊的なものなのです。


世の中には、「薄っぺらな論理」が、横行しています。そういう論理の特徴は、まず言葉を定義します。それを学ぶ人は、その言葉を その定義からはみ出させることは許されません。そして彼らは定義された専門用語をたくさん考え出すのです。それが薄っぺらな論理の特徴だと思います。 そして、専門用語をたくさん使って、そういう論理を積み重ねてゆくのです。


≪まとめ≫

私に神様が現れたことは、まさしく、ほんとうにあったことです。しかも、それは神様が 一方的になさったことであることも間違いありません。つまり、それは、私の思い込みではなく、幻覚でもなく、ほんとうの事なのです

しかし、私のその表現を文字通り、機械的、物理的に起こったこととして、とらえることは間違いです。それは、霊的な体験だからです

私のファンタスティックな信仰的な体験を、私は物理現象として、言葉で説明したくありません。「信仰のほんたい」を「言葉の論理」で説明することは、不可能だからです。「信仰」とは、霊的なものなのです

2012.8.27.)  (2014.8.12.に補足改訂)  (2014.8.12.に再投稿)


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2014年08月11日

新共同訳聖書のイエスの言葉に『人を裁くな。』という有名な「翻訳」があります。「これこそイエスの教えの基本だ。」と思い込んでいる人も多いでしょう。

これはGood News Bibleでは、ルークによる福音6章の『他の人たちを判断する事』と題した個所(37節)にあります。

つまり、『他の人たちを判断(judge)する事: “37 他の人たちを判断してはいけません。そうすれば神様はあなたを判断はしないでしょう;他の人たちを非難(condemn)してはいけません、そうすれば神様はあなたを非難しないでしょう。;他の人たちをゆるしなさい、そうすれば神様はあなたをゆるすでしょう。”(ルークによる福音637節、Good News Bible, Good News Translation,LUKE6.37の翻訳)です。

同様な言葉は、マスューによる福音71から5節にもあります。今日は、ここを従来の日本の聖書注解書には書いていない読み方をします。


「ほかの人を判断する人」は、たいした知識も、根拠もないのに、ほかの人をこうだと決めつけ、思い込んでしまうのだと思います。

私は長年、工学上の真理の探究に苦心していましたから、すぐに仮説を立てる癖がありますその癖が、しばしば思い込みと疑心暗鬼を(ぎしんあんき)生みます。そこで、たいした知識も根拠もないのに、私には人を決めつける悪があります。おかげで人にだまされ易くもあります。


一般に、人を非難する心は、同時にそういうことをしている自分を後ろめたく思うこころにも通じます。人を讃え誉めるこころは、そういう事を自分が目指しているわけですから、多少、それを自分が達成したと思えれば、安心して自慢するこころにもなります。


ここでジーザスは、一つには軽々しく人を判断したり、ほかの人をすぐに称(たた)えることを、『人を判断する』つまり、『to judge others』と言ったのだと思います。


日本語の聖書では、不幸にも、『人を判断する』を、金太郎飴式で、皆、『裁く(さばく)』と翻訳しました。 この翻訳から、色々な誤解や悲劇が生じました。英語で「judge」 には、「良い悪いを評価する、あるいは勝ち負けを評価する」の意味もあるのに、日本語では「裁く」ですから、「一種の裁判官として、裁く」という意味合いが感じられます。『人を裁く』ということばは、日本語では、ほぼ【裁判用語だけ】に使われる言葉なので、かなりきつい表現になります。


【人から、裁かれている私。】

実は、私は、無教会主義者を始め、多くの人たちから、『花田桂一は、罪の意識が薄い。』と非難されています。

1.この事は、一つには、私が臆すること無く、いろいろ主張するからだと思います。それは、「常識・良識がある人は、決してあんな風には言わないし、あんな風にはしない。」という非難がこもっています。

2.また、私は自分の罪が神様にゆるされたと言って、喜ぶからだと思います。あんな「罪深い行いをする奴が、神様にゆるされるはずはない、だいいち、行いが良くなっていない、だから、悔い改めてはいない。「ゆるされた。」なんて言うのは、「独りよがりだ。」と思うからでしょう。

しかし、このように言って私を非難する人たちは、逆に「自分自身、私がしたり、言ったりするような事は決してしない。」のでしょうから、花田桂一みたいな事を言ったり、したりするのは、『恥(はじ)だ。それは罪そのものだ。』と考えているに違いありません。


人への非難は、その人の罪悪感、つまり罪とはなにかに対する考え方をあらわしています。ですから、ほかの人を非難する仕方で、その人が「悪い事とはなにか。」「罪とはなにか。」を、どうかんがえているかがわかるのです。

逆にある人を高く評価することで、その人が、どういう事を望ましいとかんがえているかもわかります。

ほかの人を評価し、あるいは非難し、判断する仕方を知れば、その人が、価値をどこに置いているかがわかるのです。こわい事です。


ところで、ジーザスが『ほかの人たちを判断してはいけません。』と言ったのは、つぎの3つのためです。

1.事情や知識もなしに「人を判断」してはいけないという事。それは愚かなことだからです。

2.軽々しく価値順位を決めてはいけないという教え。

3.それには自分が、「それと同じ判断基準で神様から判断されるぞ。」ということをも含んでいると思います。たとえば、ひごろ貧しい人を軽蔑していれば、自分の経済的に貧しい部分に気づけば、その人の自尊心が傷つけられます。 神様から 自分が軽べつされているとおもうからでしょう。


≪まとめ≫

聖書の言葉の翻訳の仕方が 違うと、人々にまったく違った「聖書の解釈」をさせることになります。こわいことです。

「人を裁くな」という日本語聖書の翻訳のために、日本のクリスチャンは、「判断」なら良いと思って、やたらに、勝手に判断する癖(くせ)がついてしまいました

2010.6.25.) (3014.8.11.一部改定)  (2014.8.11.再投稿)


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2014年08月10日

男女が交際したがり、恋し合う 私たち人間を 聖書がどうとらえていたかを 解釈が難しい「聖書のことわざ」30章で見てみます。

18 すごく神秘的過ぎて 私には、何故、そうなるのかが分らない事が4つあります: 19 空を飛ぶ鷲(わし)、岩の上を動く蛇、海を走って航海して行ける船、そして、 男女が恋し合うこと。 20 夫に忠実に仕えない妻は;姦淫の罪を犯してから、風呂に入り、“でも 私は、何も悪い事はしてはいません!”と言うのです。』(聖書のことわざ(箴言)301820節、Good News BibleGood News Translation  PROVERBS30.18-20の翻訳)とある部分です。

ここは解釈が 非常に難しいところで、しかも重要な箇所です。


神秘的過ぎるというのは その理由を いくら考えても分らない、「自然」として説明は出来ても、その「自然」がなぜ起こるのかが分からない、驚くと言っているのです。

その裏には『神様がなさっている!』という意味が込められています。


この4つは 良く見かける事ですが、神秘的な現象だと作者は言います。20節に 4つ目の具体例を書いた事で、作者は「男女が恋し合う事」を言いたくて 前の3つを挙げた事が分ります。性的欲望は子孫を作るためにあると考えれば すぐ納得はできます。しかし、事実はどうも そう簡単ではありません。  


その例として、夫がいて 子供を作る必要からとは思えない姦淫・婚外セックスの例を ここでは挙げました。『配偶者でない異性とも 仲良くしたい気持ち』は 人の強い本能的な欲求なのです。 それが、戒律や戒めや慣習や法律で禁じられていても、この欲望は消しがたいのです。


もっとも20節を読み、 これこそ姦淫の戒め、婚外セックスを責める記述であるとし、「人間の罪は だから深いのだ。」と罪と結び付けて考える人が 現在でも とくに日本では圧倒的多数です。

しかし『聖書のことわざ』の作者は、これを「人の自然な現象」と見て、 スィン・罪として非難するのではなく、「神秘的だ」としました。


ですから 18節の神秘的過ぎて(too mysteriousGNT)は、他の英文聖書の、非難がこもった「理解できない。」よりも、さらに良い翻訳です。「理解できない。」とは、「自分には、そういう欲望は無い。」という意味ですよね?でも、それは「性的欲望の強さ」という事実に反した主張で、ウソですよね?その為、GNT以外の英文聖書では、意味がつながらないと考えてでしょうか 19節と20節の間を1行空けています。


新共同訳聖書の20 そうだ、姦通の女の道も。」として19節までと 20節とをつなげたのは 非常に良い解釈だと思います。


≪まとめ≫

日本のキリスト教界では、もうそろそろ 性的欲望の事実を正視して、恋愛についてもっと精神的なものとして、祈りをもって解釈してゆかねばなりません。

2007.10.19.)  (2014.8.9.加筆)  (2014.8.10.再投稿)


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2014年08月09日

何故、雅歌(歌の中の歌)が聖書に載っているかを疑問に思う人が多いようです。昨日インターネットを見ていて、そのような質問への回答【質問者が選んだベストアンサー】を見て、

私は愕然としました。その回答には、

1.「ソロモン王が偉かったから、ソロモン王が書いたとされる「雅歌」を聖書に取り入れざるを得なかったのだろう。」というような内容が書いてありました! 

しかし聖書は、偉い人が書いたものだから取り入れるというような「人物主義」で編纂されたものではありません。それは聖書を蔑視する考え方です。

2.聖書の編纂には、もっと深い、神様の知恵が、編纂者に与えられて 作られたのだと思います。  聖書が、そのような不純な動機で編纂されたとは考えられません。

だからこの1.は、俗説の一つだと思います。


【歌の中の歌(雅歌)の作者が言いたかったこと。】

たくさんの女性を妻にした経験があるとされる (たとえば)ソロモン王が、雅歌でもっとも言いたかったことは、何でしょうか? それは最高の恋愛とはどういうものか、性愛の立場から見た理想の男、理想の女とは、どういうものか」だと思います。それをソロモン王と言われる作者は、自分の経験を通して、神様の霊感をえて書き綴ったのでしょう。  

歌の中の歌(雅歌)の中に、そのような文章は全く書かれていませんが、これは、主人公である、「男」と「女」が、神様への深い信仰を持っていたことが大前提になって書かれていると私は確信しています。(もしそうでなければ、歌の中の歌(雅歌)は有害です。)

ですから、『神様が喜ばれる性愛の表し方と、その満たし方』を学ぶのに、歌の中の歌(雅歌)は非常に有益です。

そのために、歌の中の歌(雅歌)が神様の力と神様の愛と恵みによって、聖書に取り込まれたのだと私は信じています。


ところで、それに関連した内容の「イエスの福音誌」103号(全10ページ弱)を2012.9.17.に発送しました。一両日中には読者に届くはずです。内容は、ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)1章を 18節から27節までと、28節から32節までの二つに区分して解釈するのが妥当であるという新しい観点を追加して書きました。

これはこの雅歌への一般的な疑問と深く関係があります。


だいたい、不信者はもちろん、クリスチャンを名乗り、キリスト教を信奉すると主張する人たちの多くも、夫婦間のセックスを含めて、性欲(性的欲望)を恥ずかしいもの、あるいは子供を作る目的以外には、あまりしてはいけないものと考える人々が多いようです。


その考え方を、ポール(パウロ)のこの箇所の「同性愛」への非難が後押しして、『人がもっとも感じなければいけない「うしろめたさ」』は、性的欲望であるとの「迷信」が広がっています。しかし、ポール(パウロ)は、『人が、もっとも感じなければいけない「うしろめたさ」』とは、不自然とされる性欲の満たし方にあるというよりは、「ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)128節から32節に記されている人の行動・言動」にあると考えていたことは、実は明白である点を指摘しました。


男女の関係のあり方を非難する記事では、ポール(パウロ)がロウムの人たちへのポールの手紙(ロマ書)124節と26から27節が有名です。ここは、「同性愛」あるいは「不自然なセックス」を非難した箇所として有名です。

ポールの目に 同性愛者が間違っていると見えたのは、それが「不自然なセックス」の代表と感じられたからでしょう。それは当時としては無理のない意見でした。


しかし時代とともに、『性同一障がい者』の存在が知られてきました。そして、同性愛であっても、『自然に、しかも、神様が喜ばれるように愛する愛』がありうることが認められるようになってきました。

それで今は、「不自然な性愛」というものが、もっと別なところにあると考えられるようになりました。たとえば、

夫婦であっても、子供を作るために、愛とは別に、無理にするセックスは、自然なものとは言えないと思います。 夫婦間の交際も含めて、男女間の愛で『自然な、神様が喜ばれる交際とは何か?』を時代とともに追及するようになってきたのは、考え方の進歩だと思います。


≪まとめ≫

『神様が喜ばれる性愛の表し方、あるいは、神様を信じての「愛がある交際のあり方」』を学ぶのには、歌の中の歌(雅歌)は非常に有益です。そのために、歌の中の歌(雅歌)が神様の力と神様の愛と恵みによって、聖書に取り込まれたのだと私は信じています。

「イエスの福音誌」103号(全10ページ弱)には、このことと深く関連する文章を書きました。

2012.9.19.) (2014.8.9.一部加筆) (2014.8.9.再投稿)


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その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったからです。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されたものもあります。  そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能で、きわめて不便だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます

今日は2012.9.19.付けのブログを 加筆して再投稿しました。投稿日は変えていません。

2014年08月08日

『“私はほんとうのブドウの木、そして私の父は園芸家です。”(ジョンによる福音15章1節、Good News Bible JOHN15.1.の翻訳)」』という有名なジーザスの言葉があります。

2010.6.30.は東京は梅雨の晴れ間の一日で、今日もハイアットのカフェに昼食に行きました。新宿公園の森の葉の緑が美しく輝いて見えました。でも、この緑の葉は縦横に走る太い枝と幹によって支えられています。そして葉も、枝と幹に栄養を伝えています。私たち(葉)と神様の教え、信者同士や信者と教会の関係、私たちと神様の言葉、聖書の言葉(枝と幹)との関係を見る思いでした。私たちは、枝と幹にいつまでもつながっていなければなりません。


今朝(2010.6.30.)非常によく眠れました。夜中に全然目が覚めず、6時間半連続して嫌な夢も見ず、熟睡出来ました。そこで、何故 良く眠れたかを考えてみました。

昨日「イエスの福音」誌88号の原稿が少し進んだこともあるかも知れません。しかし一番大きな影響があったのは、1カリンシアンズ1533節にあるように、『悪い交際』をしないことに決めた事、しかも『人に頼らないこと』。つまり、ブログの読者数を気にしない事などに気付いたのが良かったのだと思っています。


人は本当に当てにならない者だ。』と思います、それを当てにして、「あの人は良い人だ。」と思う事が私を疲れさせるのでしょう。 私たちは『神様にだけ頼らなければなりません。』

アイザイヤもポールも言ったように『良い人はいない、一人もいない。信実な人はいない、一人もいない。(ロウムの人たちへのポールの手紙310節、Good News Bible, Good News Translationの翻訳)』と言ったのは、真実で本当の事でした。


これは、自分も良い人ではないわけですから、これは、自分の事を棚上げにして言っているのですが、でも、それは真実です。


私たちが人に頼ろうとした時に、神様は、『私はどんな偶像のライバルも受け入れられません。』とおっしゃいます。旧約聖書の「出エジプト」に『5 あなたたちは、どんな偶像にも、ひれ伏してはいけません、それを礼拝してはいけません。何故なら、主、あなたたちの神である私は、どんなライバルも受け入れられないからです。私は、私を嫌う者に罰を加え、その子孫を3代にも4代にもわたって罰します。(出エジプト205節、Good News Bible, Good News Translation, Exodus20.5.の翻訳)』と書いてあります。

ここは、今までの他の内外の聖書では、『私はねたむ神(jealous)だから・・・・』と翻訳されてきた有名な個所です。神様が『妬む神様』であるという言葉は、神様を人間的にとらえた言葉でして、ある意味、人々に分かり易い表現で有効でしょう。

しかし、GNTでは、ここを『私はどんな偶像のライバルも受け入れられません。』と翻訳しました。自分をも含めて、一人の神様以外の神【偶像たちidols】を拝むことを『神様が嫉妬する。』ととらえるのは、『嫉妬がいけないと教える新約聖書』の教えにも矛盾します。

そこでGNTでは、『私はどんな偶像のライバルも受け入れられません。』と翻訳したのでしょう。


ここは、新共同訳聖書では 『わたしは熱情の神である。』と翻訳されています。 『熱情の神』は、何の意味だかさっぱり分かりません。良くない逃げの翻訳です。


また『現代では、私たちは偶像などを拝んでいないから、神様は、私たちを罰しない。』などと思うのは、たぶん大間違いです。

私たちは、自分自身をも含めて、人に頼り、一杯、偶像を拝んでいるからです。


≪まとめ≫

私は、神様からの 『今の恵み』に満足感謝せず、かえって人々からの「ブログの評価」や、「人々からの真実」を求めていた事に気付きました。それで私は昨日まで、人に頼り、人々を偶像化していたのだと気付きました。昔の言葉で言えば、私は、その意味で偶像崇拝をしていた事になります。神様につながらず、人を恐れ、あるいは人に頼ると、私たちは少なくても、神様に頼る、祈りの時を見失うのです

それを神様は、きっと我慢できないのでしょう。それが原因で、今まで私は夜、良く眠れ無かったのだと思いました。

2010.6.30.) (2014.8.8.一部加筆)  (2014.8.8.再投稿)


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2014年08月07日

8月6日は、私の誕生日でした。原爆広島投下の記念日と重なり 覚えやすくなりました。ところで、聖書の『5 あなた(神様)は、私の敵たちが私を見ることが出来る場所で、

私に宴会の席を用意して下さいます;あなたは、私を大切なお客として迎えて下さり、私のカップを縁まで満たして下さいます。(サーム(詩篇)23篇5節、Good News Bible,Good News Translation ,PSALMS 23.5の翻訳)』というなぐさめに満ちた詩が、私の人生の至福の経験を良く表していて、私の大好きな言葉です。


私の人生を振り返る時、私に最も大切だったのは、私が昨日した事、今日した事、今考え、今している事が、神様に受け入れられ、祝福されているかどうかの確認の連続だったように思います。


それは、私がいつも、聖書を読み、その裏に潜む精神に照らして、こころと行動を決めようとしているからです。私は、馬鹿な事をしてきたのではないだろうか?私の考えたこと、したことが、聖書から見て、神様の心・ご計画に適っていたかどうか、適っているかどうか、これが一番大切で、それが確認できた時、私の安心と喜びが湧きました。  間違えには、気がつくと、神様は、すぐに許して下さいました。 


私は、なにしろ、人と違った事を考え、常識に反したことをし、新しい独創的な事を考えて、しようと目指してきました。ですから、世の常識に反する発言、振る舞いが、私には、あまりにも多いので、敵も多いのです。

だから、これは特に重要な事でした。

だから、その『神様のゆるしと祝福』が確認できれば、私は幸福なのです。


もうひとつ、私が神様に願う重要な事があります。

私の人生で、多くの人たちが、私をからかい、軽蔑し、わなを仕掛け、騙し、傷つけてきました。今も、信用をしては騙され、傷つけられています。それを思うと、サーム(詩篇)の作者のように、それらの人々は、私の「敵」になった人たちでした。

あまりにもそういう人たちが多すぎました。しかし、そういう人たちは決まって、神様を信頼しない人たちだったようです。敵を勝ち誇らせないで下さい。最後は敵に、間違いを気付かせて下さい。神様の正しさが、認められるために、私はいつも、そう祈るのです。


≪まとめ≫

神様に正しいと認められ、神様にゆるされ、神様に祝福されることほど 大きな『人の幸福』はありません。

それは、神様にあって、世に勝つことでもあるからです。

何事も後ろめたい気持ちでは、事はうまく行かないし、願いはかなえられません。

人には、何もするにも神様にあっての深い『神様やジーザス(イエス)にゆるされ、喜ばれたというた確信』が必要なのです

2009.8.6.) (2014.8.7.一部加筆) (2014.8.7.再投稿)


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2014年08月05日

今朝2時10分に目が覚めてお手洗いに行き、そのあとどうしても眠れないので、ベッドの中で新共同訳聖書を開きました。『1 イエスは弟子たちに言われました。

「つまづきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまづかせるよりも、首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれてしまう方がましである。」(新共同訳聖書,ルカによる福音書171から2節)」』 が目に飛び込んできました。

ここは、私が日本語聖書で何度も読んだ箇所で、いろいろな意味に解釈できますが、「ジーザスの言葉」のうちで、読んでいてとても怖い箇所の一つです。

もちろん、その怖い原因となるところは、「首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれてしまう方がましである。」の箇所で、神様に罰せられる最も大きな「スィン・罪」は、「小さい者の一人をつまづかせることだ」 という論旨だからです。 そしてこの論旨は、論理的にはとても良く分かりますね。 しかし問題は、「どんな行為が、小さい者の一人をつまづかせる」 のかという1点に絞られてくるのだと思います


この「小さいものをつまづかせる行為」とは、何かということです


「人に誤解を与えること」か、「人に犯罪を犯させる きっかけをつくる事」か、「まわりの ほかの人の価値観を覆させるような価値観を持つこと」か、私はずいぶん悩みました。

おそらく、ここは、人が犯す、最大のスィン・罪ということを指摘しているのでしょうから、ことは重大なのです。ここの解釈次第によっては、『正々堂々と、人を殺すことだってできますよね。』、『人を憎むことだってできる。』、『もちろん戦争を正当化することだってできるのです。』つまり、『罪のない人を理由もなく、憎んだり、軽蔑したり、迫害したり、殺したりすることもできするのです。』 だから、ここのより正しい解釈は 重要なのです。


そこで、欧米の聖書では、ここをどう翻訳しているかを調べてみました。Good News Bible, Good News Translation では、『1 ジーザスはその弟子たちに“人々を罪におとしいれる事柄は、必ず起こってきます。しかし、それを起こす人は、なんと悲惨なことでしょう。2 これらの小さい人たちにスィン・罪をさせるよりは、そんな人は、その首に大きな道路標石を巻きつけられて海の投げこまれる方がましです。(ルーク(ルカ)による福音171から2節、Good News Bible, Good News Translation LUKE17.1-2.の翻訳)』と書かれています。NIVも同様です。

つまり、「つまづかせる」が、 「人々を罪におとしいれる」となっています。この方が「つまずかせる」よりはずっと分かり易いのです。

NRSVは、ここは『つまづかせるできごと』 となっていて、日本語聖書と同じです。

聖書では、「つまづかせる」とは、【神様やジーザスに対する信頼を失わせる。】 という意味です。それが分かっていれば、ここを読んで、「つまづく」こともないのでしょうが、そのことを知らない一般の人たちが、その知識なしにここを読めば、上に述べたように、いろいろな意味にとってしまいます。


≪まとめ≫

この「つまづき」に代表されるような、人に誤解を与えて、人殺しや戦争さえも起こしかねないような聖書の翻訳は、形式的には原典に忠実な翻訳なのでしょうが、こういうのは現代の読む人の身になって考えない翻訳で、私は不適当な翻訳だと思っています。

2014.8.5.

2014年08月04日

今日は、「愚かしい人」とは、どういう人のことか?「賢い人」とは、どういう人のことか?という話をします。日本人に、あまりにも「愚かしい人」が多く、

そのために、日本人が大多数の意見に弱く、ほかの人と違っていることを嫌い、「和」を尊ぶと言いながら、近くの他人の目を気にしています。 そのため猿まねばかりしていて、一向に良くならないのだと私は考えているからです。

「愚かしい人」とは、「考えない人」のことです。

聖書の格言(箴言)1215節に、『15 愚かしい人は、いつも、自分を正しいと考えます。賢い人は、どうするのが良いかについての、ほかの人の助言に耳を傾けます。(聖書の格言(箴言)1215節、Good News Bible, Good News Translation PROVERBS12.15.の翻訳)』という個所があります。

ここは、新共同訳聖書では、『15 無知な者は自分の道を正しいとみなす。知恵ある人は勧めに聞き従う。新共同訳聖書箴言1215節)』とあります。新改訳聖書では、『15 愚かな者は自分の道が正しいと思う。しかし、知恵のある者は、忠告を聞きいれる。(新改訳聖書箴言1215節)』ともありますから、それぞれ、Good News Bible, Good News Translation とは大きくかけ離れているわけではありません。

しかし、そこに微妙な違いがあります。私はこのGood News Bible, Good News Translation の翻訳を見て、大変大きな感激を受けました。


「愚かしい人(stupid people)」:

聖書で「愚かしい人(stupid people)」とは、「考えが足らず、良い判断ができない人たち」のことです。それは「愚かな人(foolish people)」よりも意味が強いようです。いずれにしても、「賢い人(wise people)」の逆と考えられています。


「愚かしい人」というのは、要するに、人の意見に耳を傾けない人です。「自分はいつも正しい。」との確信に立っているからです。ですから、自分の意見と違う意見については、頭から耳を貸しません。考えたくないのです。せせら笑って、人の意見を無視します。

こういう人は、よく、「問答無用」とか「話しても平行線だ。」とか言って、議論しようとしません。そして、自分と違う意見に感情的に反発します。

この「感情的という点を見れば、その人が、「愚かしい人」であるかどうかが分かります。


「愚かしい人」は、感情的な喧嘩はよくしますが、冷静な議論はしません。だいたい議論はできないのです。


議論・論争ができる人というのは、相手の存在を認めているのです。だから相手の意見に、耳を傾けます。ですから相手を嫌ったり、憎んだりもしません。


いっぽう、感情的な、「愚かしい人」は、はじめから、自分と意見の違う人を無視し、嫌い、憎んでいます。その意味で、「愚かしい人」は、非常に悪魔的です


日本で、学界でも国会でも、民間の会議でも、冷静な議論や冷静な論争が見られないのは、皆、「愚かしい人(stupid people)」だからなのではないでしょうか?


聖書の格言(箴言)に出てくる「愚かな人(foolish people)」とか「愚かしい人(stupid people)」とは、つねに、“良い決断と良い判断ができない人たち”のことです。

それは、聖書では同時に、天地万物を創った「ただ一人の神様に対して不信仰な人」を指しています

1.不信仰だから、いつも自分を自慢しているのです。

2.不信仰だから、自分の欠点・欠陥に気が付かないのです。

3.不信仰だから、へりくだらない、謙虚でないのです。

だから、この何でもない聖書の格言(箴言)の短い言葉の裏に、深い意味があります。


「賢い人(wise people)」:

「愚かしい人(stupid people)」に対して、対照的なのが、「賢い人(wise people)」です。「賢い人(wise people)」は、基本的には、神様に対して“へりくだった信仰”がある人です。こういう人は冷静な議論、冷静な論争が可能な人です。ですからほかの人の意見や助言に耳を傾けます。それは、いつも、自分を反省しているからです。そして、「本当のことを知りたい!」と、いつも努めています。こういう人は向上します。


 なお、日本語聖書で「無知な」というのは、単に「知識が無い」という意味にとられかねず、適当ではありません。「知恵ある人」、「知恵のある者」は、「知恵」という仏教用語を使っている点で、「賢い人」とは かけ離れた語感を持っています。


≪まとめ≫

言うまでもなく私たちは「愚かしい人(stupid people)」ではなく「賢い人(wise people)」にならなくてはなりません。「賢い人(wise people)」とは、自分に謙虚な人のことです。それは問答無用と断定したり、「議論をしても平行線だ!」と逃げない人だと思います。

「賢い人(wise people)」は、いつも神様の前で、自分は正しい判断と正しい決断をしているか?と、つねに謙虚に祈っている人だからです。

2012.7.30.)  (2014.8.4.加筆)  (2014.8.4.再投稿)


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理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなりました。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能だからです。 

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今日はその一環として2012.7.30.付けの文章を 改訂、増補して投稿します。投稿日は変えていません。
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2014年08月03日

現政権の超タカ派的な部分が生まれた「原因」を書きます。今朝(2013.5.17.)は、二つの悩み事があって嫌な夢を見て良く眠れず、朝3時50分に起床しました。

そうしたら4時頃、外からしきりに小鳥たちの目覚めの鳴き声が聞こえてきました。

それは小鳥たちが、神様を讃え、神様に感謝しているように聞こえて、たいへん慰められました。

小鳥たちの「さえずり」と違って、人の言う言葉、人のする行動は、なんと神様に反したことばかりなのでしょうか。ウソを言う、事実を見つめずに、自分に都合の良いように勝手な発言をする、そういう言葉が、最近テレビなどを通じて耳に入ってくるたびに、これらは悪魔からの言葉、悪魔をたたえる言葉、人々を究極的には殺すための言葉に私には聞こえてきます。

そして、私を深く傷つけ、悩ませます。今朝は 早く起床したついでに、それに関してのブログを書くことにします。


そんな中で、最近特に気になる声は、第二次世界大戦(太平洋戦争)に対する間違った見方、勝手な解釈です。それが超保守のタカ派である現政権(自民党政権)の人々からしきりに聞こえてくるのです。


いわく、日本は、侵略戦争はしていないとか、当時の軍がした韓国の慰安婦問題は解決済みだとか、誰が見ても軍隊(??)である自衛隊を 正式な軍隊にするべきだとか、軍隊を持たない日本は世界から軽蔑されているとか、 だから憲法を変えやすくするために憲法96条を改正(??)するべきだとか、村山首相の談話(1995年)は、見直さなければならないとか、これらは皆、歴史的事実を無視した「ウソのかたまり」の悪魔的な発言です


その根本にあるのは、「死者」は、生前どんな悪いことをしていたとしても、「死んだことによって、みそぎを受け、」 生前の悪いことは非難されるべきではないといった仏教思想が底にあるからだと思います人は死ねば、「仏(ほとけ)」になるのであって、尊敬すべき存在であって、死んだ人を非難するのは、悪いことだと信じている、「死者にむち打つな!」という、聖書に書かれた思想からしますと大変に間違った「考え方、人生観、死生観、価値観」がそこにあるからです。

そのため、最近そういう「第二次世界大戦を擁護するような声」が、しきりに聞こえてきて、私を悩ませています。私は、こういう発言をなるべく聞かないようにと、テレビのニュースなどで、そういう話になると、テレビをすぐに消すのですが、どうしても聞こえてきて、もうやり切れません。


以下に、何故これらが、間違った悪魔的な発言であるかを聖書的に説明します。

1.聖書の文化は、神様の前に悔いる心を何よりも尊ぶ文化です。それは、人の罪に対して正直な文化なのです(神様に対する)自分の過ちを認める心こそが、何よりも正しいのです。

2.つぎに聖書的信仰の文化では、「誇り」ということに対する考え方も、これに関連しています。人の誇りとは、自分や自分の国の優れた点を自慢する誇りあってはなりません。聖書的信仰の文化では、人の誇り、国民の誇(ほこ)りとは、神様の前にへりくだって、神様とジーザスがともにいてくださることを信じ、感謝できる「誇(ほこ)り」、つまり「神様を誇る誇(ほこ)り」なのです。


それは、『30 もし私(ポール(パウロ))が誇らなければならないのなら、私がどんなに弱いかということを示している事柄について誇ろうと思います。2カリンシアンズ(コリントの人たちへの第二の手紙1130節、Good News Bible, Good News Translation CORINTHIANS 11.30.の翻訳)』と言ったポール(パウロ)の「自分の弱さを誇ること」と言ってもよいと思います。自分の弱さが、「神様の強さ、神様の偉大さ、神様の愛」を表わすことになったから誇らしいのです。


これらに反して「悪魔の誇り」は、自分たちと先祖たちが過ちを犯していないと信じ込むことから生じる「誇り」です。 つまり傲慢な誇りなのです。


具体的に言うと、日本が、戦前、戦中、過ちを犯したと認めることは、日本人の自信を無くす屈辱的な考え方であって、それは日本人の愛国心(?)を損ない、日本人の自信と誇りを失わせることになると彼らは考えています。

つまり、これらは、聖書的な「誇り」とは全く逆なものです。

それが悪魔的な誇りの源でもあり、まず、第一の間違いなのです。


ですから日本人は、決して、『自分(たち)が過ちを犯した!』とは言いませんね。その代わり、『多大のご迷惑を皆様に、あるいは周辺諸国におかけした。』とだけ言います。

これは、自分たちの善意(??)に反して、迷惑をかけたということにもとれますから、それは、自分たちを悔いる心ではなく、「故意」ではなく「過失」であったと言い張ることなのです。

これは自分(たち)の過ちを認めないで、責任を逃れるための発言の仕方なのです。


侵略戦争についてもそうです。あれは侵略しようとしてした戦争ではないとさえ言い張ります。あれは善意でした戦争だけれど、結果的には侵略みたいになってしまったとして、自分たち、先輩たちの罪を認めようとしないのです

こんなことでは、またいつか、条件がそろえば、程度の差はあれ、同じような戦争もしかねません。


≪まとめ≫

『神様の前に、スィン・罪や失敗を犯しても、それを悔いて、ジーザスを信じれば、神様にいちばん喜ばれ、神様の前に正しいとされる。』 という『良い知らせ』、そういう喜びを知らない国民、それが、今の日本人なのです

このような「超右寄りの、誤ったタカ派的保守派の台頭」は、今の日本国を良くすると言いながら、部分的には良くするでしょうが、 最終的には日本をダメにするのです。

その最大の原因、責任は、キリストの福音を受け入れない、この国民にあります。

それがこの国の宿命であろうと、今、私は毎日、悲しい思いに包まれています。

2013.5.17.  (2014.8.3 .一部改定増補) (2014.8.3 .再投稿)


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その理由は、LOVELOG』からシーサーブログに移行して以来、201471日からは、すべての検索サイトでの検索から、 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなりました。その後、718日ころからは ふたたびシーサーブログの私のトップページを表示するようになりましたが、『LOVELOG』時代の多くのブログが、検索サイトから削除されました。  そのため、検索での閲覧は、ほぼ不可能だからです。 

そこで 読者の便利さを考えて、この再投稿も続けます

今日はその一環として2013.5.17.付けの文章を 改訂、増補して投稿します。投稿日は変えていません。

*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。


2014年08月02日

現政権の超タカ派的な部分が生まれた「原因」を書きます。今朝(2013.5.17.)は、二つの悩み事があって嫌な夢を見て良く眠れず、朝3時50分に起床しました。

そうしたら4時頃、外からしきりに小鳥たちの目覚めの鳴き声が聞こえてきました。

それは小鳥たちが、神様を讃え、神様に感謝しているように聞こえて、たいへん慰められました。

小鳥たちの「さえずり」と違って、人の言う言葉、人のする行動は、なんと神様に反したことばかりなのでしょうか。ウソを言う、事実を見つめずに、自分に都合の良いように勝手な発言をする、そういう言葉が、最近テレビなどを通じて耳に入ってくるたびに、これらは悪魔からの言葉、悪魔をたたえる言葉、人々を究極的には殺すための言葉に私には聞こえてきます。

そして、私を深く傷つけ、悩ませます。今朝は 早く起床したついでに、それに関してのブログを書くことにします。


そんな中で、最近特に気になる声は、第二次世界大戦(太平洋戦争)に対する間違った見方、勝手な解釈です。それが超保守のタカ派である現政権(自民党政権)の人々からしきりに聞こえてくるのです。


いわく、日本は、侵略戦争はしていないとか、当時の軍がした韓国の慰安婦問題は解決済みだとか、誰が見ても軍隊(??)である自衛隊を 正式な軍隊にするべきだとか、軍隊を持たない日本は世界から軽蔑されているとか、 だから憲法を変えやすくするために憲法96条を改正(??)するべきだとか、村山首相の談話(1995年)は、見直さなければならないとか、これらは皆、歴史的事実を無視した「ウソのかたまり」の悪魔的な発言です


その根本にあるのは、「死者」は、生前どんな悪いことをしていたとしても、「死んだことによって、みそぎを受け、」 生前の悪いことは非難されるべきではないといった仏教思想が底にあるからだと思います人は死ねば、「仏(ほとけ)」になるのであって、尊敬すべき存在であって、死んだ人を非難するのは、悪いことだと信じている、「死者にむち打つな!」という、聖書に書かれた思想からしますと大変に間違った「考え方、人生観、死生観、価値観」がそこにあるからです。

そのため、最近そういう「第二次世界大戦を擁護するような声」が、しきりに聞こえてきて、私を悩ませています。私は、こういう発言をなるべく聞かないようにと、テレビのニュースなどで、そういう話になると、テレビをすぐに消すのですが、どうしても聞こえてきて、もうやり切れません。


以下に、何故これらが、間違った悪魔的な発言であるかを聖書的に説明します。

1.聖書の文化は、神様の前に悔いる心を何よりも尊ぶ文化です。それは、人の罪に対して正直な文化なのです(神様に対する)自分の過ちを認める心こそが、何よりも正しいのです。

2.つぎに聖書的信仰の文化では、「誇り」ということに対する考え方も、これに関連しています。人の誇りとは、自分や自分の国の優れた点を自慢する誇りあってはなりません。聖書的信仰の文化では、人の誇り、国民の誇(ほこ)りとは、神様の前にへりくだって、神様とジーザスがともにいてくださることを信じ、感謝できる「誇(ほこ)り」、つまり「神様を誇る誇(ほこ)り」なのです。