2014年07月23日

今日は、聖書の『

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

________________________________________【ご注意】
このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【2007年8月6日〜2014年3月31日】に、 人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。 
その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべての検索サイトでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿も続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。
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2014年07月22日

記事のタイトル

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

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その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべての検索サイトでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿も続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

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2014年07月21日

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ところで、
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2014年07月20日

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

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【ご注意】
このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【2007年8月6日〜2014年3月31日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。 
その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

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2014年07月18日

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テスト
テスト
テスト
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2014年07月17日

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

________________________________________【ご注意】
このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【2007年8月6日〜2014年3月31日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。 
その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

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2014年07月16日

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)



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その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。


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今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

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その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。
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2014年07月15日

テスト今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

テスト。ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。
その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。
一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。

聖書の格言8章17節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言8章17節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。
これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。
ところで、日本語聖書の箴言8章21節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言8章21節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVのinherit wealth(受け継げる財産)、NIVのtreasures(宝物)、NRSV、GNTのwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。
ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)8章20〜21節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。

≪まとめ≫
翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。
(2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)

________________________________________【ご注意】
このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【2007年8月6日〜2014年3月31日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。 
その理由は、『LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、2014年7月1日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 
そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。
今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。

*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。
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posted by goodnews at 17:03| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 本当の祈りとは? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)



【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。


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2014年07月12日

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)


【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。なお、もとの2010.3.21.付けのシーサブログの新URLは、

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テスト

テスト
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今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)



【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。


*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。


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今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)




【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。


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posted by goodnews at 04:25| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 「嗣業」(しぎょう)??。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)




【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。なお、もとの2010.3.21.付けのシーサブログの新URLは、

http://khyop91.seesaa.net/category/22882797-1.htmlです。


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2014年07月11日

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.)(2014.7.11.再投稿)


【ご注意】

このブログ 『聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳』が、au one netのブログ『LOVELOG』として投稿されていた当時 【200786日〜2014331日】に、 きわめて人気が高かったブログについて このたび 順序不同で 同じものを再投稿することにしました。 

その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 

そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。

今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。なお、もとの2010.3.21.付けのシーサブログの新URLは、

http://khyop91.seesaa.net/category/22882797-1.htmlです。


*この再度の「再投稿」は、これを今日 私のフェイスブックのページに連携させるためのものです。



posted by goodnews at 22:26| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 嗣業(しぎょう)?? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と呼びます。

ところで、ここで『知恵』と日本語に翻訳された英語の『wisdom』は、『賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力』とOXFORD現代英・英辞典では説明しています。ところが、広辞苑では、『知恵』は、『物事の理(すじ道)を悟り、適切に処理する能力』とあり、さらに仏教用語として『真理を明らかにして、悟りを開く能力』とあります。いずれも英語の『wisdom』とは、かけ離れた意味です。

その『wisdom』を日本語の聖書で『知恵』と翻訳するしかないわけですから、この日本語の聖書を読む限りは、聖書について頓珍漢な理解をする事になります。

一番間違った解釈は『知恵とは神の「存在」を信じる事だ。』という解釈です。これは観念的だし、信仰を誇るような とんでもない間違いです。それは知恵を得る遠い原因にはなっても、『知恵』そのものではないからです。『知恵』とは、『生きている神様がいつも自分のそばにいて、自分を愛し守って下さる事を信じた上でする、日常生活での良い正しい判断・決断と、その判断・決断能力の事』でしょう。


聖書の格言817節に、『17 私(wisdom)は、私を愛する人を愛します;私を訪ね求める人は、誰でも、私を見つける事が出来ます。(聖書の格言817節、Good News Bible, Good News Translation,PROVERBS8.17.の翻訳)』とあります。

これは「wisdom」が、抽象的、観念的なものではなく、実際的な力である事をよく表している個所だと思います。

ところで、日本語聖書の箴言821節に『21 わたし(知恵)を愛する人は、嗣業(しぎょう)を得る。わたしは彼らの蔵を満たす。(箴言821節、新共同訳聖書)』とあります。ここの言葉『嗣業(しぎょう)』は、日本語聖書のあちらこちらに、ふんだんに出てくるキリスト教界での日本語聖書特有の専門用語です。英語の聖書では、NKJVinherit wealth(受け継げる財産)、NIVtreasures(宝物)、NRSVGNTwealth(富)とここは訳されています。ところが日本では、全聖書が機械的に、すべて『嗣業(しぎょう)』となっています。これは翻訳した人たちが、人々に聖書を理解させて読まさせようとする『wisdom』に欠けている証拠ではないでしょうか!こんな、広辞苑にも載っていない『嗣業(しぎょう)』などという言葉を平気で使う聖書の翻訳は、「まず専門用語を勉強して来なさい。」と言わんばかりの傲慢な態度を感じさせるし、誤解も生む危険な翻訳の一つだと言わざるを得ません。

ここは、Good News Bible, Good News Translationでは「20 私(wisdom)は、正しさの中を歩み;正義の道に従います。21 そして私を愛する人たちに富をもたらし、彼らの家を宝物で満たします。(聖書の格言(箴言)82021節、Good News Bible, Good News Translation, PROVERBS8.20-21の翻訳)」と、分かり易く翻訳してあります。これは実際的な『知恵の効果』を良く表していると思います。


≪まとめ≫

翻訳の仕方一つで、聖書は分かりにくくもなるし、分かり易くもなります。また誤解を生み危険な翻訳にさえなります。これは、分かりにくいものを有難がる迷信家は別として、多くの熱心で真面目な読者を聖書から離れさせる効果を持ち、大変に憂慮すべき事だと思います。

2010.3.21.) (2014.7.11.再投稿)





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その理由は、LOVELOG』からシーサブログに移行して以来、201471日からは、すべてのブラウザでの検索から 『LOVELOGのサービス終了について』の文面しか 出てこなくなったためです。そのため、検索での閲覧は不可能です。 


そこで 読者の便利さを考えて、今後も この再投稿を続けます。


今日はその一環として2010.3.21.付けの文章を ここに投稿します。ほぼまったく同じもので、投稿日も変えていません。








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2014年07月06日

『6 私たちを新しい契約に仕えられるようにさせたのは、彼(ジーザス)であり、その契約は、書かれた律法から出来ているのではなく、聖霊から成り立っているのです。書かれた律法は死をもたらしますが、聖霊は私たちに命を与えます。(2カリンシアンズ(コリントの人たちへの

第二の手紙)36節、Good News Bible Good News Translation )』 とある個所を、『奇蹟の記事の解釈の仕方』という別の角度から 説明します。 ここで「書かれた律法」とは、「聖書の言葉の字面(じづら)」のことです。

日本福音ルーテル東京教会Erik Rothさんのバイブルクラスには、信者と不信者が混在して出席しているのが特徴です。2014.6.26.のバイブルクラスの後での「飲み会」で、私の隣に座った不信者の男性は、コンピュータが専門の大学教授で、この東京教会には幼少の頃ずっと通っていたとのことでした。 ここのバイブルクラスには昔からずっと出ているそうです。


その人が、その時、≪キリスト教や、牧師、宣教師の話には、必ず『ジーザスが水の上を歩いたとか、死人が生き返ったとか、すぐに奇蹟の話が出てくるから、バカらしくてついてゆけない、またキリストが人々の罪を十字架上の死によって贖(あがな)ったという信仰(贖罪(しょくざい)の信仰)もばからしい。』≫と 私に言われました。


しかし、それなのに彼は日本福音ルーテル東京教会のバイブルクラスにもときどき出ている。日曜日の礼拝にも、出る時は出るのです。

だから彼には、キリスト教にひかれるものがあると思われるのですが、キリスト教の信仰(神様への信頼)は、なかなか持てないというわけです。持てないのは、神様が持たせないのだと言ってしまええば それでおしまいですが、どうも、ほかの原因もあると思えました。しかし、私には、彼の意見はよくわかります。


ところで、こういう彼みたいな考えの日本の知識人は、とても多いのです。その理由を考えてみました。彼らは知識人なので、科学・学問上の真理の探究を尊んでいるからです。だから、「その分野での真理の法則」は、必ず、不変なものとしてあるという大前提を持って勉強もし、研究もし、仕事もしてきた人たちです。

『真理』と言っても、物理学上の真理の法則のように、その【真理の法則の中では】法則は不変だからこそ、人間の文化文明の基礎である科学や、科学技術、文明、文化、医療技術などが発展してきました。私たちは、それのおかげで、電車にも乗れるし、ビルも建てられる、自動車も、物理法則を前提に成り立っているから走っているのですよね?。 だから、学問上の新しい真理を尊ばないのは、愚かしいことです。

奇跡の記事の解釈の仕方には、3種類あると思います。

.一つには、人間が、その幼い知識によって、実は真理ではないのに真理だと思っていたことが、実は真理ではないことが、別の現象でわかる。 そういう 『真理だと思っていたこと』が、破られた瞬間に感じる「奇蹟感」です。』


2. つぎに、そういうことが起こるのではないかという「期待感」を持っている時に、それが起こったと「感じた時」に起こる「奇蹟感」でしょう。  

現代では、心肺が停止して2日もたった人が生き返るとは誰も信じませんから、そういう死人が生き返ることは誰も期待しません。ですから、この2番目の「奇蹟感」は起こりえないのです。水の上を歩くということも、少なくとも人間の場合にはできないことが物理学上の知識から明白ですから、そんなことは期待もしません。ですから、水の上を人が歩いたという「奇蹟感」事態が起こり得ません。

しかし、そういうことが起こり得るかもしれない、神様ならそういう事を起こすかもしれない と思っていた昔の人には、そういう奇跡が起こったという「奇蹟感の感動」は、容易にありえたと思われます。  

まったく「期待感」がないところには、奇跡は起こらないのです。

昔の人は、死人が生き返るという事を神様なら出来るという 多少なりとも期待感や信仰(神様への信頼)がありました。 ですから、死人が生き返ったというように、事柄を誇張して考え易かったのでしょう。 それはウソをついたのではありません。だから当時の信仰をバカらしい信仰(神様への信頼)だと けなすことはできません。それは『神様の全能を信じる信仰に基づいた感動』を表しているだけだからです。

東日本大震災は、その時起こるとは想定出来なかったとしても、人々が、「そういう大地震はあり得ないと固く信じることはできなかった」 から、容易に、「東日本大震災」は神様が起こした奇蹟だとも信じることが出来るわけです。


3 第3は、現在、世界中の多くのキリスト教界の中で行われている説明、あるいは信じ方です。しかし、これはとても危険な信じ方で、現代の多くの 少なくとも不信者の人々から排斥される信じ方です。

それは、『神様は自然法則も含めて、すべての法則を作った方ですから、その作った方が、その自然法則を破ることは出来る。』 と考えて、聖書に記されている「自然法則に反する奇蹟」のすべてを 言葉そのままに信じる、という「奇蹟感」です。

これは、一種の三段論法を使って、論理的、観念的に聖書の奇蹟を その聖書に書かれた言葉通りであると無理に信じる、あるいは信じさせるやり方です。 

だからこれは、一種の『キリスト教信仰の原理主義』とも言えるかと思います。

しかし、この信じ方は、困ったことに、真理は不変であるとの前提に立つ科学的方法に 矛盾します。神と人とは違うと言って 矛盾しないと主張しても、多少なりとも、それに水を差す考え方でありまして、物理学者を始め、科学者には、やすやすとは受け入れられないばかりか、科学・学問をする気力を減らし、その発展を阻害しかねません。


≪まとめ≫

聖書の言葉は、言葉の文字どおりを信じる読み方だけでは足りません。

言葉の文字の裏に隠れた「その精神」「その感動」を知ることこそが重要です。

Erik Rothさんに言わせれば、言葉が表わしている『象徴的な意味』が大切なのです。

聖書は、もともとその裏に隠された神様のこころ、神様の思い、神様の愛を人に、暗に知らせるために書かれたものです。だから大切なのは、字面(じづら)や文字ではありません。「神様に感謝あるいは感動する感動の心」を読み取ることこそが大切です。その裏に潜む、「象徴的な意味」を「神的な精神」、つまり、「聖霊」を持って読むことが求められるのです。


字面(じづら)にとらわれていては、神様からの信号を受け取ることはできません。

日本人が、キリスト教会に なかなか来ないのは、一つには こうした反発や誤解があるからだと思います。

2014.7.6.


2014年07月05日

今日は、『38 “気を付けて、誘惑に陥らないように祈りなさい、心はその気なのだが、身体が弱っているのです。”(マーク(マルコ)による福音14章38節b、Good News Bible, Good News Translation MARK14.38bの翻訳)というジーザス(イエス)の愛に満ちた言葉を

取り上げます。これは、新共同訳聖書聖書では、『心は燃えても、肉体は弱い。(新共同訳聖書聖書マーク(マルコ)による福音書1438節b』と翻訳してある個所です。

ゲッセマネの園で、ジーザスが逮捕され十字架につけられることを予感して、ジーザスは必死に祈りました。しかし その間、弟子達は寝てしまったのです。寝たのがいけなかったのではありません。ですから、イエスはそれを叱りはしなかったけれど、その時ジーザス(イエス)が言った言葉がこの言葉でした。


一昨日、昨日と20147.3.と2014.7.4.の二日間、私は、東京のビックサイトに出かけて、国際電子出版の展示会に行ってきました。電子出版大手のヴォイジャー社のブースに足を運ぶのが目的でした。私のブログと聖書の翻訳、「イエスの福音誌」などなど 私が書いたものを将来、是非、電子出版の形にしたいと、10年ほど前から毎年、ここに足を運んでいたからです。そして今年は、記念すべき年でした。2014.7.1.にヴォイジャー社が、ワードで書いた文章をEPUB3に無料で変換できる、待ちに待ったソフト【ロマンサー】を公開したのです。それで、その説明を私は聞いてきたのです。


ここに出かける前は、私は比較的元気でしたが、この二日間で、すっかり疲れきっててしまいました。 それで今朝は、10時半まで起きられませんでした。起きて血圧を測ってみると146,85,54もあり、良く眠れなかったためか、疲労感も取れていません。食欲もあまりありません。


そこで思い出したのが、このジーザスの言葉でした。

ヴォイジャー社は、『埋もれている価値がある文章を、簡単に、しかも無料で世に出す手段としてのBinB(Books in Browsers)【一般のグーグルやヤフー、msnなどのブラウザーで、直接、電子書籍が読めるソフト】の開発に力を注ぎ、日本で初めてそれを開発した会社です。

私はこの会社の設計思想に 深く共鳴していて、10年も前から、これに興味をもっていました。


そこで早速、この【ロマンサー】を試してみようと願っています。しかし、私の仕事がただでさえも忙しいのに、さらにその仕事の中枢に迫る仕事が、ここで出てきたために、これからのその重荷を考えると、逆に疲れが出てきました。 やり始めるとたぶん大変な労力と時間が必要だと思われるからです。 でもいつかは しなければならない。その思いが私を緊張させ、今まで朝、上が120台だった血圧が、一気に146にまで上がってしまいました。 熟眠不足のためです。


ブログがシーサーブログに変わってから、読者が日ごとに激減する中、どうしたら良いかも、昨夜起きて考え祈り続けました。 どうやら結論は、「気取らずに、思ったままを少しでもできるだけ 毎日書いてゆくことだ。」と気付きました。


≪まとめ≫

ジーザスは、ほんとうに 私たちのことをよく知って考え続けてくださる方です。私たちは、『心はその気なのだが、身体が弱っているのです。』 、という言葉を思う時、

1.私たちに何よりも大切なのは、身体(からだ)の健康であり、

2.次に大切なのが、自分として神様の前に今、一番しなければならないことを神様に教えていただくことだ とつくづく思いました。

2014.7.5.

2014年07月02日

今日は、『“人の息子(ジーザス)が来て食べたり飲んだりしていると、‘ほらあの男(ジーザス)を見てごらん!あいつ(ジーザス)は大食漢で大酒飲みだ、そして税の取り立て人や社会からのけ者にされた者たちの友だちなのだ。’”(ルークによる福音7章34節、

Good News BibleJOHN7.34の翻訳)とある『大食漢で大酒飲みと非難されたジーザスを弁護します。ここには、本能の充足に対する欲求は、正当なものなのかどうかという、 ある種の根本的な問題があると思います。


本能には、いくつかあるとして、その代表的で根本的ななものは、食欲と性欲、それに睡眠欲と生存欲でしょう。  ここでは主に、食欲について考えてみましょう。


食欲と言えば、現在でも、 多くの律法的にやかましく言う人は、良く食べる人に とかく批判的です。良く食べる食欲が旺盛な人を「意地汚い」とか「馬のように食べる」とか、下等な動物みたいに思って非難するのです。


こういう判断や批評はほんとうに当たっているのでしょうか。大部分の場合、それは、当たっていず、不当な批判だと思います。


食べるといっても、その人の身体に悪い食べ方は、たぶん、行き過ぎた食べ方です。たばこ依存症や、アルコール依存症の例は、その代表的な例でしょう。

だから、身体に悪い食べ方は、不適当な食べ方だと思います。神様に祝福されない食べ方なのです。それは正当な食欲を満たすのが目的ではなく、自分の いわば食事依存症みたいな病気に動かされて、習慣的、機械的に食べているだけなのです。もちろん、それをジーザスの体だと思って感謝を持って食べているわけではありませんそういう食べ方は、神様の前にも不適当で、是正されなければならないと思います。


しかし、正常で、正当な食欲というものもあるのです。本当の本能に基づいた楽しい食事のとり方は、神様から祝福されるものであって、決して非難されるべきものではありません。


性欲についても、同様なことが言えるでしょう。 何でも、それを見たり、聞いたりして 『まわりの人が嫌がる、 性欲の満たし方』が、必ずしも決して、『悪い「性欲の満たし方」』なのでは 決してありません。むしろそれは、神様が喜んでいてくださるものだと思います。

ここにも、聖書で言う律法的な厳格主義的な、ファリサイ派の人たちがしたような誤った考えが、性欲の充足に素直な人を 激しく嫌い、非難するのです。


それなら、そうした適当な本能の満たし方について、何が判断基準になるのでしょうか?それは、最新の医学的研究成果に基づいた『専門医』の判断やアドバイスが 現代の正しい判断基準になるのだと思います。


≪まとめ≫

最新の医学的研究成果に基づいた『専門医』の判断やアドバイスは、聖書でしばしば語られている 『道徳的判断』とか『神様の御心に沿った行い』そのものではあるまいかと、私は今回気が付きました。  

これらの『本能の満たし方』の問題については、「本能の分野」で、しばしば間違っている、にせもの、の「日本の常識的、倫理的(?)な判断」の基準*からではなく、発展した科学や、学問や最新の医学の成果が、より的確な回答を与えてくれるでしょう。 


*註 たとえば、「高齢者や病人は、はやく自然に死ねばよいのだ。」というような「日本の常識的、倫理的(?)な判断」は、野生動物の生き方を学んだものであって、これこそが、現代の「日本の親不孝」を生んでいるのです。

2014.7.2.


2014年07月01日

以下は「各種ブラウザーで検索されたキーワードに対応する、正確なブログ(シーサーブログ)のURL表」です。今日は、2014.6.24.〜6.30.の分を追加記載しました。 2014.5.18.のブログの「ラヴログ」から「シーサーブログ」への移行に伴い、

ヤフーやグーグル、msn などにキーワードを入れて検索して出てくる私のブログの ほとんどが、ラヴログのdionのページかシーサーブログのトップページを表示しています。ですから、検索された方に大変ご迷惑をおかけしています。読者が「お気に入り」に入れてあるdionのlovelogのページも 同様にシーサーブログのトップページへと飛ぶ状況です。


そこでこの不便を考えて、引き続き、2014.6.24.から2014.6.30.までに検索された キーワードについて、そのページに正確に飛べるよう、以下にURLを記載します。以下の青色の文字のURLをクリックすれば、すぐにその内容のページに飛びます

なお、そのキーワードでヒットした順位(位/件中)も記載しました。


URL カテゴリーまたはタグ 検索されたキーワード   位/件    投稿日付   訪問日 

2014.6.24.6.30.

http://khyop91.seesaa.net/category/22742547-1.html

     軽蔑的憎しみ20/1,380,000   2008.6.17.   2014.6.24.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743863-1.html

   不思議なるかな御身の御業は   10/29,900   2013.11.25.  2014.6.24.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742941-1.html    悪霊に取りつかれた男

    旧約聖書  英文   20/107,000     2009.1.28.     2014.6.25.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743687-1.html  「神様への感謝と賛美の仕方」について

     キリスト教  安息日  過ごし方  8/114.000   2012.8.13.   2014.6.27.


http://khyop91.seesaa.net/tag/%82%D9%82%F1%82%C6%82%A4%82%CC%94%FC%82%B5%82%A2%8F%97%90%AB%82%C6%82%CD%81B   ほんとうの美しい女性とは。

     聖書  女性   104/1,090,000    2008.1.19.    2014.6.28.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743860-1.html    正しい「理想的な恋愛」とは。

    聖書 セックス 聖書の言葉の解釈  3/114.000   2013.11.20.  2014.6.29.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743860-1.html

    聖書の言葉の解釈 恋愛  1/224,000    2013.11.20.  2014.6.29.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743774-1.html   『悔い改めよ、?』。

      聖書の悔い改めの英語  10/669,000  2013.5.9.    2014.6.30.

  以上。


≪まとめ≫

以上、2014.6.24.2014.6.30.までの アクセスした人が正しく検索できなかったキーワードと その正しい検索先URL を記載しました。

青色の文字のURLをクリックすれば、すぐにその内容のページに飛びます

なお、そのキーワードでヒットした順位(位/件中)も記載しました。

2914.71.


2014年06月28日

今日は、“あなたたちは、いくらたくさん聞いても、理解はしないでしょう。あなたたちはいくらたくさん見ても、何が起こっているのかに気づかないでしょう。” 10 続けて言われました、“これらの人々の心の気力を失わせ、その耳を聞こえなくさせ、目を見えなくさせなさい、

それで彼らは、見ることも、聞くことも、理解することもできなくなります。(アイゼイヤ(イザヤ)6章9b〜10aGood News Bible, Good News Translation ISAIAH9b-10aの翻訳)という、極めて難解と思われる旧約聖書の預言について、同感するところがあったので述べます

ここは、アイザイヤ(イザヤ)61節からのGood News Bible, Good News Translation では、「神様はアイザイヤ(イザヤ)を預言者として指名される」と表題がついた箇所で、日本語の聖書では、「イザヤの召命」と題された有名な個所です。

ここは、アイザイヤ(イザヤ)が、若くて初めて、神様の言葉を伝える決意をした、つまり、神様のためのお仕事【神様の言葉を伝える仕事】をするように神様から言いつけられた経験を述べた個所です。ここの翻訳は長くなるので載せませんが、重要なポイントは三つあります。

1.アイザイヤ(イザヤ)が、神様から聞いた言葉を人々に伝えるために邪魔になったのは、アイザイヤ(イザヤ)自身の神様に対する「うしろめたさ」、今まで神様の前に犯した「咎(とが)」、「神様の前に対する、いろいろなスィン・罪の意識」でした。

アイザイヤ(イザヤ)は、それを取りさられる必要がありました。神様に取り去っていただく必要がありました。そしてそれを神様は取り去られたのです。そういう信仰的な自覚をアイザイヤ(イザヤ)は持ちました。【アイザイヤ(イザヤ書)667節】


2.そして、神様から、誰を神様の言葉を伝えるため遣わそうかという神様の声を聞き、「“私が行きます!私を遣わして下さい! ”(アイザイヤ(イザヤ)68節b)」と答える場面です。これは、アイザイヤ(イザヤ)自身の決意を【神様の前に答えとして表明した点で重要です。】 神様の言葉を伝える「決意」には、この12.が欠かせないものであることを物語っています。(8節)


3.きわめて難解と考えられる問題は、9節以下です。

まず、『主が、アイザイヤ(イザヤ)に行くようにと命じました。(9節の初め)』。アイザイヤ(イザヤ))は、若いし、もちろん預言者としての経験もないし、それで、心に、人々が神様の言葉を聞いてくれるだろうかという、小さな不安があったのでしょう。それを打ち消したのが、初めにに書いた「主の言葉」でした。これは、つまり平たく言えば、人々が神様の言葉を聞かなくても、気にすることはない。という主(神様)からの言葉だったのです

その言葉は、激越にも聞こえますが、これは事実だったのでしょう、そして、今の時代でも、それは事実なのです。


私のブログ【聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳】は、2007.8.6.から始めてから、この75日で7年目が終わります。始めは、時間もあったから、何か月間かは毎日書きました。アクセス数は、一日20人くらいでしたが、次第に増えてきて、KDDIlovelog(ラヴログ)が終了する頃までには、一日80140人の人が見ていました。

2014.5.18.にシーサーブログに移行したあと すぐに、KDDIの担当者に電話したところ、今までの読者は、すべていなくなると思ってくださいと言われました。このところ見ていると、その言葉通りになってきています。現在、読者数(一日にこのブログを見る機械の数)は、一日20人程度に落ち込んでいます。たぶん、そのうち、読者数は一日45人にまで減少するでしょう。

その原因には、

A. インターネット上に張られていた 私のブログのURLのすべてが、シーサーブログのトップページにだけ飛ぶようになったこと。

B. ここ2年くらい前からの私の体調不良で、ブログ投稿が、激減したこと。

の二つが考えられると思っていました。しかし、このアイザイヤ(イザヤ)6章の言葉を思い起こして、私の考えが間違っていたことに気づきました

もし、読者が、ほんとうに私のブログのほんの一部にでも、神様からの声を感じて感銘しているのであれば、これらの二つの障害は、簡単に乗り越えられるハズだと思えたからです


アイザイヤ(イザヤ)の預言に戻りますが、

10 続けて言われました、“これらの人々の心の気力を失わせ、その耳を聞こえなくさせ、目を見えなくさせなさい、それで彼らは、見ることも、聞くことも、理解することもできなくなります。(アイゼイヤ(イザヤ)610aGood News Bible, Good News Translation ISAIAH10aの翻訳)

この預言は、神様からの言葉なのですが、ジーザスもこの箇所を引用されました。

預言者は、『人々の心の気力を失わせ、その耳を聞こえなくさせ、目を見えなくさせることが、一つの目的なのです。』 神様の言葉は、創造的ですから、まったく意外で、まったく常識に反しているし、まったく新しい、そのために、反発を買い、その真の意味に気づかない。

それが神様からの言葉が持つ特徴です


≪まとめ≫

私の【聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳】も、従来のキリスト教の再生を目指し、その欠陥を修正することを目的としていますから、たぶん、すべての読者に分からないと思います。少なくとも、従来のキリスト教の簡潔な説明を求めようとする読者には まったく向いていません。  言葉は出来る限り平易で分かり易く書いているつもりですが、そういう問題ではないのです。書いてある内容の多くの部分が、あまりにも、非常識と考えられるから、いくらたくさん聞いても、理解はしないでしょう。あなたたちはいくらたくさん見ても、何が起こっているのかに気づかないのです。』  残念だけれど、致し方ありません

2014.6.28.


2014年06月27日

昨日は、日本福音ルーテル東京教会Erik Rothさんのバイブルクラスで行われたジョン(ヨハネ)による福音の解説の最終回になったので、いつものようにErik Rothさんが希望者を「バー」に連れて行き、夜のひと時を過ごしました。私は、最終回のバーの「飲み会」には

毎回出ているので今回も参加しました。いつもは 遠くの「欧米人用のバー」でしたが、歩くのが大変なので日本福音ルーテル東京教会の近くの『酒造 駒忠』に行きました。参加者はErik Rothさんを含めて、全員9人でした。


店は何しろ混んでいて、人の話し声が響いて、隣の人の話し声もやっと聞こえるような状態でした。そこで、8時半過ぎから10時過ぎまで居ました。

そこで私が一人のクラスメートと話し合ったことと、私のこのブログの状態についての私の考えも湧いてきたので書きたいと思います。しかし、のちほど書くことにします。


私が今晩、7時前から、バーが散会するまでに感じたことの一つは、「キリスト教徒と称する人たち」、と言っても、実にいろいろな人、いろいろな考え方の「宗派」「人々」があって、実に千差万別で、様々だということです。その様々(さまざま)の程度は、月とスッポン、天と地ほどの差がある場合もあるのです。


ある人が話してくれたのは、ルーテル教会の始祖、マルティン・ルッターに対する評価は、カトリック教会に行くと最低だそうです。その名前を口にすることも ほとんどないそうです。何故かを聞いてみると、ルッターは、結婚が禁じられているため、結婚しないと誓いまで立てた「修道士」ルッターが、こともあろうに、その仲間の「修道女」と恋に陥り、結婚したのだから、ルッターは、不道徳な大罪悪人だという事らしいです。

これは結婚問題に対する信仰的な判断の違いからくるのでしょうが、ことほど左様に「信仰による一方的な判断」は怖いものです。

私は、ルッターの結婚を 歴史的に見ますと、「神様からの祝福、恵み」と見ますが、どうもこの見方についても、意見が180度分かれる宗派もあるようなのです。それほど違った考え方、信仰を持っている人たちがこの世の中にいるのですから、どの考え方、どの信仰、どの宗派の考え方が正しいのかが、まったく分からなくなります。


ここで、このバイブルクラスで、Erik Rothさんから聞いた意見を思い出しました。『同じ聖書のなかにも、矛盾する、あるいは正反対の書き方がしてある個所がいくつもある』のだから、同じキリスト教徒と言っても、聖書に対する解釈や意見が違うことは当然ありうるという話です。


「ジーザス・クライストは、救い主だ。」という表現では、一致していても、その思い、行いは、全然違う。そして皆、『自分たちこそ本当のクリスチャンだ。』と思っている。そしてそのような状態が、何千年も続く・・・・・・。 

こんな状態がまかり通るのは、これが宗教であるからであって、科学や学問の世界では、時が経てば、真理がどれかが おのずと分かってくるものです


≪まとめ≫

キリスト教では、科学と違って、考え方の違いが許容されるのでしょうが、これは大問題だと思います。考え方の違いにただ反発するのではいけません。悪口を言いあっても解決はしません。しかし、その違いにあきらめてはいけません。科学や学問の世界では、そんなことはあってはならないし、また、無かったと思います。たとえ何千年かかっても真理、それが宗教上の真理であっても、ほんとうの事は、いつかは次第に、一つに分かってこなければいけないと思います。

いや、ほんとうのことは、宗教の世界でも、だんだん分かってくるのだと思います。そしてたぶんそれは、宗教以外の科学・学問の世界からの研究で、次第に明らかになってゆくのです。 そこに、科学・学問の世界の「一つの役割」が、与えられているのだと思います。


奴隷廃止の問題もそうでした。男女平等の問題もそうでした。性差別の問題もそうでした。 一般論として、「結婚」が健康にもよいとの結論も、そのうち医学的な研究から出てくるでしょう。そこに科学の 一つの重要な役割があるのだと思います

2014,6.27.

2014年06月25日

以下は「各種ブラウザーで検索されたキーワードに対応する、このブログ(シーサーブログ)のURL表」です。今日は、2014.6.14.〜6.23.の分を追加記載しました。このブログの「シーサーブログ」移行に伴い、

ヤフーやグーグル、msnなどにキーワードを入れて検索して出てくる私のブログの ほぼすべてが、ラヴログのdionのページを表示しているので、それをクリックするとシーサーブログのトップページに飛びます。ですから、検索された方に大変ご迷惑をおかけしています。読者が「お気に入り」に入れてあるラブログのページも 同様にシーサーブログのトップページに飛ぶ状況です。


そこでこの不便を考えて、引き続き、2014.6.14.から2014.6.23.までに検索されたキーワードについて、そのページに正確に飛べるよう、以下にURLを記載します。以下の青色の文字のURLをクリックなされば、すぐにその内容のページに飛びます

なお、そのキーワードでヒットした順位(位/件中)も記載しました。


URL  検索されたキーワード   位/件    投稿日付   訪問日 

2014.6.14.6.23.

http://khyop91.seesaa.net/article/397319980.html

   雅歌が聖書に取り入れられた理由4/1100  2012.9.19  2014.6.15


http://khyop91.seesaa.net/article/397319837.html

          聖書の光は焼き尽くす火5/271,000    2010.6.22.    2014.6.15.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743248-1.html

        中川聡  東京大学   7/143,000     2010.6.5.    2014.6.16.


http://khyop91.seesaa.net/article/397320056.html

      聖書の言葉 感謝   30/13,900,000     2014.1.8.    2014.6.17.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742804-1.html

      愛の原動力  聖書箇所   2/28,300     2008.6.27.    2014.6.18.


http://khyop91.seesaa.net/category/22882797-1.html

      嗣業  聖書 msn    6/37,800       2010.3.21.    2014.6.18.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319973.html

     聖書  守り  感謝    11/41,300       2012.8.13.    2014.6.18.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319814.html

     時間の大切さ  聖書箇所  15/1,920,000   2010.2.19.    2014.6.18.


http://khyop91.seesaa.net/category/22882797-1.html

    聖書  嗣業とは  2/323,000  msn        2010.3.21.      2014.6.19.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742760-1.html

     ヴァイオリン伴奏  ピアノ蓋全開  50/19.500  2008.7.1.  2014.6.21.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742363-1.html

    平和のために働く人  英語  6/8,360,000   2007.11.15.  2014.6.20.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743890-1.html

     聖書の言葉  英語   7/28,300,000         2014.1.8.       2014.6.22.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742462-1.html

    英文聖書  アダムとイブ   8/148,000        2007.8.27.     2014.6.23.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319899.html

http://khyop91.seesaa.net/category/22743571-1.html

      聖書  みだら    1〜2/6070       2011.5.10.2011.9.30.    2014.6.23.


≪まとめ≫

以上、2014.6.14.2014.6.23.までの アクセス者が正しく検索できなかったキーワードと その正しい検索先URL を記載しました。

2914.6.25.


2014年06月18日

聖書の言葉に “あなたを裕福にするものは、主の祝福です。勤勉な努力はあなたのお金を豊かにはしません”(聖書の格言(箴言)10章22節、Good News Bible PROVERBS 10.22の翻訳)という言葉があります。この言葉は、実は2009.1.9.のブログで扱った言葉ですが、

ここで改めて、別の角度から味わってみます。問題は、“努力”によって人は経済的にも豊かになるのか、“主からの祝福”によって人は、経済的にも豊かになるのかという『大問題』です。

経済的に豊かになるのが、ただお金を貯めて豊かになり、はたから見て、お金をふんだんに使っているからうらやましいなと思われることが、『豊かになること』の定義なら、もしかしたら人は、がむしゃらに、良心に咎めるようなことをしてでも、働けばよいと思います。

あるいは、極端にケチで節約してもお金は貯まります。


しかし、聖書で言う、『豊かさ』、『経済的な豊かさ』とは、そういうような、〜まあ言って見れば、悪魔的な豊かさのことではないでしょう


聖書でおしえる豊かさとは、ほんとうに経済的な豊かさが、さらに その人の充実した人生を生み、まわりの弱い人たちを豊かにする、つまり、「神様のために働くことにつながるような豊かさのこと」ではないでしょうか?

 聖書では 「豊かさ」にも、そういう豊かさ、つまり、『人も自分も助け、周りの人を愛することにつながる豊かさ』というものを 認識しているのだと思います。


日本では特にその傾向が強いのですが、ふつう、『人間的な努力を伴った勤勉(hard work)』が 人をお金持ちにすると考えられています。


人間的な努力を伴って仕事をしていれば、激しい仕事が 自然に出てくることは確かです。しかし、それが私たちを豊かにはしないということは、そこに、本来お金が持つ『人を愛し、神様を愛することのために、お金は使うべきだ。』という 『人が持つべき基本的な 正しい人生観』が、多くの場合、欠如しているからに違いありません。

そこで、ここの聖書の箴言の言葉があるのです。


『神様を愛し、自分をも含めて、人を愛する』事という基本に立ち返った時、人はほんとうに価値がある仕事をしてゆけるのだと思います。この動機が大切なのです。

「神様なために働く、神様が求めておられることに思いを集中して働く」 ということが、私たちを、働き過ぎから守り、楽しい労働を生むのだと思います。


神様から祝福されることを求めて仕事をする、働くということの重要性は、こんなところにあるのだと思います。つまり、これが、私たち個人の人生が、ほんとうの意味で楽しい人生になるか、どうかの 大きな分かれ道だと思うのです。


このような新しい価値がある仕事を見つけて進めて行くためには、」このような聖書の言葉をよく噛みしめることがが どうしても必要です。それは、今、自分が一番大切な しなくてはいけない事を、いつも仕事中に、神様に教えて頂く事を意味します。それを見つけるには、神様に、それを教えられる必要があり、それをして行く為には、人の健康な体調も必要です。

体調の良さも神様からの恵みによって与えられる贈り物です。それは、睡眠、食欲を始め自分の本能的な欲求を 第一に大切なこととして受け入れる事であり、それによって人の健康は作られるのだと思います。

『本能』は神様が人に与えられる基本的な力ですから、眠いときには寝る、やりたくないに時にはやらない、これも、神様に従って得られる 神様からの恵み、神様からの「信号」なのです。


≪まとめ≫

正しい労働とは、『人を恐れず、ただ神様のためだけに働く。』 それに尽きるのだと思います。そう考えると、人が経済的に豊かになリ、お金持ちになるのは、勤勉な努力によるのではなくて、神様の命令に従う、つまり、神様からのこれらの信号を聞き、それに従うこと、そして自分が立てた計画や、自分のわがままや、自分の人間的な努力の積み重ねによるのではなくて、主からの祝福を得たいという思いから始まるのだと思われます。

ですから、聖書の格言(箴言)1022節は実は大変な事を言っている聖書の言葉なのです。

2014.6.18.


2014年06月15日

『だから、信仰(しんこう)(神様(かみさま)への信頼(しんらい))に基づかない(もとづかない)ことは、なんでもスィン(すぃん)・罪(つみ)なのです。』という聖書(せいしょ)の言葉(ことば)の意味(いみ)を話します(はなします)。一昨昨日(さきおととい)(2014.6.12.)は、新宿に2度も車で往復したため、疲れてきってしまいました。日本福音ルーテル東京教会Erik Rothさんのバイブルクラスが

夜の20時過ぎに終わったので、普通道路で自宅に帰るつもりでした。しかし、あまりにも疲労が激しかったので、運転中に考え祈った末、高速で家に帰ることに変えました

「考え祈った」ことで、上の聖書の言葉が心に浮かんだからです。


23b だから、信仰(神様への信頼)に基づかないことは、なんでもスィン・罪なのです。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)1423b、Good News Bible, Good News Translation ROMANS14.23bの翻訳)』)と それには あります。

新改訳(しんかいやく)聖書(せいしょ)は、ここは、「信仰(しんこう)から出て(でて)いないことは、みな(つみ)です。(新改訳聖書ロマ書1423b)」となっています。ですから、問題(もんだい) あまりありません。

しかし、新共同訳聖書では、()確信(かくしん)基づいて(もとづいて)いないことは、すべて(つみ)なのです。(新共同訳聖書聖書,ロマ書1423b)』と、信仰(しんこう)(神様(かみさま)への信頼(しんらい))」の部分(ぶぶん)が「確信(かくしん)」になっています。だから 私には不満(ふまん)翻訳(ほんやく)です。


英文の聖書を調べると、NKJVNIVNRSVも、ここは「faith(信仰(神様への信頼))」になっています。


(ひと)は、『信仰(しんこう)基づいた(もとづいた)確信(かくしん) にもとづいて行動(こうどう)しなければ、決して(けっして)神様(かみさま)には祝福(しゅくふく)されません。そして(こころ)(そこ)に、「うしろめたさ」が残る(のこる)です。 それは、聖霊(せいれい)教える(おしえる)ところに従って(したがって)行動(こうどう)するということと同じ(おなじ)です。


【私の慢性的な疲労の原因について】

まだ皆さんにはお話していませんが、今年の1月から妻、輝子の具合が非常に悪くなりました。、ほぼ寝たきりとなっています。病気が重症化したきっかけは、私どもが、家庭裁判所(家裁)に申し出ていた「私どもの二人の子供に 両親を扶養するようにと申請した【扶養申請】の調停の場で、2014131日(金)に、私どもの長男と長女が二人とも そろって、私たち(わたしたち)両親(りょうしん)を 少し(すこし)でも扶養(ふよう)する()は まったくありません!』と岡田裁判官の前で宣言したのがきっかけです。

子供たちに両親を扶養する気がないなら、調停は不成立で、両親(りょうしん)()が「生活(せいかつ)保護(ほご)」を受ける(うける)ほど低所得(ていしょとく)になれば(べつ)だが、「扶養(ふよう)命令(めいれい)はできない」と、その()で「扶養(ふよう)申請(しんせい)」を取り下げ(とりさげ)させられました。


それに妻はショックを受けて、右の耳が聞こえなくなり、目はかすみ、食欲が全くなくなりました。身体じゅうの筋力も弱まり、生きてゆく力そのものがなくなりました。それで、「重度のうつ」と診断(東京大学医学部付属病院(東大病院)精神科)されました。ひとりでは、歩くことも、立ち上がることも ほとんどできません。

そこで、介護度が2から4に上がりました。介護保険の制度をフルに利用しても まだ足りず、子供たちは都内に住んでいながら、見舞いにも、助けにも全然来ないので、私が毎日介護しなければならなくなっています。私には、その仕事、買い物、食事作りが連日あるので、昨年暮れからの私の疲労が慢性化しているのです。


【信仰(神様への信頼)による確信で行動する必要性について】

さて、結局 私たち人間は、自分がしたことについて、また自分が考えたことについて、『正しかった、良かったのだ。信仰的な言い方をすれば、神様に喜ばれ、神様に是認されているのだ。』という確信が必要です。  私たちクリスチャンは 特にそうです。

だから私たちはいつも、失敗を反省していて、そのため、いつも祈って行動する習慣があります。

そして神様にあって、神様が、どうしろと言われているかを信じてから、行動します。

私たちクリスチャンはいつも、そうするように心がけています。それが、ほんとうの信仰(神様への信頼)のありかただと思います。


どこかの人が書いた本に書いてあるから、とか、多くの人がそうしているからとか、社会で そう決められているから というようなことでは、私たちは、自分の行動を決定しません


≪まとめ≫

私たちは、聖書を毎日のように的確に読み、あるいは聖書の言葉を思い起こし、よく祈り考え、ジーザス(イエス)なら 今、どうされるかを考え、神様のお考え、神様のご計画を知って、神様の前で 「今、自分はこうするべきだ。」との信仰(神様への信頼)を持って決断します。

私たちは、すべてのことを そのような信仰(神様への信頼)にもとづいて 行おうではありませんか

2014.6.15.

2014年06月14日

このブログの「シーサーブログ」移行に伴い、ヤフーやグーグルなどにキーワードを入れて検索して出てくる私のブログのほぼすべてが、トップページだけを表示します。そこで、それを補うために「検索されたキーワードに対応するシーサーブログのURL表」 をつけます。

読者が「お気に入り」に入れてあるラブログのページも すべて、シーサーブログのトップページに飛ぶ状況です。

この不便を考えて、引き続き、2014.6,1,から2014.6.13.までに検索されたキーワードをもとに、私のシーサーブログのページに正確に飛べるよう、そのURL表を以下に記載します。


URL  検索したキーワード   書き出し        投稿日付   訪問日 

2014.6.1.6.13.

http://khyop91.seesaa.net/category/22743618-1.html

    「嗣業??」の移動について。   『この「聖書の言葉・英文の聖書翻訳」の「カテゴリー」の一つである「嗣業??」の場所が、この記事をカラー化した際に341919-1.htmlから移動しました。「嗣業??」の新しいURLは、現在、http://khyop91.seesaa.net/category/22824841-1.htmlです。』    2012.4.3.   2014.6.1.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319962.html

       聖書 同性愛 英文  『一昨日、アメリカのオバマ大統領がABSテレビのインタビューで、アメリカの「同性婚」【同性愛者同士つまりレズビアン同士やゲイ同士の結婚】を支持すると発言しました。このニューズは非常に重要だと思います。伝えられるところによると、オバマ大統領は、』      2012.5.11.      2014.6.3.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743860-1.html

   理想的な恋愛    『以下は、2013.10.29.午前420分から書き始めた三つの一連の「ブログ」の締めくくりです。

愛を伴わない性的欲望(性欲)というものがあります。それの激しすぎるものを英語で「lust」と呼ぶのでしょう。「愛のない性的欲望」を満たそうと実行するのが、』    2013.11.20.   


http://khyop91.seesaa.net/category/22743454-1.html

     聖書  貯金   『お金を稼ぐことをジーザスはどう考えていたか、現代、ジーザスならどう話すかを知りたいと 2008.627.の礼拝後のお茶の席で松田繁雄牧師に尋ねました。松田牧師は『マルチン・ルッターは、聖職、callingつまり‘神様から言われてする仕事’は、牧師に限らず鍛冶屋さん』    2008.7.2.      2014.6.4.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743727-1.html

      聖書の言葉  英語  『新年にあたって思ったことは、『8 “私の思いは、あなたたちの思いとは異なっていて、私のやり方は、あなたたちのやり方とは違っています”と主は言われます“9 天が地の上に高くあるように、私のやり方と思いはあなたたちのより高く上にあるのです。”(アイゼイヤ(イザヤ書)』  2013.1.8.     2013.6.6.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319666.html

     悪魔による聖書の引用   『“43 健康な木は悪い実を結びません、同じように不健康な木は良い実を結びません。 44 すべての木は、それが結ぶ実で分かります;茨からイチジクを取ることはできないし、茨の茂みからブドウを取ることも出来ません。 45 よい人はその心の中にある宝の中から』    2008.12.23.   2014.6.6.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743164-1.html

   世捨て人 聖書  『今日はマーク(マルコ)による福音834節、マスュー(マタイ)による福音1624節とルーク(ルカ)による福音923節に日本語聖書に翻訳されている【自分を捨てる】という言葉の深刻な不適当さを指摘します。そこはGood News Bible,』    2008.12.23.    2014.6.8.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319961.html

    ジーザスの言葉     『Good News Bibleのロウマンズ8章に「クライスト・ジーザスの中にある神様の愛」と表題がついた31から39節の一部分のうちに有名な、とても良い言葉があります。『33 いったい誰が、神様が選ばれた人たちを悪いと言うのでしょうか? 神様ご自身が、彼らに後ろめたく思うことはない、』     2012.5.8.    2014.6.9.   


http://khyop91.seesaa.net/category/22743802-1.html

聖書 祈り 英文     カール・ヒルティの名著に、『眠れぬ夜のために』(岩波文庫)というのがあります。ここでヒルティが言いたかったのは、眠れない夜は、聖書の言葉を思い、神様に祈れと言うことだったのだと思いました。「良く眠れない経験」は、2013.7.13.の例のほかにも私には   2013.7.20.     2014.6.10.


http://khyop91.seesaa.net/category/22743275-1.html

聖書  LUKE6.27.  または 人を裁くな?    『新共同訳聖書のイエスの言葉に『人を裁くな。』という有名な「翻訳」があります。「これこそイエスの教えの基本だ。」と思い込んでいる人も多いでしょう。これはGood News Bibleのルークによる福音637節で『他の人たちを判断する事』と題した個所にあります。』  2010.6.25     2014.6.10.


http://khyop91.seesaa.net/category/22742389-1.html

     橋詰清江先生   または 私のブログのこれからの方針。  『昨日、信頼する主治医のお1人(東大病院の内科医)から、ブログについて貴重なご意見を頂きました。私の健康も配慮してと思いますが、ブログは社会的活動ではないから、毎日のように書くものではないと言われました。『社会的活動』の意味をお尋ねしたら』  2007.12.4.   2014.6.10.    


http://khyop91.seesaa.net/article/397319966.html

    聖書と贖い  『昨日、どうしても行きたくて、2週連続で日本福音ルーテル小岩教会の礼拝に出席してきました。目的は、この日の説教題、『罪びとを招くため』が、私の悩みと、どうも深い関係がありそうだと思ったからです。悩みというのは、実は、この1週間、私は「罪の贖い」』 2012.6.11.  2014.6.10.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319970.html

     聖書 箴言 格言 意見    今日は、「愚かしい人」とは、どういう人のことか?「賢い人」とは、どういう人のことか?という話をします。日本人に、あまりにも「愚かしい人」が多く、そのために、日本人が大多数の意見に弱く、猿まねばかりしていて、一向に良くならないのだと私は考えているからです。   2012.7.30.   2014.6.13.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319846.html

   新約聖書 ギリシャ語        ギリシャ語で聖書を読むのが一番良いと思っている日本人が圧倒的に多いようです。新約聖書はギリシャ語で書かれているので単純に、それなら、その原典で聖書を読むのが一番正確で分かり易いはずだとか、正しく解釈出来るだろうと考えるのは、愚かで単純すぎます。     2010.7.1.  2014.6.12.


http://khyop91.seesaa.net/category/22882797-1.html

       聖書の言葉 嗣業 または「嗣業」(しぎょう)??。   今日は、聖書の『知恵』とは何かを話します。聖書の格言には『知識knowledgeと知恵wisdom』という言葉がたくさん出てきます。その代表例が「知恵を讃えて」とGNTで副題が付いている8章です。ここでは『知恵』を擬人化し主人公にして、『知恵』を「私」と      2010.3.21.    2014.6.12.



http://khyop91.seesaa.net/article/397319854.html

    練馬総合病院 井上聡                  妻は左足の下の潰瘍の治療の為、一昨日2010.9.10.午前に東京の練馬総合病院創傷ケアセンター(外科)に23カ月の予定で入院しました。東大病院では、治るのに年単位の年月がかかると言われていたし、1月に発症以来、10円玉ほどの大きさの傷は、     2010.9.12.      2014.6.13.


http://khyop91.seesaa.net/article/397320051.html

http://khyop91.seesaa.net/article/397320046.html

       聖書 サーム     今朝聖書を開いたら、サーム(詩篇)10812から13節が開きました。感銘を受けたのでそれを書きます。サーム(詩篇)108篇は、Good News Bibleでは、『敵に対する助けを求める祈り』との表題が付いていて、私たちの「敵」に対処する仕方が書いてある詩です。      201.12.17.     2014.6.13.

         昨日は11時半にベッドに入ってすぐに寝つけましたが、どうしても継続して眠れず、120分に目を覚ましてしまいました。そこで聖書を開いたらサーム(詩篇)96篇の1から3節が目に留まりました。眠れそうにないので、これのGNTの訳を翻訳してから寝ようと       2013.11.25.   2014.6.13.


http://khyop91.seesaa.net/article/397319877.html

    ジョンロールズ  聖書     『皆さん、新年明けましておめでとうございます。睡眠と栄養のおかげで私のヘルペスは、直ぐに治りました。ところが、私は今、自分のしている事に価値を見いだせなくなっています。ブログを書いたり、「イエスの福音」誌を作成発行したり、Good News Bibleを翻訳』    2011.1.4.    2014.6.13.


≪まとめ≫

以上、2014.6.1.2014.6.13.までの 正しく検索できないキーワドとその正確な検索先のURL を記載しました。

2914.6.14.



2014年06月13日

今日は、クリスチャンが、なぜ戦争をするのかという重大な問題について話します。昨日Erik Rothさんと話をしていたところ、彼は、人々は聖書の中にも、キリスト教徒の中にも、戦争をしてたくさんの人を殺す場面などがあり、それを知っているから人々はキリスト教は ダメだ

と思い、キリスト教に近寄らないのだと言うような話をされました。

このお話には、「なるほど」と思う一方、人々がキリスト教を嫌う原因は、それだけではないと私は思いました。


しかし、この戦争を好むキリスト教が、なぜ今も、堂々と存在するのか不思議に思い、その原因を考えました。


【聖書の中の戦争の記事】

聖書の中でも旧約聖書に神様を信じる人たちが戦争をたくさん仕掛けた記事が、いっぱい載っています。大量殺戮もたくさんしました。神様の名においてそれをしたのです!

デイビッド(ダビデ)王さえも、それをしたと書かれています。


【旧約聖書での戦争の考え方。】

旧約聖書で、神様を信じる人たちが、戦争を仕掛ける記事は、彼らが、『神様の正義に反した』と考えた人たちを、神様に代わって、その悪を懲らしめる義務があると思って戦争をしかけたのです。

こういう考え方は、神様への信頼、つまり信仰が強ければ強いほど、起こり易くありました。


【新約聖書の考え方】

ところが、新約聖書では、ジーザス・クライストが、その新しい人生観、新しい神観を伝えました。「敵を愛しなさい。」というのがジーザスの教えでした。

そのため、とうぜん、新約聖書の中では、戦争はなくなりました。戦争はしないけれど、つまり、『敵を愛しなさい。』とジーザスが教えたことでわかるように、クリスチャンは、無抵抗になったのです。しかし、


1.神様の見方からする 正しい「人の歩み方」につきまして、とても厳格にジーザスは主張し、守りました。

その良い例が、ジーザスが、当時のユダヤ教の教会(寺院、テンプル)が、お金儲けのために使われていたことへの義憤を爆発した 鳩を売るものの台をひっくり返した』という有名な『宮清め』の事実などがあります。

つまりジーザスは、悪を非常に憎みました。戦争をしたり人を肉体的に傷つけたりはしませんでしたが、憤慨をした箇所はいくらでもあります


2.ジーザス(イエス)が、敵(悪魔的な考え方)を言葉では激しく非難しましたが、敵に対してとった行動は、非暴力的でした。それは『報復は、私(神様)がすることです。という考え方から出たものでした。 神様に何時かは 罰せられるから、敵は れむべき存在なのです。



この2点を 知らない人たちは、今までのキリスト教徒と名乗る人たちが、十字軍を始めとして、最近ではベトナム戦争、イラク戦争など武器を手にした戦いを 『聖戦』と称して、やってきた事実だけに着目するのです。  実は、このキリスト教徒と名乗った人たちは、実は、悪魔が遣わした人たちだったのでしょう。


人々は、この『敵を愛する ジーザスの教え』を知らず、つまり、新約聖書そのものを チャンと読んでいないから、こういう事が起こるのです


≪まとめ≫

私たちは、人々にほんとうのキリスト教とは、『このような平和な良い知らせ』であることを、何とかして、知らせてゆかねばなりません。そこに私たちの務めがある、私たちの重要な役目があるというのがErik Rothさんの この日のお話でした。

「敵」に対する態度について、正しい考え方を伝えることが、『私たちジーザスクライストを信じる者たち』の一つの大きな使命だと 私も思いました。
2014.6.13.

2014年06月11日

このブログの2014.5.18.からの「シーサーブログ」移行に伴い、読者(訪問者)の方々に大変ご不便をおかけしている点に気づきました。その例が、ヤフーやグーグルなどにキーワードを入れて検索して出てくる私のブログのほぼすべてが、トップページだけを表示する点です。

そのため、読者が「お気に入り」に入れてあるラブログのページもすべて、シーサーブログのトップページ(現在は2014.6.7.)しか表示しません。
このご不便を考えて、今回、2014.5.31.までに検索されたキーワードをもとに、そのキーワードで、私のシーサーブログのページに正確に飛べるよう、そのURLを以下に、まとめます。
ただし今回は、2014,5,31,までに私のブログにアクセスされた「キーワード」についてだけです。
URL 妬む神様  今日の東京は梅雨の晴れ間の一日で、今日もハイアットのカフェに昼食に行きました。新宿公園の森の葉の緑が美しく輝いて見えました。でも、この緑の葉は縦横に走る太い枝と幹によって支えられています。そして葉も、枝と幹に栄養を伝えています。     2010.6.30. 2014.5,19.  

http://khyop91.seesaa.net/article/397319415.html
                     仙川で将棋    日本の聖書翻訳について述べましょう。Good News Bible は良くない意訳の代表例として日本の聖書翻訳委員会で外された経緯があるようです。私は これは、日本にとって大変に不幸な事だったと思っています。今日は、図書館に出かけた後、仙川で将棋を習って来ました。     2007.8.20.   2014.5.19. 

http://khyop91.seesaa.net/article/397319627.html
                     男性から見た女性の美しさ    私 男性から見た女性の美しさについて考えましょう。聖書にあるように、物事にも人にも『全体』と『部分』があります。部分が美しい女性は 一杯見かけます。手だけが美しい女性、首から肩と二の腕にかけて美しい女性、うなじが美しい女性、後姿が美しい女性、肌が      2008.7.20.

http://khyop91.seesaa.net/article/397319818.html   または
http://khyop91.seesaa.net/category/22824841-1.html
                     嗣業 または、聖霊が人に宿るわけ     今日は、『聖霊(The Holy Spirit)が人に宿るという事実』は、どういうものかの話をします。2013.5.19.(日)10時半から、日本福音ルーテル東京教会でペンテコステ(聖霊降誕節)を祝う英語礼拝との合同礼拝がありました。礼拝終了直後には、イタリアの慣習に      2013.5.24.     2014.5.30.

http://khyop91.seesaa.net/article/397319586.html  または
         聖書  同性愛 英文    臨時のブログ9― 2008,5,4.(日)に日本聖公会神田キリスト教会であった井口悟祭司のお話を書きます。非常に重大な内容なので 慎重に書きます。『20年位前ゴトー-イチローという頭脳明晰な神学生がおられ、とても分かりやすい説教をされました。  2008.5.11.   2014.5.31.

http://khyop91.seesaa.net/article/397320041.html
     救い  ソウゾウ    これは聖書のどこに書いてあるというのではありませんが、Erik Rothさんのバイブルクラスで、『マーク(マルコ)による福音の中の奇蹟』の話のときに話されたことが元で、私が新しく気づいたことを書きます。Erik Rothさんの話は、現代のキリスト教会に最も欠けていることは何か     2013.10.26.     2014.5.31.

http://khyop91.seesaa.net/article/397319579.html
     松田繁雄」     臨時のブログ6― 2008.4.13.(日)のルーテル小岩教会のお話は、松田繁雄さんの優れた信仰と信念の重要な一面を浮き彫りしました。これは現在、世界のキリスト教界が最も必要としている大切な考え方を含んでいます。それは、そのまま私の信仰・信念でもあります。日曜日の    2008.5.11.      2014.5.31.

http://khyop91.seesaa.net/article/397320040.html
     日本福音ルーテル東京教会Erik Rothバイブルクラス    私が出ている木曜日の午後7時からの「日本福音ルーテル東京教会Eric Rothさん(アメリカからの宣教師)のバイブルクラス」では、2013.9.26.に『マーク(マルコ)による福音の中の奇蹟』が終わりました。そして、2013.10.3.からアイゼイヤ(イザヤ書)が始まりました。   2013.10.24.   2014.5.31.

≪まとめ≫
以上、私のブログを読むのにお役にたてれば幸いです。
なお、神様が許せば、2014年6月以降も、追加分を順次まとめてお伝えします。
(2014.6.11.)


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2014年06月07日

良く知られているように欧米には、「感謝祭」というものがあります。またサーム(詩篇)には、神様に対する感謝の言葉がいっぱい、いっぱい書かれています。「創造主をたたえて」と題されたサーム(詩篇)104篇の表題は、英語では、「In Praise of the Creator」ですが、

この「praise」は、OXFORD英・英辞典では、名詞では「誰かまたは何かに対する容認またはあこがれを表わす言葉」と書かれています。しかし第2の意味として、「神様を崇拝する表現」となっています。そこで日本語では、これを「賛美」とか、「神様をたたえる言葉」と訳すわけですが、OXFORD英・英辞典には、動詞の「praise」は、「神様に感謝(thank)または神様を尊敬(respect)する。」という意味であると書かれています。

日本語の英和辞典で、「praise」をひくと、「褒めるとか讃えるとか、称賛するとか、賛美する【ジーニアス英和辞典】」とかと訳されています。しかし、「praise」は、実は、神様に感謝するという意味なのです。


ジーザス(イエス)がした たとえ話に、ひどい皮膚病にわずらわされていた10人の人が神様に癒され(いやされ)た後、『15 彼らの一人が、自分が癒(いや」されたことを知って、大声で神様に感謝しながら(praising God)戻ってきました。(ルーク(ルカ)による福音17章15節、Good News Bible, Good News Translation LUKE17.15.の翻訳))』 とある有名な記事があります。
ここは、とかく「神様を賛美しながら」、とか「神様を褒め称えながら」と翻訳されますが、私の翻訳のように「大声で神様に感謝しながら」のほうが、良く分かると思います。

日本人は、非常にしばしば、「感謝する」という言葉を使います。 「人様(ひとさま)に感謝しなさい。」などとも しばしば言われます。しかし、「神様に感謝する」という言葉は、ほとんど聞きません!。

それは、日本人が、神様に感謝するということが無いからです。逆に人様(ひとさま)が神様なのです。あるいは、便利な新製品が出れば、その新製品に感謝します。その新製品を作った人や会社に感謝します。
これは日本人が、「日本人は、汎神論者(はんしんろんじゃ)?だからだ」などというのは、皮相的な見方だと思います。  汎神論者(はんしんろんじゃ)だからなのではなく、「日本人は、神様の恵みに気が付かないだけなのです!

≪まとめ≫
私たちは、神様を拝むとか、神様を崇拝するとか言う代わりに、もっと神様に感謝するべきだと思います。自分に与えられた 毎日の小さな恵みを感じて、それを神様からの恵みだとして神様に感謝する、大声を上げて神様に感謝する、そういう心の態度が、今、私たち、自分はクリスチャンと思い込んでいる人たちに、最も必要なことではないでしょうか。
(2014.6.7.)


タグ:汎神論??
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2014年06月01日

例年の「タツノオトシゴ会」の最後の記念公演「水の世界〜たつのおとしご〜」を佐藤修君から招待状をもらってみてきました。東京の日本橋劇場で昨日2014.5.31 12時半から開演されました。これは20世紀後半のイタリアの劇作家アルド・ニコライ氏の原作で、

パリ劇場以外では、1963年からヨーロッパで好評を得た作品だそうです。
私は昨日、これを見て、二つの点で感銘を受けました。
1.一つは現代のサラリーマン生活の何か欠けたところを指摘している点でした。毎日、つまらない機械的な仕事をしていれば,自然に給料がもらえる。そういう組織の歯車的な人生の送り方に対する疑問を提示しているのだと思います
2.第二には、人は自分にしかできない神様から与えられた生き方を自由にしてゆくべきだという「自由な人生」を送らねばならないという指摘だと思いました。

この劇の主人公セレスタンは、平凡なサラリーマンとして給料を得て生きるよりは、漁師として海の世界に仕事を見出したかった。そういう夢に生きる男として描かれています。

近年、働く時間で賃金をもらえるシステムでは、日本人の本当の生産性は上がらないのではという発想が出てきています。『本当の生産性とは、働く人の自由な選択によって働くことによってだけ、向上する。』というのは、とても大切な正しい見方だと思います。いやいやする仕事は、神様の求めるところではありません。

聖書を読む限り、人が、「勝手な人の指示に従う」のではなく、「神様の指示を知り、それに従うこと。」こそが、人の生き方、人の仕事の仕方の最も正しい仕方であることが分かります。

昨日の講演の直前に友人の佐藤修君と握手し、言葉を交わしてきました。私が、『今日妻は、身体の調子が回復しないので来られませんでした。』と言ったら、佐藤君、『あなたは(神様を)信じているのだから、奥さん直さなくては、ダメじゃないですか。』と励ましてくれました。

佐藤修君は、麻布高校の高校生時代から大の芝居好きで、たくさん芝居を演出してきました。そして、「芝居がやれると思って」NHKに入社しました。そうしたら、意に反して人事部のほうに回されて、待ちに待った定年を機に、毎年このタツノオトシゴ会の芝居の公演の演出を赤字で手掛けてきたのです。

その点、やはり大量の赤字と莫大な時間の消費を覚悟の上で 「イエスの福音誌」や聖書の言葉・英文の聖書翻訳のブログを出し続けてきている「私」 と共通するところがあり、その「道楽(芝居)にお金を使う(佐藤君の言い方)」点で、私は佐藤修君と気が合ってきました。

周りの人は、この芝居のセレスタンに対すると同様、そのやり方には、無理解と批判が絶えません。しかし、それにもめげずに、自由と理想を追求する姿に、 たとえば、この芝居のセレスタンの姿に、人の「本当の仕事のへの心の態度」を見る見方が、養われた来るのだと思いました。

≪まとめ≫
サラリーマンとして、お金を稼ぐのは必要で、やむを得ませんが、
それを神様が自分にさせていると信じて仕事をすることが大切です。「本当の仕事の仕方」は、人 個人個人が、自由に、そして神様にあっての確信をもって「仕事」に取り組むところにあると思います。そういう仕事だけが本当に生産性を上げ、短時間で価値がある結果、クリエイティブな効果を生む仕事になるのではないでしょうか。
人にはそれぞれ、「天職(てんしょく)」というものがあるのです。それを自覚して、神様を信じながら仕事に取り組める人は幸いだと思います。
(2014.6.1.)


2014年05月28日

【シーサーブログへの投稿の開始:】 皆さん、こんにちは。このブログは2014.5.18.にシーサーブログに移行しました。その体裁を整えるのに手間取り、より精密なアクセス解析もできるようになりました。ほぼ満足がいく体裁になったので、今日から シーサーブログに投稿します。

今日は、『私たちの心を救う考え方』を話します。『ザマア見ろ、そのうち悪魔が、お前を罰してしまうぞ。』というのが、悪魔の考え方だと思います。『自分は、そのうち神様に罰されるぞ。』と恐れるのは、おもに自分の心の中に悪魔的な思いがひそんでいる証拠だと思います。

セイタン(悪魔)は、人を殺すのが、その主な目的です。神様は、人を赦し、生かすのがその主な目的です。
そこの違いをよく承知していないと、神様を装った悪魔のささやきを 神様の声だと勘違いし、結果として自分も死ぬ道にはまり込みます。

旧約聖書は、神様に信頼し、神様の守りを信じて生きてきた人たちが、【どんなにか祝福された喜びの生涯を送ったか】を その主な目的の一つとして書かれました。 
また、ジーザスの誕生と生涯を受けて書かれた新約聖書にいたっては、神様に信頼して生きることが、ほんとうの幸福の源であることを 力を込めて伝えています。

19 弟子たちが5~6Km漕ぎ出た時、ジーザスが水の上を歩いて船に近寄ってくるのを弟子たちは見て怖がりました。20 “怖がってはいけません。”とジーザスは言いました。“私だ。”(ジョン(ヨハネ)による福音6章、19から20節、Good News Bible, Good News Translation JOHN6.19-20の翻訳)』 
とある この記事は、神様が本当に現われる時、私たちは、その異常さに恐怖さえ抱くことを物語っています。普通には ないことが起こるからです。神様がなさることは、あまりにも不思議で、【何か、異常な運の巡り合わせ】としか思えないものです。

でも、そこに私たちは、ジーザスの意図と恵みを直観するときに、それが、実は神様が、私のためになさった愛の奇蹟であることに気付くのです。
そこで私たちは【生きた神様の実在】を畏れ(おそれ、神様への恐れ)を持って信じるのです。

このほかにもジーザスは『恐れてはいけません。』と何度も言いました。特に、人を恐れてはいけないことを教えました。たとえば『26 “だから人々を恐れてはいけません。今覆われているものは、あらわにされるでしょう。そしてすべての秘密は知られます。27 私が暗闇で言う事をあなたたちは、明るみで繰り返しなさい。そしてあなたが一人で聞いたことは、家の上から広めなさい。28 身体を殺して、魂を殺す事が出来ない人たちを恐れてはいけません;むしろ身体と魂の両方を地獄で破壊できる神様を畏れ(おそれ)なさい。”(マスューによる福音10章26から28節、Good News Bible, Good News TranslationMATTHEW10.26-28.の翻訳)』とあります。

また、『31 そこでジーザスは、ジーザスを信じた人たちに言いました、“もし、あなたたちが私の教えに従うなら、あなたたちは、ほんとうに私の弟子なのです。;32 あなたたちは真理を知るでしょう、そして真理はあなたたちを自由にするでしょう。”(ジョン(ヨハネ)による福音8章、32節、Good News Bible, Good News Translation JOHN8.32.の翻訳)』とも言いました。ジーザスを信じて得た自由は恐れを取り除くのです。

≪まとめ≫
神様の守りを信じ、【ジーザスの愛を信じて生きる限り、】私たちはかならず、よりよく、今を生きる新しい道を示されます。そして、神様に守られた「奇蹟に満ちた毎日」を自覚して生きることが出来ます。
聖書を正しく読めば、『律法を守らなければ神様に罰せられるぞ。』という悪魔の脅し【実は悪魔が人を殺すことによって、人を広い意味で神様の振りをして罰している、その脅し】を
私たちは、神様からの声だと勘違いすることはありません。

(2014.5.28)


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2014年03月30日

【通知】:皆さん今晩は。今回、KDDIのラブログのサービス停止に伴い、このブログ(KDDIのラブログ)に、私は2014.4.1.から投稿出来なくなります。また長らくご覧いただいた このブログも2014.6.30.でラブログ上では閲覧できなくなります。

そこで このブログ(聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳)は、近日中に「シーサーブログ」に移行する予定です。いま、その準備を進めております。
2014年6月中には移行の手続きを 終えたいと考えています。それまで、しばらく新規の投稿はお休みになります
今後、「シーサー(Seesaa)ブログ」の上で お目にかかれると思います。
なお、従来投稿しました518本のブログは、形を変えて 引き続き「シーサーブログ」に引き継がれます。

私は今後は、新たな思いを持って「聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳」を書き続けてゆきたいと考え祈っております。  
以上、とりあえず お伝えします。               花田 桂一
(2014.3.30.)

2014年03月16日

今日は、『身体(からだ)は、非常に大切だ。』ということをお話しします。身体を軽く見るべきではなく、尊び、力を尽くして、思いを尽くして、十分に休養も撮り、栄養、運動に気を使って、大切にするべきだというお話です。英文聖書からの私の翻訳ですが、新約聖書に、

11 ジーザスを死から生き返らせた神様の聖霊が、あなたたちの中に住んでおられるなら、死からクライストを生き返らせた方は、あなたたちの中にクライストの聖霊があることによって、あなたたちの死ぬはずの身体(mortal bodies)にも、生命を与えてくださるでしょう。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)8章11節、Good News Bible, Good News Translation ROMANS 8.11.の翻訳)』とあります。
2014.3.5.のバイブルクラスでここを読んで私は何か新しい重要な真理に気づいたと思いました。この言葉で私は生かされたのです。 そこで今回、それを書きます

いろいろな解説書を読みますと、ほとんど従来、ここは、『人の死後の肉体の復活を指して言ったものと受け止めているようです。』 ところが、私はそれは間違いだと気づいたのです。


【肉体の大切さ】
ここを、「【人の死後の肉体の復活】を指して、ポール(パウロ)が言ったと受け止めるのは、間違った解釈だと思います。」
その間違いは、『霊的な命が最も大切で、肉体的命は比較的軽いものであり、むしろ罪そのものである。』という考え方から出ているのです。

この部分の前後で、しきりに使われている「肉体」とか「肉」という言葉をポール(パウロ)は使わずに、ここは、日本語の聖書でも、英語の聖書でも「死ぬはずの体(からだ)」と翻訳されています。「肉」「肉体」と「死ぬはずの体(からだ)」との違いは微妙なですが、ここで「肉体」と言わずに「身体(からだ)」と言ったところに、これは肉体の復活を意味してはいないことが暗に示されています。

この8章の1~17節までに日本語聖書では、「肉(にく)」という言葉が、8回も出てまいります。その部分は、英文聖書では、すべて「the flesh」が使われています。

【「肉(にく)」と「the flesh」の微妙な違いについて。】
肉(にく)」は、広辞苑を見ると、「精神に対する肉体」と書かれています。同時に「主として筋肉からなる部分」とあります。「精神に対する肉体」と言われますと、それは、精神に反した肉体、精神を失った肉体のように受け止められます。 だからでしょうが、日本語では、「肉(にく)」という言葉は、「肉の欲望」「肉欲」つまり「性的な関心」をただちに思い起こさせます。
この「肉欲」は、広辞苑を見ると分かりますが、つねに「性欲」を意味する言葉です
ですから、このように性欲に結び付きやすい 「肉(にく)」という日本語の翻訳は、ここでは不適当だと私は考えています。
the flesh」については、OXFORD英・英辞典を見ると、第1の意味は、「動物や人間の骨と皮との間にある柔らかい部分」と書いてあります。そして、「人のこころや、たましいではなく、人の身体的な必要性と性的な必要性を考えての身体のこと。」と書いてあります。つまり、必ずしも、日本語ほど、「性欲」だけを連想させる言葉ではありません

もともと、ギリシャ語では、「the flesh」は性欲のことを言っているのではありません。Erik Roth宣教師によれば単に身体(からだ)のことを言っている言葉だそうです。
そこで、Good News Bible, Good News Translation では、この日本語聖書の「肉」にあたる部分、英語の「the flesh」にあたる部分を「human nature」と翻訳してあります。

「human nature」を、直訳すれば、「人間的な性質」ですが、「人間的な、神様への離反(スィン)に満ちた性質。human sinful nature」を念頭に置いて翻訳した言葉だと思われます。「sinful」という言葉を使いたくなかったのでしょう。

the flesh」は、現代用語としては、あまりにも「筋肉の部分が良くない。」という感じも受けますが、「human nature」は、たんに、「the flesh(肉体のこと)」だけではなく、「心や、魂の神様に対する人間のスィン・罪深い部分」をも表そうとしています。
だから、読みようによっては、「human nature」のほうが分かり易いし、むしろ【原文の精神に忠実な翻訳だ】と考えられます。

【死ぬはずの身体(mortal bodies)】について
あなたたちの死ぬはずの身体(mortal bodies)」は、まさに、人の物質的な身体そのものをあらわした言葉でしょう。いわゆる肉体でもなく、肉体を含んだ、良い悪いという価値とは無関係な広い大きな言葉です。

さて、このロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)8章11節によると、その私たちの身体(からだ)に、聖霊の助けによって、命が与えられるというのです。それは、何を意味するか。それは単に死後の復活ではありません。「今生きている私たちの身体に命が与えられ、生き生きとしてくる。」ということを言っているのではないでしょうか?  つまり、私たちの身体の健康が聖霊の働きによって促進されることを意味しているのだと、私は気づきました。
私たちは、私たちの中にクライストの聖霊があることによって、身体も、生き生きとしてくる、そして健康が促進される。 そのことは、本当にあることだし、ありがたいことだし、事実です。

『まとめ』
「肉体」と「精神」と「こころ」は、今回ロシアのソチでも開催されたパラリンピックでも、人間に最も重要とされる三つの要素とされています。 そして、その精神の象徴として、赤、青、緑の魚が泳ぐようなシンボルが使われています。

それほど肉体、正確には身体(からだ)は、人間が持つ大切な一つの要素なのです。
『身体』が大切だと言っても、【人の死後の霊的な意味での復活】を私は否定しているのではありません
しかし、生きている「私たち肉体、身体(からだ)を持った人間」は、この生きている期間には、それぞれに与えられたハンディキャップのなかで、知恵を尽くし力を尽くして、その身体を健康で長寿命に保つべきです。そして神様を愛し、弱い人、困っている人を愛するために、その身体を使って、それぞれの仕事を続けるべきです。


33 だから人は、情熱を尽くし、心をつくし力(ちから)を尽くして、神様を愛さなければなりません;そして自分自身を愛するように、その身近にいる人(neighbors)を愛さなければなりません。この二つの戒めに従うことは、祭壇に動物をささげたり、神様に犠牲の捧げものをささげることよりもはるかに重要です。(マスュー(マタイ)による福音12章33節、Good News Bible, Good News Translation MARK12.33.の翻訳)」とジーザスが言いました。 ここでの「力(ちから)」とは、「精神力」だけではなく「身体的な健康から来る力」のことをも言っているのだと思います。

だから、私たちは、自分の身体の健康の維持発展を心掛けて、その「肉体的な命、つまり、身体(body、からだ)」を「神様の栄光」、「神様の喜び」を表わすために、使わなければいけません。身近のほかの人の命をちぢめるようなことをしてはいけないし、ほかの人の命をちぢめたり、ほかの人の健康を損なうような心も持ってはいけません。

この考え方が、これまで ほんとうの人類の文明や文化の発展を生みました。
それはもちろん神様の恵みと神様の力によって創造されたものです。
人は、生きている今の自分の身体を使って、毎日そういう活動をするようにと、神様もジーザス・クライストも、私たち人間に求めておられるのではないでしょうか?

(2014.3.16.)

2014年01月08日

新年にあたって思ったことは、『8 “私の思いは、あなたたちの思いとは異なっていて、私のやり方は、あなたたちのやり方とは違っています”と主は言われます“9 天が地の上に高くあるように、私のやり方と思いはあなたたちのより高く上にあるのです。”(アイゼイヤ(イザヤ書)

55章6〜9節、Good News Bible、ISAIAH 55.8-9の翻訳)』という聖書の言葉です。私の大好きな言葉で、いろいろなところに何度も引用しました。今年新年にあたって、このことを改めて、別の角度から、【本当の真理だ】と思ったので書きます。

まだブログにも、「イエスの福音誌」にも書いていませんが、ここ1年くらいの間、私の身辺には、きわめて異常な事態が続いて起きています。体調の不良もそうですが、それに伴って、医師たちらの指導も加わって、新しいことをいろいろと始めました。始めたというより、神様にはじめさせられたのです。

そのため、いぜんほど聖書もあまり読まなくなりました。読む暇がなくなったのです。その忙しさのほんの一例を上げますと、昨年4月から日本福音ルーテル東京教会Erik Rothさんのバイブルクラスに参加するようになりました。一度も欠席せず今までのところ全回に参加しています。また私が英語礼拝に出た時、英語が聞き取れないので、英語を勉強しなければとErik Rothさんに申しましたら、私のところに喋りにいらっしゃいと言われるので、7月からは、毎週Erik Rothさんと30分程度英語で会話をさせてもらっています。そして録音してCDに焼き付けて車の中でも聞きかえしています。同じく昨年4月から「Fit.XTokyo.新宿」に、週2から3回通い始め、実質一回1時間ほど「運動」を始めました。特にこのジム通いは、いずれも、すべての主治医が、とても良いことだと絶賛し、勧めてくれています。また、家の片づけと整理がとても必要だと神様に教えられて、5S(整理、整頓、清掃、清潔、しつけ)を目指していろいろと家具を作ったり、部屋の模様替えを進めています。

こういうことは、私がこれから神様のために働いてゆくために、どうしても必要な題一歩だと分かりましたから、なおさらこのようなことを進めています。
これらは私が計画してしたいと思ったことを必ずしもしているのではなく、私の祈りを神様が聴いてくださって、ひとりでに事態が進んだのでした。

私の一日は、このところ、そのようなことで進んでいます。初めに書きましたアイザイヤ(イザヤ書)の『8 “私の思いは、あなたたちの思いとは異なっていて、私のやり方は、あなたたちのやり方とは違っています”と主は言われます“(アイゼイヤ(イザヤ書)55章8〜9節、Good News Bible、ISAIAH 55.8.の翻訳)』という言葉を、実感しているところです。

≪まとめ≫神様は、思いがけずに、私たちに私たちの思いとは違ったことを強制されます。それは、『神様の思いが、私たちの思いとは異なっているからだと思います。』だから私たちは、自分があらかじめ決めた計画に固執して、惰性的に、ことをするのではなく、思い切って新しいことに挑戦することを神様は求めておられるのだと思います
Erik Rothさんも、『人は同じことばかりしていてはつまらない、教会も違うことをし始めないと今のキリスト教会は来会者が極端に減って行って、近いうちに、無くなってしまう。牧師も神学ばかり研究していてもつまらないでしょう。』と言われたことも思い出します。
私も今、規則やきまりや古い本や教科書の指示に従わず、違ったことをし始めています。それで、皆様には、もどかしいと思われる方もおられることとは思いますが、そんな事情なので、ご理解ください。
これが、新しい年を迎えた初めに、誰にもとても必要なことと思えますので、取り上げました
(2014.1.8.)

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2013年12月28日

昨日は11時にベッドに入ったのですが、お手洗いに行きたくて我慢できず、夜中の2時20分に飛び起きました。お手洗いに行った後、漢方薬や入眠剤を飲むためにリビングの机に向かいました。そしたら手がテレビのリモコンに触ったらしく、急にテレビのBS1が点きました。

それをNHKの総合テレビに替えたところ、聞きたくない話が飛び込んできました。これは神様が、この番組を見なさいということだったと あとから気づきました。
それはNHKの解説員10人くらいによる討論番組でした。ある解説員が最近の【資産に課税する考え方】については、『一生懸命に節約してお金を貯めたのが何故いけないのか?』という議論がある。』と言い始めました。『同じ給料をもらっていたのに お金がない人というのは、ぜいたくをしてドンドンお金を使ってしまったからではないか?』という議論があると言っっていたのです。

私はこの考え方を聞いて、これは、聖書に教えられている考え方ではない とんでもない考え方であると気づきました。それはジーザスの考え方とも、聖書の考え方とも全く違うと思いました。しかし、これは、日本人のおそらく大多数が、考えていることでもあると思い、実に残念でした。

ジーザスは、お金を貯めるだけで、そのお金を貧しい人のために使わないことがいけないと いろいろな個所で言いました。たとえば、『21 ジーザスは彼に答えて、“もしあなたが完全になりたにのなら、行ってあなたが持っているものを全部売って、そのお金を貧しい人たちに渡しなさい、そうすればあなたは天に宝を持つでしょう; そうしたら来て私に従いなさい。”(マスュー(マタイ)による福音19章21節、Good News Bible, Good News Translation ,MATHEW19.21.の翻訳)』と記されています。これは 「いわゆる金持ち」を強く非難したのです。旧約聖書も、いろいろな個所で「貧しい人たちを大事にするように」と言っています。
聖書では、弱い人を助けないで、お金を貯めることを厳に戒めています。
聖書には、弱い人や貧しい人は、みな自分の責任であって、貧しい人たち自身が悪いのだと発想は全くありません。弱い人には、弱い人それぞれの事情があるのです。

給料は、神様のために、自分の健康を保ったり、自分への投資に使う以外は、人のためになる良いことに使うべきです。
つまり、給料は貧しい人のため、神様のために使いなさいということで、給料や収入は、神様が貸してくださっているお金なのです! 

だからそれは もともと神様のお金であって自分のお金ではありません!   
そのことを、ジーザスが はっきり言っています。

≪まとめ≫
日本の人は、聖書に書いてあることを学んでいないし、聖書を読んでもいないから、「お金を貯めることが、何故悪い?」などと言うわけです。
私は、そういう【日本人の真理に反する「反聖書的な思想」】 に接して、今日は実に、暗い気持ちになりました。私は、『こんな日本』の これからの将来について、非常に心配し始めたのです。
(2013.12.28.)


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2013年12月26日

今日は、『日本人がなぜ、キリスト教を嫌いなのか』について考えます。私は、入院している妻を見舞いに一昨日2013.12..24.(火)に行ってきました。欲しいと言っていた 照明付きの置時計をクリスマスプレゼントとして持って行きました。入院して

ラジオを聴き続けている妻は、『ラジオで クリスマスがしきりに取り上げられているけれど、みな、サンタクロースと恋人の話ばかりで、イエス様が全然出てこないわよ。』と言って、とても嘆いていました。
どうも、ほとんどの日本人は、クリスマスは,
サンタクロースの誕生を祝う日だと思っているらしいと言うのです。


ほとんどの日本人が、クリスマスがジーザスの誕生を祝う日だと知らないようです。しかし、それは、知りたくないから知らないのだと思います。それを知ればよいのなら、暗記すればよいわけで簡単です。しかし、知りたくないから覚えたくないところが問題だと思います。

【なぜ日本人は、キリスト教を嫌いなのか】
何故聖書を知ろうとしないかと言えば、イエスなどという人物は、自分とは無関係だと思っているからでしょう。何故関係がないと思っているかと言えば、イエス、ジーザスというのは、聞くところによると、キリスト教という宗教の教祖であって、自分はおよそ宗教とは関係を持ちたくないと,つね日頃 思っているからだと言うでしょう。だからクリスマスの精神ではなく、クリスマスの楽しそうな表面だけを取り入れるのですつまり、クリスマスの宗教的な部分とかかわりを持ちたくない。だから、クリスマスを サンタクロースと恋人や家族と楽しむことで十分なのでしょう。

【日本で宗教、特にキリスト教が嫌われる原因】
日本で宗教、特にキリスト教が嫌われる原因は、二つあると思います。
1.一つは、キリスト教は科学に反する迷信ばかり信じていると思えるから、反科学的で、バカらしいと感じている。
2.もう一つは、キリスト教徒は、戦争をはじめとして、ケンカばかりしている。こんな人との和や平和をもたらさない宗教は、あってはならない宗教だと感じている。

この二つの考えから【キリスト教を嫌っている】のだと思います。これは、私に言わせれば偏見ですが、その偏見を作り出したのは、既成のキリスト教界に責任があるのです。
この二つ目の『日本でキリスト教が嫌われる原因』は、洗礼も受け、自分はキリスト教徒であると公然と言っている「人たち」にあるのではないでしょうか。
そういいう人たちの言動が、自然に反キリスト的な考え方になっている。それは、思うに、そういうキリスト教徒(クリスチャン)は、悪魔セイタンの指図に従って、悪魔的な言動を、それと気づかずに取っているのです。彼らは、「知らずに悪魔の手先」にいなっているからだと思います。
自分をクリスチャンだと思っている人たちの中にも、いっぱい悪魔的なこころが入り込んでいます。たぶん悪魔は、クリスチャンを名乗る【偽のクリスチャン】をたくさん作って、キリスト教や聖書をダメだと思い込ませて、ジーザスの考え方に反する人を増やそうとしているのです。それが悪魔の計画なのです。

そういう反省をキリスト教徒と名乗る私たちクリスチャンは、今、しなければならないのではないかと思います。

ここでは、科学に反する迷信の部分は取り扱わず、2.の『キリスト教徒は、戦争をはじめとして、ケンカばかりしている。』  という部分を考えてみたいと思います。

【ケンカの原因について。】
戦争も、そうですが、ケンカは、相手がした事や言ったことを非難する行動がきっかけで始まりです。私は、自分を棚に上げて言っているのかもしれませんが、多くのクリスチャンは、ほかの人の行いをいちいち批判する癖があります。それは、ピューリタン的な、道徳的な行いを重んじる考えから出たものと思えます。
ところでジーザスは、特定の個人について非難はしませんでした。たとえば、『43 あなたがたファリサイ派の人たちは、なんとわざわいなことか!(ルーク(ルカ)による福音11章43節a、Good News Bible, Good News Translation LUKE11.43.aの翻訳)』とは言いました。しかし、その非難の理由は、極めて正当な理由でした。ジーザスは、そこに救われた自由な信仰が無いときと、愛(人を大切にするこころ)がないときに非難したのです。しかし、それでも、彼らは怒りました。『45 そういうことをおっしゃるのは、私たちをも侮辱することになります!(ルーク(ルカ)による福音11章45節b、Good News Bible, Good News Translation LUKE11.45b.の翻訳)』と言って怒りました。

しかし、現代のクリスチャンが、人をとがめるのは、もっと非常に細かい どうでもよいような、人の日常的な行動を いちちとがめるのです。人の一挙手一投足(細かな いちいちの動作)をとがめます。こういうクリスチャンがいるから、キリスト教は嫌われるのだと思います。
これは、キリスト教の中でも、律法や行いを重んじる人たちの中に多くいます。たとえば、日本基督教団の人々や無教会主義の人たちの多くは、信仰と愛がそこにあるかどうかではなく、しばしば人を表面的な行いや言動で咎めます。これはピューリタン(清教徒)の禁欲的な精神が、ジーザスの福音に入れ替わっているからです。それで、人々の善悪を表面的な行いで、決めようとします、表面的な行いで人の信仰のあるなしさえ決まると思っているのです。
そういう人は、人の一挙手一投足までも監視していて、毎日のようにとがめます。人を馬鹿にする、軽蔑するのです。そうすることが信仰的なことだと思い込んでいる。だから始末に負えません。小さなことが非常に重要だと考えているのです。でも、それは間違いです。
戦争も、相手の行動が、絶対に間違っていると思っているから始まるのです

彼らは、自分の子供を育てるときにも、しつけだと思って、そういう風にして育てます。そのようにして育てられた子供は、委縮してしまうと同時に、育てた親がクリスチャンを名乗っていれば、キリスト教も聖書も嫌いになります。

キリスト教が嫌われる原因の一つは、ここにあると思います。つまり、彼ら自称のクリスチャンの考え方には、自由がないのです。28 人が神様の前に正しいとされるのは、信仰によるだけであって、律法が命ずることを行うことによるのではありません。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)3章28節、Good News Bible, Good News Translation ROME3.28.の翻訳)』というキリスト教の伝統的な正しい信仰は、いったいどこに行ったのでしょうか? 
彼らは、この信仰を唱えながら、人をその細かな行動から非難するのです。こういうことをする人、こういうことを言う人は、信仰が無いのだと決めつける。だから、キリスト教の各派間でケンカが絶えなくなります。
『人の行いを非難することは正しいというのが、自分の信仰である。』と言い始めれば、もはや、行いが信仰なのです。
これは、28 人が神様の前に正しいとされるのは、信仰によるだけであって、律法が命ずることを行うことによるのではありません。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)3章28節、Good News Bible, Good News Translation ROME3.28.の翻訳)』という考え方とは、まったくかけ離れていると思います。

≪まとめ≫
日本の人々がジーザスを信じないのは、日本のクリスチャンの 『人を行いで非難する態度』が原因の一つだと思います。なんでも人を非難してはいけないのではありません。非難するべきことについては、非難しなければいけません。ただし、細かな行いや、言葉尻で人を非難してはいけないということです。
しかし、そこに救われた自由な信仰が無いときと、愛(人を大切にするこころ)がないときに、人は非難されなければならないのです。
(2013.12.26.)


2013年12月23日

昨日2013.12.22.(日)、私は日本福音ルーテル東京教会のクリスマス礼拝に行ってきました。昨日は日本語礼拝と英語礼拝の合同礼拝で、聖歌隊の合唱や、洗礼式、聖餐式があり、大規模なものでした。礼拝後、充実したクリスマス祝会も催されました。Erik Roth牧師が、

話をされました。その話(説教、SERMON)に、私は非常に感銘を受けたので、私の考えを交えて、それを書きます。Erik Rothさんは、二つの重要なことを話されました。

1.今キリスト教徒の多くは、神様が働かれたのは、2,000年前のことで、今は神様は、神様は働かずに静かにしておられる、消極的に、人々を見守っておられると考えている人たちがきわめて多い。
しかし、そういう人たちは、実は、自分が受け身の消極的な人生を送っているからなのではないか。
しかし神様は実は、今も、積極的で活動的(active)な方です。という点が1点でした。

2.それと、神様は、聖書に書かれているように、2,000年以上前に働かれた方であって、それで新約聖書が出来たのであり、それは昔のことだという風に考えている人たちが実に多いのではないでしょうか。しかし、「今は、神様は働いておられない。」という考えは間違いだという点です。
つまり、現在の私たちにも、神様は生きて働いておられるのです、そうだとすると、私たちは、「神様がなさっている素晴らしいこと(wonderful things he did)」を日々経験しているはずです。そうならば、その神様がなさった恵みや素晴らしいことを、私たちは熱心に人々に話し伝えてゆかねばなりません。
そうすれば、私たちは、時代にあった新しい聖書を書き、作ってゆけるのです。というような意味のことをErik Rothさんは 話されました
特にこの後者の考え方は、日本人の目から見ると、とても、独創的で、人に霊感を与えるお話だと思います。
私も、数十年前に、先生を神様のように仰ぐオカルト集団である無教会主義の中で、人々に、同じようなことを話した時のことを思い出しました。私は、『私たちは、新しい聖書を作ってゆけるはずだと思う。』と申したのです。そうしたら、当時の無教会の周りの人々から、『花田は、とんでもなく傲慢なことを言う。』と激しく非難されたことを感じました。
日本では、ほかの分野でもそうですが、『誰も言わない ほんとうに新しいこと』を言うと排斥されるのです。
そういうことをわたしは昨日のErik Rothさんの話で思い出しました。
Erik Rothさんは、米国人だから日本人が決して言わないようなことを言うことが多いので、たいへんに参考になります。

【日本語翻訳の問題点】
1.の「神様は活動的な方である」というところを、主管牧師も関野牧師は、多くの箇所で「神様は、私たちにかかわってくださる。」と訳していましたが、間違いではないけれど、あまり当を得た翻訳ではないと思いました。
また2.の、「神様がなさっている素晴らしいこと(wonderful things he did)」という個所を「(神様がなさった)奇蹟」と訳したのも、ピンときませんでした。この「神様がなさっている素晴らしいこと(wonderful things he did)」と多くの英語の聖書に書いてあるところを日本語の聖書、特にサーム(詩篇)で、ひんぱんに「御業(みわざ)」と訳していて、「御業(みわざ)」は、人から遠く離れた抽象的な言葉に思えて、しっくりしません。

≪まとめ≫
昨日は素晴らしいクリスマス礼拝とクリスマス祝会を 日本福音ルーテル東京教会で楽しめました。神様は強力な力を持った方であって、今も日々私たちの上に素晴らしい出来事を 毎日準備していてくださり、思いがけない恵みと助けが、私たちの人生の上に加えられています。
そのことに私たちクリスチャンは気がついて、神様をたたえ、それを人々に伝え、書物にも書き残してゆく義務が、私たちにはあると思います。
今も、神様は生きておられるのです!。それを知って喜び、神様に感謝することが、とりもなおさず、ジーザス・クライストの誕生を祝う、もっとも良い、積極的な仕方であると思います。
(2013.12.23.)


2013年12月22日

【近況報告】 一昨日2013.12.20.(金)妻の輝子の左足の皮膚の潰瘍が かなり良くなったため、妻は、練馬総合病院で皮膚の移植手術を受けました。ほんとうは、1週間前の13日に手術をするはずでした。しかし、この日は朝から妻は38.2℃の熱を出し、

食事をまったくとれず、2回も嘔吐したために、手術直前の4時になって手術が延期されたのでした。妻は、食欲がなく、顔も細くなり、非常に痩せていました。この13日、宣教師のErik Rothさんが かねてからのお申し出で私がお連れして、病室に妻を見舞いに来てくださいました。
そのことを聞いて妻は、『誰も来てくれないところを来てくださって嬉しい。』と泣いて喜びました。聖餐(communion)をしてくださり、妻に「主の祈り」をするように言われました。妻はたどたどしく主の祈りをしました。妻は、私に連れられて3回ほど日本福音ルーテル東京教会Erik Rothさんのバイブルクラスに行きましたのでErik Rothさんは妻をご存じだったのです。

≪まとめ≫
私は、幸い、なんとか体は守られていますが、この、妻の入院と年末の忙しさもあって、極端に忙しく、気ぜわしく、夜も深く熟睡が出来ない日々が続いています。
1.こんなに忙しいときには、特に、私には、『あなたは正しい。あなたは神様に愛されている。』というメッセージがとても必要です。それでないと、あれもしなければ、これも早くやってしまわなければ という思いが、私の深い熟睡を妨げるのです。
2.それに、こんなに忙しいときにもう一つ大切なことは、『私が今、一番しなければならないことは、なにか?』 に気づいて、それだけをすることだと思います。
3.それと、あれはしてはいけなかった。これをするべきではなかったと 過去を責める声が 心の中から響いてくる。それも私を苦しめます。
そんな中で、神様が私を守ってくださる、神様が一緒にいてくださる、神様が私を愛していてくださる という自分の尊さに、改めて気づくことが、最も私の心の幸せに、必要なことが分かりました。
(2013.12.22.)


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2013年12月17日

今朝聖書を開いたら、サーム(詩篇)108篇12から13節が開きました。感銘を受けたのでそれを書きます。サーム(詩篇)108篇は、Good News Bibleでは、『敵に対する助けを求める祈り』との表題が付いていて、私たちの「敵」に対処する仕方が書いてある詩です。

ここで「敵」とは、何も「戦争の時の敵」ではありません。「ケンカの時の敵」とも限りません。私たちの一日の生活が、どうも思うようにうまくいかないとき、それを「敵の仕業」、「悪魔の計略」と考えるのが、私たちクリスチャンの考え方です。私たちには、悪魔が敵なのです。はっきり言えば、「悪魔的な考え方」が「敵」なのです。言い換えれば、そういう考え方を基に、『私たちの神様にあっての喜び』を私たちから奪おうとするのが、「悪魔の究極的な計画」なのです。

「事柄がうまくいかないのは、」おおくは自分に責任があるのでしょうが、それをどうしようもないのです。でも、自分の責任だと思わせるところが、『悪魔の計画』なのかもしれません

サーム(詩篇)108篇には、その最後に、
12 私たちを敵の力から助けてください;人間の助けは、何の価値も生みません。13 神様が私たちの側におられるなら、私たちは勝つのです;神様は私たちの敵を打ち負かされるでしょう。(サーム(詩篇)108篇12から13節、Good News Bible, Good News Translation 108.12-13.の翻訳)』と書いてあります。

私たちが困ったときに対処すべき『人間的な知恵』が書かれている書物はいっぱいあります。また人間的な良いアドバイスをする人たちも、いっぱい居ます。しかし、私たちは、それらに機械的に従って生活しても、何も問題は解決しません。だから、人の助けは、参考にはなるけれども、何の価値も生まない(12節)のだと思います。
それは、「それらは多分、私の特別な事情を考慮せずに書かれ、言われた言葉」だからでしょう。  だから、私たちのこころに響かないので、有効ではないのだと思います。

私の特別な事情は、神様だけが すべて ご存じです。そこに、聖書を開くことに特別な意味があるのです。
聖書を「神様の力を信じて読む」ことの重要性は、ここにあるのだと思います。なぜなら、私たちは、聖書を読むとき、「自分の心の底にある今の欲求を含めて、今の自分の すべての状態」を神様に申し上げながら、聖書を読むからだと思います。神様の前では 私たちは正直になれるのです。

≪まとめ≫
聖書を開くと、それは、神様の力に頼ることの重要性が至る所に書かれています。神様の力に頼るとは、神様の力を信じることですが、同時に、自分の立場、自分が今、計画していることから離れて、神様の価値順位観で自分を見つめ直すことだと思います。 
それが、たぶん、私たちに、「私の表面的な今の欲求だけではなくて、私が今、一番しなければいけないこと」に気づかせてくれるのだと思います。
自分にとらわれずに、広い立場から、つまり、 神様の目から、自分を見つめ直すときに、私たちは、「今の自分」を離れて、自分を客観的に見ることが出来るようになります。
そうすれば、そこに 古い自分にとらわれない新しい価値があるアイディア【創造的なアイディア】が生まれてくるのだと思います。
それが、『神様が私たちの側におられる(13節)』ということの具体的な意味ではないでしょうか
(2013.12.17.)


posted by goodnews at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 「私たちの敵」とは何か? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月11日

「日本がアメリカの言いなりになっている。」として不満をぶちまける 今の日本の「超保守主義の人々」の発言を聞くと、どうやら日本が「アメリカナイズされる?」ことを憂えているように見えます。この点は非常に重大な誤りなので、忙しいなか、それを憂えてブログに書きます。

日本の保守主義者の考え方の原点は、どうもそういうところにあるようです。
一例をあげると、日本人が、英会話に非常に不得手なのは、日本が「アメリカナイズされる?」ことに反発するからだと思います。さて、
1.これらの保守主義の人たちの言い分は、日本が始めた第2次世界大戦に日本が敗れたことを まず、日本の責任と考えません。そう考えずに、いまだにアメリカが悪いと考えているように思えます。そして、この敗戦を境に設定された新日本国憲法は、アメリカの言いなりに出来上がった 押しつけ憲法であって、日本人の発想からできた憲法ではないと主張するのです。そのため、『改憲』、つまり『憲法改正?』が、その主張の基幹に据えられているのです。

2.また、これらの人たちは、「アメリカの文化」を受け入れることに反発を感じています。
そして、この反発は、日本人の心の奥底にも、深く根ざしているようで、それは、「欧米のキリスト教」に対する「反発心」を伴って、日本の知識人や日本のキリスト教徒の間にも蔓延しています。それは、日本の小さな宗教集団であった日本の「無教会主義の主張」に すでに含まれていました。そして、その考え方は、今も、多くの人々に受け継がれているようです。
それはとても不思議なことですが、それは日本の古来の宗教思想である汎神論にも根ざしていて、唯一神を信じる この欧米の発想に、毛嫌いを感じているように見受けられます。

無教会主義批判:
「無教会主義」は、内村鑑三が提唱して始まった日本的キリスト教を名乗る団体の考え方です。アメリカや欧米のキリスト教団体組織に疑問を抱いた内村鑑三は、それらを社交的キリスト教として非難し、ほんとうのキリスト教ではないとして、観念的な無教会主義を提唱しました。その内村鑑三が言った多くの言葉、たとえば「我々は、日本的キリスト教を作らなければならない。」という言葉に代表されているように、その主張は、はじめからその思想に含まれていて、それらは反欧米思想であり、また反キリスト思想であったと言わざるを得ません。
そこを詳しく説明します。無教会主義の特徴は、
1.人々の間での人間的な交流を禁じる。
2.物質文明を危険視する。
3.道徳的な行いを重んじる。
に表れていて、一見、一面、もっともらしく見えます。しかし、考えようによっては、人として生きたジーザスの愛の精神に、全く反していると言わざるを得ないものであったのです
つまりこの考え方は、似て非な、偽(にせ)キリスト教であったと言わざるを得ません。

私は、この無教会主義に表れた日本人の誤った「反欧米思想」、隠れた「反キリスト教思想」、隠れた「反ジーザス思想」が、今も、日本の社会に「超保守主義」として、姿を変えて存在していると思っています。

≪まとめ≫
ジーザスの教えの中心は、人々が、互いに愛し合うことでした。不完全な人間同士が愛し合うということは、
1.その互いの人間的な欲望― つまり、生存欲、食欲、性欲、活動欲、睡眠欲、理想達成欲、愛されたい欲望、などを悪いものとしてではなく、神様の意志がこもった「非常に良いもの」として受け入れることから始まります。 私は、それが、「愛」の始まりだと思うのです。
2.愛」は、悪魔的な考え方には、強く反発しますが、一方、これらの人の正当な欲望を受け入れ、ゆるし、それらを満たすように、努めることから始まると思うのです。現在の物質文明は、そのようにして出来上がりました。
3.愛は 建設的です。建設する前に間違ったものを破壊しようとはしますが、目指す最後は愛の国の建設なのです。

結果的に日本を破滅に導こうとする、超保守主義など、人権を無視する、あらゆる悪魔的な試みに対して、私たちはあくまでも抵抗しなければならないと思うのです。
(2013.12.11.)


2013年12月03日

妻の輝子の3年前の左足の皮膚の潰瘍が1か月ほど前から再発しました。それが日ごとに広がって非常に悪くなったので、2013.11.29.(金)に練馬総合病院創傷センターに1か月の予定で入院しました。それで私はまた一人暮らしになっています。

妻の入院が決まった2013.11.28.の夜、ベッドで聖書を開けていましたら、1ジョン、つまりジョン(ヨハネ)の第一の手紙【ヨハネの手紙一】4章の後半が目に留まりました。それで感動しましたので、今日は、そこを翻訳して解説します。そこには、
15 もし私たちが、ジーザスは神様の息子であるとはっきり言うなら、私たちは神様と一緒に住んでいるのであり、神様も私たちと一緒に住んでおられるのです。16 そして私たち自身、神様が私たちのために与えてくださった愛を 知りまた信じているのです。
神様は愛です、そして愛に生きている人たちは、神様と一緒に生きているのです。そして神様はその人たちと一緒に生きておられるのです。17 愛は、私たちの中で完全なものになっており、それは私たちが、最後のさばきの日に、勇気を持つことが出来るようになるためです;そして私たちのこの世においての命が、クライストの命と同じだからです。18 愛には恐れがありません;完全な愛は、おそれを取り除いてしまうからです。ですから、恐れている人の中では、愛は完全ではありません、何故なら、恐れは、罰と関係があるからです。
19 私たちは、神様が最初に私たちを愛してくださったから、愛するのです。20 もし私たちが、私たちは神様を愛すると言いながら、他の人たちを嫌うならば、私たちはウソつきです。何故なら、もし私たちが目に見える、見たことのあるほかの人たちを愛さないならば、私たちは、目に見えない、見たことのない神様を愛することはできないからです。21 クライストが私たちに与えてくださった命令は次のようなものです:神様を愛する者はだれでも、ほかの人たちをも愛さなければなりません。
(1ジョン(ヨハネ)4章15から21節、Good News Bible, Good News Translation 1JOHN4.15-21の翻訳)』と書いてあります。
これも、ジョン(ヨハネ)独特の言い回しの特徴が良く出ており、文章は理論的というより、直観的、霊的、信仰的です。

私たちクリスチャンは、私たちの判断の基準で、人を判断するのではありません。そうではなく、神様の目で人を判断するのです。だから、私たちは、お金をたくさん持っているからといって、お金持ちを尊敬しません。有名人に心酔しません。実力者にすり寄りません。
かえって、虐げられている人たちを擁護し、人がほんとうに必要としていることを満たし、貧しい人に同情しお金をわたし、病を癒し、悩んでいる人たちを慰めます。
ここでジョン(ヨハネ)が言う「愛」とは、そういうものだと思います。男女間の愛も、夫婦間の愛も、この線に沿って行われて、ほんとうに うるわしいものとなるのです。神様が、私たちを最初に愛してくださった「愛」(19節)とは、実はそういうものだったと思います。

「愛」とは、人のために自分を捨てるというような 単純なものではないと思います。

≪まとめ≫
【ジーザスが、神様の息子である証拠】
ジーザスが、神様の一人息子である理由は、ジーザスが、私たちのすべての不具合や失敗やスィン・罪をゆるし、ジーザスを信じる私たちを 『神様の前に正しい者』として受け入れてくださったからです。 そして、私たちに、『永遠的な命』を与えてくださいました。このことが、ジーザスこそが、神様の一人息子であることの証拠なのです。
私たちをゆるしてくださったということは、私たちが犯したそういう悪や罪よりも、もっと大きなもっと悪い「悪」「スィン・罪」が、実はあるからです。 
もっと悪い「悪」とは、「神様」を信じない、「神様」を慕わない悪のことです。ここで「神様」と言ったところを、すべて「真理」「ほんとうの事」と言い換えれば、多くの皆様に分かると思います。
「真理」の存在を信じない、「真理」を知ることを慕わない学者たちや人たちは、必ず、悲惨な生涯を送ることになるからです。それは「真理」は神から出るからです。
(2013.12.3.)


2013年11月25日

昨日は11時半にベッドに入ってすぐに寝つけましたが、どうしても継続して眠れず、1時20分に目を覚ましてしまいました。そこで聖書を開いたらサーム(詩篇)96篇の1から3節が目に留まりました。眠れそうにないので、これのGNTの訳を翻訳してから寝ようと

午前2時に起床し、このブログを書きました。このサーム(詩篇)には、
神様、最高の王 (1歴代誌16.23-33) 主に向かって新しい歌を歌え! 主と全世界に向かって歌え! 2 主に向かって歌い、主をたたえよ! 主が私たちを救われたという良い知らせを 毎日皆に伝えよ。 3 主の栄光と主の喜びと すべての国民に対して力強くなされたことをいい広めよ。(サーム(詩篇)96篇1から3節、Good News Bible, Good News Translation PSALM96.1-3.の翻訳)』とありました。
これは、明らかに、「神様の救いに満ちた愛」をたたえる歌です。
1.救いは、人に新しいこころを与えます。だから、新しい歌が出てくるのです。
2.そしてしかも、その神様を賛美する歌は、救われた人々である仲間に対してだけ、伝えられるのではなく、「皆に」、「すべての国民に対して」いい広めようという心を生むのです。
いい広める方法は、必ずしも言葉によるだけではなく、その心がこもった音楽であったり、絵画であったり、詩であったり、そのほかのすべての作品であることもあるでしょう。
でも、それらは、「神様の救いに満ちた愛」をたたえるこころが、間接的に伝わってくるものでなければなりません。
3.その伝える歌の内容は、主のgloryです。「glory」とは、普通は「栄光」と訳しますが、その内容は、「主のすばらしさ」と「主の威厳」と「主の喜びのこころ」のことです。それを人々に告げ知らせよ、言い広めよ。というのがこのサーム(詩篇)の趣旨です。

ですから今晩 このサーム(詩篇)を読んで私は深く慰められたのです。なお、ここの「力強くなされたこと」というところは、日本語聖書では、「驚くべき御業(みわざ)(新共同訳聖書)」とか「その奇しい(くすしい)わざ」などと訳してあるところです。「みわざ(御業)」とか「わざ」などという言葉は、「神業」として一部 神道で用いられてきた言葉で、日本語にもともとはなかった日本語聖書が捻出したキリスト教専門用語で、なじみのない言葉なので、私は「力強くなされたこと」と訳しました。

≪まとめ≫
聖書が伝えようとしている「信仰」とは、結局は、「神様の救いに満ちた愛」と、「その力強さ」をたたえる「神様を心から賛美するこころ」だと思います。神様に感謝し、神様を力強く讃えることなしには、「ほんとうの信仰」はあり得ないと思います。
また、文化も そこに神様をたたえる心が、伝わらなければ、「ほんとうの文化」ではあり得ないと思います。
(2013.11.25.)


2013年11月20日

以下は、2013.10.29.午前4時20分から書き始めた三つの一連の「ブログ」の締めくくりです。 愛を伴わない性的欲望(性欲)というものがあります。それの激しすぎるものを英語で「lust」と呼ぶのでしょう。「愛のない性的欲望」を満たそうと実行するのが、

「愛を伴わないセックス」であり、それは半ば暴力的なものであり、あるいは、お互いに利己的なものであり、半ば機械的で犯罪的なものです。
「愛を伴わないセックス」は、双方が合意していたとしても、「機械的なセックス」です。それは双方がそれを望んでいたとしても、いわば 双方の「自分中心主義、利己主義」に根差して行われるからです。ですから、それは自己満足以外の何物でもなく、だから深い喜びや深い満足感は出てこないのです。もちろん、神様に対する感謝や賛美は出てきません。
「愛」は、本来、創造性や活力を生むものですが、そういうこともありません。

いっぽう 「愛を伴う性的欲望」を、厳密な意味で「恋愛」と呼んでよいと思います
キリスト教界では、「恋愛」は、多くの派で長らく禁止されてきたようです。それで、結婚も、恋愛結婚によるのではなく、ほかの人が選んだ「第3者が決定する結婚」が推奨されてきた経緯があります。それが、極端でない場合は、「お見合い結婚(arranged mariage)」という形で進められました。
しかし、それが極端な場合、「結婚式当日に相手の顔を始めてみるような結婚」が、逆に理想的な 「信仰による結婚」とされてきたようです。私が長らく居た矢内原忠雄を先生とする「無教会主義」では、それが実際行われた事実が多くあります。矢内原の次男は、自分の好きな女性と結婚しようとしたので、父親に猛反対されて、結婚を長く認められなかったようです。しかし、この種の極端なお見合い結婚は、実は キリスト教を名乗る新興宗教の一つである「統一教会」でも行われ、その集団結婚式は有名です。
この種の結婚の形態は、自然に反するものですから、無理を生み、しかも、自分たちの信仰がそれを支えるという思い込みは、「非常に観念的で傲慢な自信」に基づくものです。

このように、「恋愛結婚」を禁じる「キリスト教神学」は、とんでもない間違いを犯した「異教的な神学」であったと言わざるを得ません。

もちろん、恋愛結婚なら、どんなカップルでもよいと言うわけでは決してありません。だからこそ、ここに「理想的な恋愛」はどういうものかを書こうというわけです。

なお、「さしあたりの性的欲望を満たす目的で行われる、いわゆる『恋愛』」は、キリスト教界では、長らく、多くの派で、「不倫」、「姦淫」、「浮気」として禁じられてきました。今でも、そうです。皆さんご存じのとおりです。
しかし、この三つの言葉、「不倫」、「姦淫」、「浮気」は、またまた不適当な軽蔑と非難が、初めからこもった言葉です。場合によっては、これらは差別用語になりかねません。たとえば、日本でも長らく、浮気によって生まれた子供を父親なしで育てる女性が、「シングルマザー」として、一時期一段低いものとして、軽蔑されてきました。最近、英語では、それらを価値観や、非難の感情がこもっていない「婚外セックス(extramarital relations)」と呼ぶようになってきています。

そしてこの「婚外セックス(extramarital relations)」は、次第に「夫婦間で行われる夫婦交換セックス(swinging)」の考え方にまで進んできました。そして、「決して子供を産むことにはならない同性間の性的関係や同性婚(the same sex mariage)」までも社会的に容認するように発展してきました。 しかもそれらが、聖書的な根拠を基に支持され始めてきたのです。

これらの傾向が、古い宗教的な考え方を持った人々が言う 『人々が神様を見失った結果として行われている 間違った「神様に対するスィン・罪」の表れ』なのか、または そうでないのかは、実は重大な問題でありまして、私は、それらは皆、望ましいことではないとしても、神様のもとでの「間違った行為」では無いと考えています。

そこで、それでは、「理想的な恋愛」のあり方は何かが、大切なことになるのです。「理想的な恋愛」でなければ、それはむしろ、「神様に対するスィン・罪」あるいは「神様に対する過ち」であろうと私は、以前から考えています。

『理想的な恋愛』について。
「恋愛」は英語では、「romanntic love」あるいは、聖書では 単に「love」と言います。人間の間の「愛」です。 今日は、その「理想的な恋愛」について書きます。
特に その「恋愛の愛の内容」について、今日は、考えてみたいと思います

そういう恋愛は罪だと言い切るのは、とんでもない間違いだと思います。それは、ここで言う理想的な恋愛の愛は、純粋に精神的な愛から始まる「全人格的な愛」だからです。
聖書で恋愛と言えば、何よりも、歌の中の歌(雅歌、ソロモンの歌)の中にそれは描かれています。これによって私たちは本当の恋愛とは何かを学べるのです。
歌の中の歌(雅歌)は、この恋愛(人間同士の愛)をたたえた歌です。以下に、歌の中の歌(雅歌)を読んでいて分かる「本当の恋愛」の特徴を 箇条書き的に書いてみます。歌の中の歌(雅歌)は、ソロモン王の死後600年の紀元前4〜3世紀ころに作られた作品で、作者は 多分女性ではないかと考えられています。
1.二人の男女は、多くの異性を見比べて、相手にすべてに勝る「優れた点」を見出ている。
2.相手を互いに尊敬している。
3.相手の肉体的な美しさと精神的な美しさをたたえている。
4.自分の美しさ、自分の優れた点を自認している。
5.二人とも、その愛の関係を後ろめたく思ってはいない。むしろ、それを誇っている。
6.二人が肉体的に、また精神的に結び付くことを願っている。
7.性的交渉を 恥ずかしいことと思っていない。

≪まとめ≫
男女間の愛、あるいは、性欲の充足を目指した愛。肉体的な一体感だけではなく、精神的な一体感を求めてゆく愛。それが、そもそも人間というもの、人間同士が究極的に目指すべき「正しい欲望」なのではないでしょうか。
それが得られる背景には、お互いを尊敬し、お互いを受け入れる「愛」が欠かせません。相手を「正しい」とする寛容というか、理解に基づいた赦しの心も、不可欠です。つまり、それには、お互いに「神様の前に自分は正しい」という確信が必要です。

その確信を可能にしたのが、ジーザスの福音だと思います。尊敬されるには、尊敬されるに値する心がなければなりません。その心は、ジーザスに赦され、ジーザスを神と仰ぐ心ではあるまいかと思われます。神様の前にへりくだった謙遜な人だけが、自分が神様にゆるされたことを自覚して、そういう自分の、神様の前での尊さを始めて自覚するからだと思います。
そこに自信が生まれ、仕事をしてゆく活力も、後ろめたく思わずに、人を愛し、あるいは人を恋する「勇気」も「積極性」も出てくるのだと思います。

すべては、この『人をゆるし、人を正しいとしてくださる神様からの愛』、つまり『ジーザスからの良い知らせ』こそが、『すべての愛』の始まりだと思います。
(2013.11.20.)


2013年11月16日

2013.11.13.のブログに引き続いて、女性が男性の恋人になるための資質を書きます。考えてみると、「私が魅力を感じる女性」は、ほんとうに限られてきます。だから私は本当にめったに美しいと思える 好きな女性に出会ったことがありません。外観が美しい女性は、

かなりいっぱい居ます。特に、肉体がよく発達し、すらっとして健康そのものという感じの女性は、近年日本で増えてきて、いかにも見ていて気持ちが良いものです。
しかし、それは心の美しさとは まったく無縁なものです。それは、セックスマシーンとしての美しさです。ですから、私は見ていて、気味が悪くなり、好きになれません。けっきょく、それは「部分の美しさ」に過ぎないからです。


部分を目立たせるために、お化粧を濃くして、飾り物をつけて、高価な服を着ている人工的な女性はいっぱい居ます。私が一番嫌いなタイプです

美しい女性は、目立たない身だしなみと、目立たないおしゃれと、目立たないお化粧をしている「素顔」の女性であることが最低条件です。
人工的に無理に作ろうとした美は、決して美ではなく、逆に醜悪なのです。

前に挙げた8つの項目のほかに、
9. ウソをつく女性。これも、女性の魅力を台無しにします。それは、純真で天真爛漫(てんしんらんまん)の逆ですからね。歌の中の歌(雅歌)を読むと、ここに出てくる主人公の女性は、実に 天真爛漫です。

でも、私が魅力を本当に感じて、好きだ、抱きしめたいと思い 私が性的興奮を覚える女性は、これらの条件をすべて満たした『気品がある、そして、優しくてよく気が付く、頭の良い女性』に限られます。だからたいていの女性はすべて私から見て失格となってしまうのです。

【ほんとうの恋人】
恋人(lover)が この9つの基準で選ばれれば、ほんとうに楽しい、ほんとうに気持ちが良い交際が出来ると思います。ほんとうに気持ちが良いセックスも出来ると思います。そういう男女が夫婦になれれば、きっと精神的にも、肉体的にも うまく行くと思います。

聖書の歌の中の歌(雅歌)に出てくる女性
ところで聖書の歌の中の歌(雅歌)に出てくる女性は、男から見て、これらの特徴・資質を すべてよく兼ね備えた女性のように思われます。ウソをつかない「正直」と言えば、歌の中の歌(雅歌)5章2から6節に書かれている、「恋人である男性が女性を訪ねて、ドアーをたたいた時、」その女性が、『3 私はもう服を脱いでしまった; どうしてまた服を着ることが出来ましょう? 足を洗ってしまったのに、なぜまた足を汚さねばならないの?(歌の中の歌(雅歌)5章3節、Good News Bible, Good News Translation ,SONG OF SONGS 5.3.の翻訳)』と言ったとされるこの箇所は、いろいろな解釈があると思いますが、この女性の心に率直で、心に正直なこころがあることをよく表していると思います。

≪むすび≫
結局、「ほんとうの信仰」がある女性は、ひと目見て、最も美しく、そして、互いにすぐに親しくなれるものです。そしてそれは神様が与えてくれた直観によって 二人は結びつくのです。そしてその直観の根拠は、先に上げた9項目を持っていないことが見抜けることによるのです。
本当に長続きがする こころも、体もゆるしあった恋人や 結婚相手ができるのは、そういうプロセスを経るのだと思います。

≪まとめ≫
現代のように、「愛を伴わないセックス、愛を伴わない性的交渉」が横行する中で、愛を伴った 真の恋人の関係が望まれます。そして、それが歌の中の歌(雅歌)に良く書かれていると思うのです。
ですから、男も女も、中学、高校時代からずっと続いて、それに適した勉学と訓練と「正しい信仰」の習慣を積む必要があります。
そうでないと、お互いに、飽きてしまって、ときに互いに憎みあい、嫌い合うような夫婦や、破たんした元恋人ばかりが、世の中に横行してしまうのです
(2013.11.16.)


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2013年11月13日

キリスト教界では、『恋愛結婚は罪である。』と今から考えると とんでもないことを昔、うそぶいていたものです。【たとえば、無教会主義キリスト教】。しかし、歌の中の歌(雅歌)に代表される旧・新約聖書を 静かに読めば、恋愛結婚でない結婚こそ 罪・不適当とも言えます。

そこで、ほんとうの恋人やほんとうの愛人や、神様に祝福された結婚相手は どのようにして得られるのかが問題です。今日はこれから3日間にわたって そういう話をします。
私個人の経験からしますと、日本で『私が美しいと思える 魅力的な女性』に出会うことはめったにありません。まあ3万人に一人くらい居るかなあ。と思っています。もっと少ないかもしれません。
だから私は、ずいぶん損をしていると思います。これは、私が性的能力に劣っているせいかもしれません。しかし、そうではなく理想が高いために、魅力を感じる女性が きわめて限られているからに違いありません

私としては、まずものごとを広く、深く考えることが出来る女性にしか興味を感じません
だから、頭が良くて、学校で勉強がよくできた女性にしか 性的興味が湧きません。
たいていの女性を見ていると、言っては悪いけれど、『バカ面(づら)』に見えてくるのです。『バカ面』は、たぶん、中学、高校でも、勉強をしなかった人だと思います。
ただし、勉強といっても受験勉強のことではありません。受験勉強は、一種のテクニックの面が強く、ほんとうの深い勉強ではないと考えているからです。東京大学にストレートで入学した人にも、バカはいっぱい居ます。ほとんどバカばっかりです。

ただ学校で、勉強すら うまく進まなかった人は、まず、精神的にしっかりしていないと思えますから、私の恋愛の対象にはなれません。

『頭が悪い』ということ
ここで「頭が悪い」というのは、具体的には、まず、
1.物事を広く、深く考えることが出来ない。
2.すべてのことに集中力がない。
3.勉強の教科について 深く考える力がない。それは記憶の量のことではありません。
4.さらに、自分の人生の目的についても、自分の目先の利益しか考えない。
これらは、皆、中学、高校の勉強の中で、養われるはずのものですから、その勉強を真の意味でして来なかった人は、自分の人生の目標について決して 深く考えることはできないのです
5.次に言えることは、ほんとうの事の原理や、本当の美しさなどについて、悟ることが出来ない。そういう感受性がない。これは、「国語力・読解力の不足」といってもよいと思います。
6.そして、 つまらない「価値順位観」を持っている。
7.つぎに、最も重要なのは、『自分を知る』ことが出来ない点です。
自分を知るということは、自分の弱さを知るとともに、自分の尊さを知ることを意味します
これがないと、人は、自分に自信を持てなくなり、妙に卑下して、消極的になってしまいます
女性でも、そういう女性は 心底からは明るくなれません。ですから、ちょっと見て、すぐにその心の暗さが分かってしまいます。だから、私はそういう女性に、恋人、異性として魅力を感じることはできないのです。
8.そして、謙虚な心がない、つまり自分を心の中で自慢している女性です。

≪まとめ≫
「女性の魅力」というものは、とても難しいことだと思います。
「魅力のある女性になること」は、大変困難なことです。それは、お金や努力で出来ることではありません。それは「教養」によってつちかわれると言ってしまえば、確かに「ほんとう意味の教養」が必要なのです。
その「教養」が感じられない女性には、私は美しさを感じません。ただし、教養とは、必ずしも学歴と比例しません。教養はちょっとした しぐさにも表われます。
教養は、かならずしも知識の多さではなく、「価値順位観の正しさ」と、「高い価値順位」から生まれます。「高い価値順位」とは、「神様を知り、神様の存在を信じ、神様を恐れる心のことです。」 それは、世の中の深さを知ることだと言っても良いでしょう。
それが本当の意味での「自分を自慢しない心」、つまり「謙虚な心」なのです。信仰的に言えば、「神様の前での自分の至らなさを知り、しかも神様の守りと愛を信じている・・・。」
教養とは、そういう心のことだと思います。

(2013.11.13.)


2013年11月06日

「悔いる」というのは、ものごとがうまくいかなかったときに、ああまずかったなあ。失敗したなあ。と思うことです。キリスト教界では、この「悔いる。」という言葉を、頻繁に使います。英語では動詞「repent」です。まずかったなあ、失敗したなあ。と思っても、

その失敗の原因に気づかないとき、有益な結果を生みません。その失敗もそのうち忘れて、まあいいや。となるだけです。

『悔いる』ということについて 聖書が教えているのは、その失敗や、ものごとがうまくいかなかった原因を『神様の前での自分の失敗として、自分の信仰の至らなさとして「悔いる」ことです。』 
聖書では、すべてのことについて、その原因を徹底的に考えるのが特徴です。 
そうするときに、失敗は「深刻な失敗」として、もうほとんど繰り返されない「失敗」になり、かえって失敗が益に変わるのです。

失敗だけではありません。事がうまくいかなかったことや、大きな災難、災害が身に降りかかってきたときに、その原因を「自分の過ちに対して神様が下した災難」として、反省するのが聖書の教えです。ノアの洪水のときにも、聖書で預言者は、その根本原因を人々の腐敗にあったと指摘しています。

「人には悪いことも起これば、良いことも起る、すべては、自然に偶然に起こった災難であり、災害である。」と考える人は 不信者です。失敗や災難には、また、祝福や幸福の場合も含めて、かならず、神様の側の原因の他に、まず自分たちの側にその「信仰的な原因がある。」と考えるのです。そして、神様の前に謙虚になるのが、聖書が教える教えであり、ジーザスもいつも、そう教えました。

≪まとめ≫
「失敗」を、環境や ほかの人のせいにするのは、信仰的ではありません。自分たちの神様に対する今までの申し訳ない「考え方や、決断や行動や心」、そこに失敗の種があったと考えるのが、キリスト教界の考え方です。それを今までのキリスト教界では、「スィン・罪」と言ってきました。まず「神様に対する自分のあやまり、自分の弱さ、自分の間違い」を悟るところに、新しい本当の出発点があるのだと思います。そうすれば、古い自分が死んで、初めて新しい自分が新たに創造(recreate)されます。
新たな創造(recreation)には、破壊がまず、先行するからです。

災害・災難も同じです。災害・災難を恨むのではなく、神様に自分の今までの至らなさを悔い、その災害・災難を通して、自分たちを神様が新しく作り変えようとしている時が来たと考えなければなりません。
そうすれば初めて、神様は愛であるということが分かるのです。
神様は、失敗や破壊を通して、私たちを新しく作り変えられるからです。

(2013.11.6.)


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2013年10月26日

これは聖書のどこに書いてあるというのではありませんが、Erik Rothさんのバイブルクラスで、『マーク(マルコ)による福音の中の奇蹟』の話のときに話されたことが元で、私が新しく気づいたことを書きます。Erik Rothさんの話は、現代のキリスト教会に最も欠けていることは何か

を、それとなく気づかせてくれた、示唆に富んだ話でした。ですから以下にそれを書きます。

マーク(マルコ)による福音には、奇蹟の記事が 全節の35%あり、4つの福音書の中で一番奇蹟の記述が多いそうです。そして、そのジーザスがなさった奇蹟(病の癒し、食べ物をあげる奇蹟、超自然的な奇蹟)を通してみると、ジーザスは、ただ「精神的な救い」について話しただけではありませんでした。
マークによる福音によると、ジーザスは人々の病をいやした。人々の肉体的な必要性を満たした、精神的な悩みに対しても、それを解決しようと努められたのです。これらのことは、個々の奇蹟の記事を読むと、マルコが最も強調したかった 「ジーザスの特徴」であったことが分かります。

ちなみに、日本語で「救う」と翻訳されている箇所の多くは、原文のギリシャ語では、「SOZO(ソウゾウ)」という言葉が使われており、この「SOZO(ソウゾウ)」には、「精神的・霊的に救う」という意味と、もう一つ「肉体的に人をいやす、人の肉体的な必要性を満たす」という二つの意味があるそうです。これもErik Rothさんから教えられました。

そこでErik Rothさんが言うのに、今の教会は、人々の魂(たましい)が救われるということばかり話していて、ちっとも、人々の「肉体をいやす」ことをしないと言いました。

私が思うに、たとえば、「貧しいものは天国に入れる」とばかり言っていないで、もっと人々の具体的な 肉体的・精神的な必要性、つまり、今の悩みを解決するようなことを言わなければなりません。
つまり、人を霊的・精神的に救おうとするだけではなく、その肉体的・物質的な必要性を満たしてあげなければなりません。
Erik Rothさんは、そう考えているようでした。
具体的には、たとえば、教会は、信者や人々に対して、医学的な助けもするのが夢だと言われました。
これを広げて、私が考えますと、【現代の人々の代表的な悩み】、たとえば
1.お金がないという悩み、
2.ストレスをはねつけるには、どうしたら良いかという悩み、
3.健康で、長生きする、つまり健康長寿を保つには、どいう点に気をつければよいかという悩み、
これらの個人個人の悩みに対して、教会は、具体的に答えられるようでなくてはならないと思います。

今のキリスト教会には、「いろいろな派」の「聖書を中心に考えると言っているキリスト教界」があります。しかし、私は、米国や欧米や中国のことはよく知りませんが、今のキリスト教会に、この点が欠けているから、日本の人々にとって、教会には、魅力がさっぱりないのだと思います。

≪まとめ≫
「救い」とは、単に人を霊的に救うことだけを意味するのではありません!
 そうではなくて、「救い」には、「人々の肉体的・物質的な必要性を満たす救い」も含まれているのです。そのことを マーク(マルコ)による福音は 教えています。

だから、「頭で考えた霊的・精神的な心の救い」のことばかり言っている牧師やキリスト教界は、これからドンドン衰退してゆくことでしょう。少なくとも日本では、クリスチャンの人数がこのところドンドン減ってきている事実があります。それは、これと無関係ではないと思います。
集まってきた人々を肉体的に救うのには、お金もかかります。だからお金も必要でしょうが、しかし、お金を使わずに知恵で、いろいろな新しい現代医学も踏まえた具体的なアドバイスはできると思います。それなのに、「それさえ出来ない牧師」などというものは、神様に捨てられてしまうでしょう。そして同時に、人々にも見向きもされなくなるのです。
このことが、奇蹟による救いと癒しの記事が抜群に多い 『マーク(マルコ)による福音』が物語っている「もっとも重要な結論の一つ」なのだと思います。
(2013.10.26.)


2013年10月24日

私が出ている木曜日の午後7時からの「日本福音ルーテル東京教会Eric Rothさん(アメリカからの宣教師)のバイブルクラス」では、2013.9.26.に『マーク(マルコ)による福音の中の奇蹟』が終わりました。そして、2013.10.3.からアイゼイヤ(イザヤ書)が始まりました。

その初日の会の直前に、私が前から分からなかったアイゼイヤ(イザヤ書)6章9節から10節の意味をErik Rothさんと二人だけになった時に、Erik Rothさんに英語で質問しました。
その答えを思い起こし、やっと、今日、その意味が分かりましたので、それを書きます。
これはErik Rothさんに教えられたことがきっかけで、神様が教えてくださったのです。それは、「アイゼイヤ(イザヤ)の召命」と呼ばれる部分にある言葉です。2008.5.20.のブログでちょっと触れた個所の続きに書いてある個所です。実は、次のところが、私には、まったく分からなかったのです。

アイゼイヤは、神様が『私(神様)のメッセージを伝える者はいないのか?』と言われた時に、『“私が行きます!私を遣わして下さい!”(アイゼイヤ(イザヤ書)6章8節b、Good News Bible, Good News Translation ISAIAH9.8bの翻訳)』と、アイゼイヤ(イザヤ)は若いのに、言っています。その直後に神様がアイゼイヤ(イザヤ)に言わせたい言葉として、次のように書かれているのです。
9 そこで神様は私に、行って人々に次のように告げるようにと言われました。“あなたたちはどんなにたくさん聞いても、理解しません。どんなに見ても、何が起こっているのかを知ることはありません”10 そこで神様は私に、“こういう人たちの心を鈍くし、耳を聞こえなくし、目を見えなくさせなさい、それで彼らが見ることも聞くこともできなくなります。もし彼らがそういうことが出来たならば、彼らは、私(神様)の前に戻ってきて、そして癒されたでしょうに。”(アイゼイヤ(イザヤ書)6章9節から10節、Good News Bible, Good News Translation ISAIAH)6.9-10.の翻訳)』とある箇所で、 Good News Bible, Good News Translation では、ほかの英文聖書と比べて、ここは ずっと分かり易く翻訳してあるのです。しかし、下線の部分は、それでも激越です。
これは、有名なアイザイヤ(イザヤ書)の中の言葉です。ジーザスもここを引用されたようですし、ポール(パウロ)も、ここを引用しました。つまり、ここはとても有名なアイゼイヤ(イザヤ書)の聖書の箇所なのです。

私が分からなかったわけは単純です。神様が、人々に10節の下線の部分にあるように、『“こういう人たちの心を鈍くし、耳を聞こえなくし、目を見えなくさせなさい、それで彼らが見ることも聞くこともできなくなります。』のように、言うわけがないと思い込んでいたからです。今思うと、私の疑問は間違っていました。
しかし、それでアイザイヤ(イザヤ書)の初日に、このクラスが始まる前にErik Rothさんにこれを質問したわけです。でも、その答えは簡単でした。『これは、そのあとを読めば分かるように、不信仰な人たちに対する神様からの刑罰の言葉として書かれているのです。』と言われました。

神様がくだす刑罰:
刑罰として、神様は 人々の心をかたくなにし、刑罰として、神様が人々を滅ぼす。というところが、2013.10.3.に この答えを聞いた時点でも、良く分かりませんでした。私は全く駄目な人間なのです。
それも、若い、なり立ての預言者アイゼイヤに、その刑罰を人々に対してするように神様が命じたのです! 『預言者は、人々に分かり易く 神様の心を知らせ、人々を救うために神様の言葉を伝えるのが使命ではないだろうか』と私は思いこんでいましたから、私にはそこが良く分からなかったのです。
ところが、それが今日、良く分かったのです!

私が分かった理由:
1.人というものが、どんなに悪いものであるかを思い知った最近の私だから、ここのところが分かったのだと思います。悪いと言うのは、行いが悪いとか、行いが不完全だとか、行いが不適当だという意味では決してありません。皆、心が利己主義なのです。その利己主義(selfishness)、自分中心主義で物事を考える人ばかりだと言うことです。それは神様が喜ばれることなのかとか、これは神様のご意志なのかという見方で、物事を判断し行動する人は、一人もいないということを意味しています。もちろんほかの人の必要を満たすために行動する人はいません、一人もいません。そういう確信が心の中に芽生えてきて、人は、このアイゼイヤ(イザヤ)のような発言をするようになるのです。
2.人が良くなるためには、このような人に、なまじっか聖書を分からせてはいけないのです。それは、心でわからず、頭でわかるだけだからです。

心で聖書を分かるとは、自分の今までの神様に対する態度が、まったく間違っていたと自覚して初めてできることです。だから人がそう自覚するためには、神様の刑罰の連続で人々を滅ぼすしかない、もっとも、滅ぼすと言っても、預言者が人を暴力的に滅ぼすのではありません。神様の言葉を分かったつもりにさせてはならないのです。それが刑罰です。そのことが私にはわかりました。

≪まとめ≫
聖書をなまじっか分かったつもりになるから、このようにたくさんの「自分はクリスチャンだと名乗る人たち」が、日本でも欧米でも出るのです。しかしそういう人たちがやっている行動を見ると、また主張することを聞くとと、それは、まったく悪魔的精神に従っているとしか言いようがない人たちであることが分かってきます。

聖書は、なまじっか分かったつもりになってはいけないのです。そういう人たちは、自分が神様に、なによりも滅ぼされる者であることを、そして自分は、神様の刑罰に遭うのが当然な人間であることを まず自覚しなければならないのです。そのあとにジーザスの福音が、その人の心の中に入ります。アイゼイヤ(イザヤ)は、そこまで分かったから、神様のこの言葉を忠実に伝えたのでしょう。
(2013.10.24.)


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2013年10月06日

今日は、「風は思いのままに吹きます。」という話をします。2013.9.30.(月)の夜に、私はまた38.2℃まで熱を出し、東大病院の救急部に電話をして相談しました。その結果、すぐに近くの調布東山病院で血液培養のために採血してもらうことになりました。

この2年間余り、私は本当に疲れて、体が弱っています。夜よく眠れないのが、その原因かと思っていましたが、どうしようもありませんでした。主治医は 眠剤を出すことはできないと言いました。『眠剤を出すと頭がぼっとして日中もさらに元気がなくなりますよ、だから出しません。』と言われました。『眠剤を出すよりも、眠れないときには、ベッドで聖書を読む方法が一番良いです。』というのが、笠井清登医師のアドバイスでした。

しかし、それでも眠れないときのほうが多いので、連日悶々としていました。ちょうどそんな時でした。2013.9.25.(水)に「ふわ〜極上の熟睡感」と題したNHK総合テレビの「試してガッテン」を見ました。そこでは、『人は7〜8時間、睡眠をとる必要があると言われていたのは間違いで、眠くなるまでは、寝室を出てソファーか何かでテレビでも見て休んでいて、どうしても眠くなったらベッドに入れば、「熟睡」出来る。』ことが新しい研究でわかったと言っていました。人は5時間も熟睡出来れば十分なのだそうです。この番組によると、これはピッツバーグでの新しい研究成果で、そうすると「古い脳」が熟睡できることが分かった。』と言っていました。
しかし、これを視聴して私は考え込んでしまいました。そこには一面の真理はあるような気がしました。しかし、医師から、横になって体を休めて、安静にしていなさいと言われた病人や、体が弱っている人は、どうなるのかしらんと疑問を持ちました。

そこで二日後2013.9.27.(金)の精神神経科の受診のさいに笠井清登先生にこのことを相談しました。「ためしてがってん」で根拠としている英語の論文名と著者名を調べて添えて相談しました。そうしたら『そんな論文は見たこともない。NHKでは、そんないい加減なことを、まだやっているんですか。そんな1時や2時まで起きていたら、昼と夜が逆転してしまいます。「試してガッテンは、いい加減な番組なので、私は出演依頼をいつも断っています。」と言われました。』 私は、この答えにびっくりしました。たぶん、まだ学会で認められていないことを、さも新しい真理の発見であるかのように、広めようとするこのNHkの番組「ためしてがってん」を見る人に対する 笠井清登医師の「警告」だと受け取りました。

さて、「このインチキ番組に一連の「本当の部分」があるのだとしたら何か」と、そのあと私は考え続けました。おりしも、私は、「毎日の行動方法に対する信仰による発見と決断」「人や自分が決めた方針や予定や計画に従うこと」とは、どうも両立しないのではないかと思い始めていた時でした。
「自分や人が決めた方針や予定や計画に機械的に盲目的に従うこと」は、自発的な信仰から出ていませんから、「セイタン(サタン、悪魔)が付け入るすきを与えるものだ。」ということに気づき始めたからです。
「あらかじめ決めた事柄」というのは、この場合、必ず夜8時間はベッドの中にいなければいけないとか、この順序で家を片付けなければいけないとか、肉と魚を交互に食べなければいけないとか、毎日1万歩歩かなければいけないとか、何時までにはベッドに入らなければいけないとか、そういった「もろもろの規制を生む人間的な規則やしばり」を指し、そういうことに従う積み重ねで人は良い熟睡が得られると考えるのは、まったく間違っていると思います。

『聖霊のささやき』
聖霊による「ささやき」は、どうも、そういうものとは異なるようです。聖霊はもっと自由なのです。
その自由は、神様の示された聖書に書かれている原理に基づいていますから、人が、心の中で決めた『「ねばならない」という考え方』とは違うのです。

私たちは、「神様が今、私に望んでおられるこ」とを、このあらかじめ自分で決めた「方針」や「欲望」と同一だと勘違いしているのではないでしょうか。
「神様が今、私に望んでおられること」とは、かならずしも、医者の指示を「機械的に鵜呑みにして」機械のように、それに従うことではないでしょう。
「自由」ということが、聖霊の特徴です。風は、思いのままに吹きます;あなたたちはその音は聞くけれど、それがどこから来たか、どこへ吹いてゆくのかを知りません。 聖霊から生まれた人も、それと同じです。(ジョン(ヨハネ)による福音3章8節、Good News Bible, Good News Translation JOHN.3.8.の翻訳)』とジーザスが言ったのは、自由の、ここのところをよく表していると思います。風は、自由だけれど真理の法則(自然法則)には従っているのです。

『私の新しいやり方』
そこで、私は、『眠れず、こんなに体が妙になったときは、薬に頼るのではなく、また、医者が言うような生活法の改善にさえ頼るのではなく、自分の信仰によって神様に祈って、行動を決定するしかないと確信したのです。
この考えで、わたしは相当安心し、熱が下がったせいもあり、2010.10.1と10.2.の夜の二日間は、体の心底から深く熟睡できました。

≪まとめ≫
深く熟睡するには、どうしたら良いかは、とても難しい問題です。私など、いつも夢ばかり見て深く熟睡できません。薬でも医者の指示でも、それは解決しません。
しかし最近の私の経験からすると、『自分が本当に今しなければならないことに気づいて、それだけを なし遂げるところに熟睡の秘訣がある』と思うようになりました。
この「自分が今、一番しなければならないこと(what God requires of me)」を知るには、深い祈りと、広い洞察力が必要です。
信仰的に言えば、それは聖霊による助けが必要だということです。
『神様が、今、一番自分に求めておられることは何か?それを知って、寝る前にそれを成し終える』には、自分があらかじめ決めた予定や、自分の希望や人との約束や欲望による計画や人からの勧めに左右されてはいけません。そうではなく、むしろそれは『自分の体の中から沸き起こる『本能instinct』や『直観intuiition』に何よりも従順に従うことが必要なのだと思います。』
しかし、ここが とても難しいところで、それには、祈って神様にあって確信できるところに従って、生活する「信仰的な生活」をするしかないでしょう。
そして、眠りにつく前に今日一日を神様に感謝して祈ることも大切です。
今日のブログは、すべて神様が一緒にいてくださらなければ、何事も善いことは起こらないという意味で書きました。

(2013.10.6.)


2013年09月28日

私はこの2年間、図書館にも行き、毎日のように どうしても準備しなければならない『ある重要なこと』を 体力がない中、2年がかりでし続けてきました。それが、ここにきてようやくその完成のめどが立ったので、ブログを書きます。ジーザスの厳しい警告の言葉が多い中

ジョン(ヨハネ)による福音16章1から4節のジーザスの言葉ほど、重くて、しかも重要なものはないと思います。
“あなたたちが信仰を離れないように、このことを言っておきます。2 あなたたちは教会堂(シナゴーグ)から追い出され、あなたたちを殺す人が、それをすることで自分たちは神様に仕えているのだと思う時が来るでしょう。3 人々がそれらのことをするのは、彼らが父(神様)をも 私をも知っていないからです。彼らがこれらのことをする時が来た時、私が話したこのことをあなたたちが思い出すように これを話しているのです。
“私は最初は、このことをあなたたちに話しませんでした。何故なら、私があなたたちと一緒に居たからです。
(ジョン(ヨハネ)による福音16章1から4節、Good News Bible, Good News Translation JOHN16.1-5.の翻訳)』というくだりです。
これは、ジーザスが十字架につけられて殺されるのが迫ってきたときに、ジーザスが弟子たちに話した言葉です。それは、弟子たちが、ジーザスを信じているという理由で『迫害』を受けるという予言です。  その迫害の形は、
1.教会堂から追い出される。
2.殺される。
という2点を ジーザスは挙げています。しかし、その内容は、そんな形だけのもの、結果だけのものではありません。つまり、追い出されることはなく殺されることが無ければ迫害がないわけではありません! 事柄は、もっと深く、深刻なのです。
「教会堂から追い出される」とはユダヤ人の信仰の社会から、のけ者にされる、いじめにあうということの象徴的行為ですし、「殺される」というのは、もちろん実際に殺されることも指していますが、精神的、経済的に追い詰めて人の体を弱め、間接的に人の寿命を短くさせ、その結果として、その人の死を早める、つまり、【そういう方法で殺す】ことも含まれていると思います。少なくとも、それがことの始まりなのです

近年、日本では、人を「いじめによる自殺」に追い込む事例が、大人社会でも 子供社会でも たくさん報告されています。そこにジーザスへの信仰を嫌う迫害はないように見えても、それは、正しいことをしたり言ったりする人を憎むという この日本の社会の実情を如実にに表わしていると思います。正しいことをしたり言ったりする人を憎むのは、たとえその人がジーザスを信じていなくても、ジーザスを憎むことと同じ意味だからです。

ここで、私の手前味噌の話になりますが、私の研究、「ヒトの創造的行動を支配する一般的原理」のなかで、「迫害の定理」というのが出てきます。そこで私が「迫害」と言ったのは、何も、直接人の肉体的命を奪おうとする「迫害」だけを言ったのではありません。「人を精神的に追い詰めて、人を憎み困らせ苦しめる、そういう行為」も迫害に入れています。

≪まとめ≫ジーザスを信じる信仰をまじめに続けてゆくと、人々に嫌われ、身内にも嫌われ、煙たがられ、広い意味での「結果的にはいじめられる」ことになる事例が 日本であまりにも多く見受けられます。キリスト教を伝える際に、この「迫害」の事実を避けて、そんなことはないような顔をして甘い甘い、または生ぬるいキリスト教だけを伝えようとするのは、間違いだと思います。それは事実に反するからです。
「迫害」は、神様を憎み、人を愛さない「憎しみの心」から出ます。はっきり言うと、それはジーザスへの「不信仰」の心から、いじめや嫌がらせや、憎しみや、軽蔑や、迫害が起こってくるのです。それは、厳密な意味で、十字架を無視したキリスト教なのです。もちろんそれは、彼らが、父(神様)をも ジーザスをも知らないからなのです。
(2013.9.28.)


2013年09月03日

今日は、ポール(パウロ)の『私は弱いときにこそ強い。』という話をします。私はこの所、期限が迫っていてしなければならないことが、いっぱいあるように思えるので、気が遠くなるほど忙しく、気ぜはしく過ごしています。 なんとか体調のほうは相当戻った気がしているので、

なおさら気がせくのでしょう。続けて書いているブログのほうも、これを書かないと、夜の熟睡が得られず、健康に害があると思えて、ブログの執筆を続けています
しかし、このところブログにはミスプリントや不適当な言い回しが多く、その修正にも時間がとられています。
夜でも、ブログのアイディアが浮かんだら、起きて書くようにしているのは、東京大学医学部付属病院(東大病院)の精神科の主治医 笠井 清登先生の勧めによるものです。

それで、今日、左足の4の指の爪の先がはがれて痛くて12時20分に飛び起きたあと、ベッドで聖書を開きました。そうしたら、2カリンシアンズ(コリントの人たちへの第二の手紙)4章7節以下のポール(パウロ)の言葉が目に飛び込んできました。 そこでそこをずっと読み続けました。それは、
7 けれど、この精神的・霊的な宝を持っている私たちは、粘土でできた普通の器なのです、それは、この至高の力は、私たちにではなく、神様に属していることを示すためです。(2カリンシアンズ(コリントの人たちへの第二の手紙4章7節、Good News Bible, Good News Translation 2CORINTHIANS 4.7.の翻訳)』で始まる部分です。

私は弱い、しかも粘土でできた普通の器です。そんな私が 神様の言葉によって力づけられ、元気になるのは不思議なことです。 
でも、ポール(パウロ)によれば、それは、その至高の力が、私に属するものではなく、神様に起因するものであることを示すために、「弱い私」に力が与えられているものです。私の弱さの意味は、そこにあるのだと思いました。それで心が休まりました。

≪まとめ≫
私たちも、粘土でできた普通の器です。壊れやすく、いつかは壊れて 粘土に帰るでしょう。でも、そんな弱い私たちが、神様にあっての希望と勇気で、強く生きていられるのです。それは、ただジーザスにあっての救いの恵みによるものです。そんな弱い私が それでも元気を出していられるのは、実にこの恵み、つまりジーザスからの良い知らせ【福音】によるのです。そしてそれは神様の元気と恵みを 私の弱さを通して、人々に示すためです。 今日 そのことに気が付きました。
(2013.9.3.)


2013年09月02日

今朝、夜中の3時にに目を覚まし、お手洗いに行ったら、もう眠れなくなり、聖書を開けました。そうしたら、すぐにおなじみのジョン(ヨハネ)による福音8章31節以下が目に留まりました。そこには、『31 そこで、ジーザスは、ジーザスを信じた人たちに言いました、

“もしあなたたちが私の教えに従うなら、あなたたちは本当に私の弟子なのです;32 あなたたちは本当のこと(真理)を知るでしょう、そしてそのほんとうの事(真理)はあなたたちを自由にするのです。(ジョン(ヨハネ)による福音8章1節、Good News Bible, Good News Translation JOHN8.31.の翻訳)』と書いてありました。

どう努力しても 神様の前に不完全で、『何とも神様に申し訳ない自分』を ひとが意識する時、この言葉は目が覚めるように新鮮です。それは、ジーザスが私たちに求められるものは、世の人たちが、人や自分自身に求めるところとはまったく異なり、神様が私たちに求められるものは、『完全な行いではなく、神様の前に悔いた心』だからでしょう。それを神様が一番喜ばれるということは、旧約聖書から始まって、ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)まで聖書のいたるところに書いてあります。そしてそれを信じられた時、私たちは本当に自由になるのです。それはスィン・罪への悩みからの自由です。

実際、私が20歳のころ、伊豆の戸田(へた)の海岸で救われて、それ以来、今日このようにしてあるのは、まさにこのことに、私が、その時 気が付いたからでした。
「気が付いた」というより、神様がジーザスの言葉を通して、それを私にささやいてくださったのです。
それをささやかれたあの日。そのささやきが、私を救ったのです。限りない感謝で、涙が止まりませんでした。
ジーザスの良い知らせ【福音】とは、実は、そういうところにあるのです

≪まとめ≫
自分が、神様の前に正しいとされたことを知った時、つまり神様に受け入れられたことを知った時、すべての良いことが始まります。ほんとうの事(真理)に対する洞察が開けます。
それをジョン(ヨハネ)による福音では、『そしてそのほんとうの事(真理)はあなたたちを自由にするのです。』と言ったのでしょう。
自分にとらわれずに、神様のほうに目を向けるようになると、それが、私たちの客観的に物事を見る目を開いてくれるのです。
ジーザスからの良い知らせ【福音】とは、私は、どうしてもそういうものだと思えて仕方がありません。
(2013.9.2.)


2013年09月01日

ほかの聖書では知りませんが、新共同訳聖書のルーク(ルカ)による福音17章1から10節までに『赦し、信仰、奉仕』と表題が付いているところを、Good News Bible, Good News Translation では、1から5節に『sin』という表題をつけています。

そこで、そこを改めて読んでみました。そこには、次のように書いてあります。
『【スィン・罪】(マスュー(マタイ)による福音18章6,7節、21章22節、マーク(マルコ)による福音9章42節) 
ジーザスは、弟子たちに次のように言いました。“人々を罪に陥(おとしい)れる事柄は、どうしても起こってきます、しかし、そういう事柄を起こす人は、なんと禍(わざわい)なことでしょう!2 そういう人は、マイル標石を首にかけられて海に投げ込まれるほうが、これら小さい人たちの一人に罪を犯させるよりは ましです。3 だから、あなたたちがすることには注意しなさい!もしあなたたちの兄弟がスィン・罪をする(sin)なら、彼をとがめ、もし彼が悔いるなら、赦してあげなさい。4 もしその人があなたに対して一日に7回スィン・罪をして、‘悔いています’というなら、そのたびに、‘あなたたちはその人を赦さなければいけません。”(ルーク(ルカ)による福音17章1から4節、Good News Bible, Good News Translation LUKE17.1-4.の翻訳)』
と書いてありました。
ここで、1から2節の「sin」とは、基本的には、『人にジーザスへの信仰を無くさせるようなこと』を言っているのだと思います。3節以下では「sin」とは「具体的には、それは「律法の精神に反するようなことを含めて、人がする的はずれな【不適当なこと】を言うのだと思います。」

だから、『マイル標石を首にかけられて海の投げ込まれるほうが、これら小さい人たちの一人に罪を犯させるよりは ましです。』というのは、この『人にジーザスへの信仰を無くさせるようなこと』を言っているのだと思います。
3節の後半以下の「あなたたちの兄弟がスィン・罪をする(sin)なら、」という部分は、後者の(神様の目から見ての)的はずれで【不適当なこと】を言っているのでしょう。
1から3節の前半と、3節の後半から4節とは、「sin」に対する態度として、大きく違っているため、ここは難解な聖書の箇所です。

≪まとめ≫
「sin」は複雑で難しい問題ですが、それに対するジーザスの教えは、きわめて はっきりしていたと思います。「sin」が単に律法に書かれていることを形の上で破ることではなく、その精神に反することにまで踏み込んで話し、しかも日常生活の[sin]に至るまで、懇切丁寧な説明をジーザスはしたのです。
(2013.9.1.)



2013年08月31日

その後の英語のバイブルクラスでは、「デイビッド(ダビデ)の生涯」が終わり、2013.8.22(木)から、私のリクエストによって 「マーク(マルコ)による福音の奇蹟(Miracles in MARK)」が始まりました。昨日はその2日目でした。相変わらず、Erik Rothさんのさんの英語を

ほとんどキャッチできない中、しきりに勇気(bravery)と臆病な(cowardly)という言葉が聞こえてくるので、注意しいると、どうも、信仰と勇気とが、深い関係があると言っておられるようでした。そこで、今日は、そのことから考えた私の感想を書きます。

「勇気がある」という言葉に相当する「brave」は、OXFORD英・英辞典を見ると、『困難で危険な事柄、あるいは困ったこと(painful)に進んで取り組む』という意味であると書いてありました。日本語では、「brave」は「勇敢な」とか「恐れない」と訳してしまって(ジーニアス英和辞典)、それ以上をでない言葉のように感じますが、どうも、英語では、それ以外の意味があるようです。

「brave」とは、『困難で危険な事柄、あるいは困ったこと(painful)に進んで取り組む』という、困難に積極的に取り組む「心の態度」が言われていることを ひしひしと感じます。
この、『困った問題にも進んで立ち向かう勇気』は、Erik Rothさんによると「信仰(faith)」と関係が深いそうです。
勇気の反対は、臆病をあらわす「cowardly」ですが、これは「怖がる」という意味です。
ギャラリー(ガリラヤ)湖で起こった突風を怖がった弟子たちに対して、ジーザスは その突風を静めて、
『40 そこでジーザスは弟子たちに“あなたたちは、なぜそんなに怖がるの?まだ信仰を持っていないの?”と言いました。(マーク(マルコ)による福音4章40節、Good News Bible, Good News Translation ,MARK4.4.の翻訳)』とあります。これは、そのことをよく物語っていると思います。

「怖がる」というのは、神様の守りも、神様の導きも信じられないから起こるのです。
それに対して、欧米に伝わってきたキリスト教界の信仰、つまり、聖書の文化では、そういう「恐れ」を完全に打ち消して、大胆に恐れなく、神様にあっての守りを信じて行動します。どうもその辺が、欧米の聖書の文化に根差した文化(カルチャー,culture)と日本にあるような聖書の言葉を抜きにした文化との違いであるように思います。

≪まとめ≫
聖書の言葉を抜きにした文化では、困難で危険な事柄、あるいは困ったこと(painful)に進んで取り組むことをしません。怖いからです。これは、「リスクは取らない。」と言い訳され、尊いことのように言われます。そのため、日本的経営では、少数意見が軽蔑され、すべての人たちは、大多数の意見に同調します。『みんなで通れば怖くない。』と思っているのでしょう。そして、それが良いことだと思っている、さいきんでは、それが「民主主義の行き方だ。」と思っているようです。
しかし、神様の言葉は、個人に与えられます。
したがって、このような国には、『神様が個人に示された個人の独自の発想』による発言は軽視され、いつまでたっても、創造的・独創的な発展があり得ないのです。
いま日本人に必要なものは、人を恐れない「神様が個人に示された、独自の価値がある発想」を少数意見でも大事にする習慣ではないでしょうか? これこそが、創造的発展の原点だと思うのです。
そうしないと、いつまでたっても日本は、諸外国の成功例の後追いをする「猿まね文化」が続くのです。 日本人は、人が言わなかった新しいことには、いっさい耳を貸さないわけですから。こうなるのは当然なのです。
(2013.8.31.)


2013年08月29日

日本語の聖書の翻訳で、妙で不適当な翻訳語があまりにも多い中で、「罪【つみ】」「罪びと【つみびと】」という翻訳語くらい後世に禍(わざわい)を残している翻訳はないと思います。特に日本語では「罪【つみ】」は、犯罪(crime)という意味も持っているから なおさらです。

それが、大きな禍と大きな誤解を、現在に至るまで日本人に及ぼしています。
またさらに、この翻訳は、不要な「うしろめたさ」と、互いに批判し、断罪し合う 「醜いこころ」も生じさせました。

英語で「sin」と言えば、このような意味は まったく ありません。そのため日本語で起こるほどの深刻な問題は生じません。
しかし、そうは言っても、英語の「sin」の意味も、ジーザスが意図している意味とは、大幅に違っているのです。
『「sin」とは、英・英辞典で見るかぎり、「神様や宗教的、道徳的な律法に対する違反(OXFORD英・英辞典)」』 と 一様に書いてあります。 また牧師や宣教師も同じように言います。

このことは、ジーザスが指摘しているsinの意味について、的確ではない解釈のもとに、従来の世界のおもなキリスト教界が、進んでいると言わざるを得ません。

そこで、私は、この言葉、「sin」に対する 『世界的な翻訳上の 「不十分さ」と「不適当さ」』に今回 気付いたので、ここにそれを指摘します。
『sinの原語(ギリシャ語)の本当の意味』について
もう 何十年も前のことになりますが、私は、矢内原忠雄から直接、「sin」の原語、ハマルチア【ギリシャ語】は、「的はずれ」という意味だと教わりました。 これは、矢内原忠雄著:ロマ書講義、罪の問題2にも 記されています。

『sinに対する私の見解』
これから記す 「sinに対する 私の見解」は、したがって、全世界的な深刻な問題でもあります。 そこでブログにもかかわらず、少し詳しく、でも、なるべく簡潔に書きます。

「sin」とは、人の「いろいろな間違った行いや誤った考え方や、人の失敗」について、神様に対して申し訳ないと感じた時に自覚されるものです。
人の「失敗」も、それに含まれます。「sin」「スィン・罪」とは、神様からの命令とされる「戒律」や「律法」「法」「きまり」に反する行動(戒律への違反)を言うのではありません
また、「sin」は、ほかの具体的な人に対して、「sin」であると指摘したり、断罪したり、判断したりするものではなく、まずは、自分が自覚して、神様に対して「申し訳ない自分」を意識した時、成立するものだと、私は考えています。

もし、それ(sin)を一般のほかの人に対して指摘するなら、それは彼らの 神様に対する不信仰を警告するためのもので、「神様を愛し神様を賛美し、神様の力を信頼しないから、そのような不適当な行いをするのではないか」という指摘でしょう。その指摘と一緒に、彼らの「sin」を指摘するのが、正当な「sin」の指摘の仕方なのです。

『sinの翻訳』
この「sin」を、日本語で どう翻訳したらよいかについて、私もずいぶん悩み続けました。一時は、妥協として、「sin」を「スィン・罪」と翻訳してきました。 しかし、どうも、それも、ピンときません。何故なら、その中に「罪【つみ】」と言う語が入っているからです。
そこで、今回考えましたのは、英語「sin」の翻訳として、「神様の前でのあやまち(過ち)」という翻訳を考え付きました。

キリスト教界での「スィン・罪」の使われ方:
日本の教会で使われている「主の祈り」という文章(祈祷文)があります。 これは、キリスト教界の人たちは、何も疑問を感じないで、習慣的に唱えている「文章」です。
ここで、1662年に作られた英国国教会(イングランド国教会)の「主の祈り」の英文に着目したいと思います。 それには、「私たちの過ち(tresupass)をゆるしてください。(日本語に翻訳―花田 桂一)」とあります。 
私が知る限り、それ以外の「主の祈り」のこの部分は、すべて「私たちのスィン・罪をゆるしてください。」と書かれています。

このイングランド国教会の「主の祈り」は、マスュー(マタイ)による福音6章9から13節の翻訳文の影響を受けたものです。いっぽう、世界中で現在、一般的に使われている「主の祈り」は、ルーク(ルカ)による福音11章2から4節の翻訳の影響を受けて作られています。

≪むすび≫
「sin」を「スィン・罪」とするか「過ち」、「神様の前でのあやまち(過ち)」とするかは、大した問題ではないとお考えの方もいるかと思いますが、「スィン・罪」は、観念的ですが、「(神様に対する)過ち」は、実際的、具体的です。
この観念的か具体的かの違いは、信仰を生きたものにするか、死んだものにするかの違いを生みますから、事は重大なのです。

神様の前に自覚する私の失敗や間違いは、かならずしも 人が私に対して指摘する失敗や過ちとは違います。いや全然違うと思います。
それは私自身の弱さ、神様に対する申し訳なさを神様に詫びる言葉だからです。

『サーム(詩篇)の例』
サーム(詩篇)40篇12から13節に、GNTで表題に「神様の助けを求める祈り」として、次の詩があります。
12 私は、たくさんの悩ましい難しい問題【trouble】に囲まれています。―それは、あまりにも多くて、数えきれないくらいです!私のいろいろなsin(スィン)は、わたしを捉え、私はもはや、いろいろなものを見ることすらできません;それらは、私の頭の毛よりも多いのです、それで私は、すっかり気力を失ってしまいました。13 私を助けてください、主よ!いますぐわたしをたすけてください!(サーム(詩篇)40篇12から13節、Good News Bible, Good News Translation PSALM40.12-13.の翻訳)』
これはとても深刻な悩みで、いわゆるスィンの意識に圧倒されて、心が身動きもできなくなり、絶望の悩みのふちに置かれた状態にいると言ってよいと思います。
このサーム(詩篇)40篇12節前半のGNTで、たくさんの悩ましい難しい問題と私が訳した【troubles】は、NIV、GNTでは「troubles」ですが、NKJV、NRSVでは「evil」、新改訳聖書では「わざわい」、新共同訳聖書では「悪(たぶんevilの翻訳)」となっています。
つまり、新共同訳聖書で サーム(詩篇)40篇12から13節を見ますと
12 悪は私にからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪にとらえられ何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く、わたしは心挫けて(くじけて)います。14 主よ走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。(詩篇40篇12から13節、新共同訳聖書)』と翻訳してあります。
NKJVもNRSVも、ここは不適当な翻訳だと思いますが、最も重要で不適当な翻訳は、冒頭に「悪は」としている点です。なぜ不適当化と申しますと、ここで読む人にsinスィンは、「悪」に等しいとの先入観が植えつけられるからです。」という言葉は、複雑な意味を持っている言葉です。しかし、少なくとも、道徳的に悪いというニュアンスが ここにあることは否めません。

≪まとめ≫
すでに書きましたが、「sin」は、「道徳的に悪い」という意味よりも、神様の前で、弱い、申し訳ない、神様が求めていらっしゃることを、うまく実行できない、その自分の神様に対するお申し訳なさを 私の「sin」と言い表わしたものです。
「道徳的に悪い」ということは、えてして「人様に対して恥ずかしい」というような意味も含んでいて、「神様に対して悪い、神様に対して申し訳ない」という意味から外れがちです。
ですから、「sin」は、「神様の前でのあやまち(過ち)」とか「神様に対する 私の申し訳なさ」と解釈し、翻訳するのが、正しいとらえ方なのです。
(2013.8.29.)


2013年08月09日

皆さん、外はすごく暑いですねえ。さて、マスュー(マタイ)による福音で、国の内外の聖書が、ほとんど「地の塩」「salt of the earth」と翻訳している中、Good News Bible, GNTでは、ここを「全人類のための塩」と翻訳していることを紹介し、その意味について書きます。

ここで「塩」は、当時の感覚で、人目につかないほどの少量でも、その価値【値段ではありません。】は貴重で、食物の腐敗を防ぎ、しかも、味が良くなるという意味で使われたもので、ジーザス特有の「優れたたとえ」です。

この「塩」について、Good News Bible, Good News Translation のマスュー(マタイ)による福音5章に、『13 あなたたちは、全人類のための塩(salt for the whole human race)のようなものです。でも、もし塩がその塩辛さを失ってしまったら、それをもう一度 塩辛くする方法はありません。それは、価値がなくなってしまい、捨てられ、人々がその上を踏みつけて歩くのです。14 あなたたちは全世界のための光のようなものです。丘の上の町は隠れることはできません。15 誰もランプをともして、ボウルの下に置く人はいません;そうではなくて、ランプスタンドの上に置きます。そうすれば、家の中にいる人たちみんなを照らすのです。16 同じように、あなたたちの光は、人々の前で輝くに違いありません。それで人々はあなたたちがする良いことを見て、天にいるあなたたちの父をたたえるのです。(マスュー(マタイ)による福音5章13から16節、Good News Bible, Good News Translation MATTHEW5.13-16.の翻訳)』 と翻訳してあります。ここは、「地の塩、世の光」として、内外で、とても有名な個所です。

「ここでの塩」とは、人生に味をつけることが出来る有益で、必須なものとして、取り上げられた「たとえ」でしょう。

「塩」が、調味の世界で 人生になくてはならないものだとすれば、私は、最近、信仰的には、「塩」とは、「神様の言葉、神様の声のこと」だと思うようになりました。

これを具体的に説明しますと、「塩」とは、「私たちが今一番しなければいけないことを 教えてくださる神様のささやき、私たち一人ひとりに対する神様の声のこと」だと思うのです。

その場合、塩が、その塩辛さを失う(13節)とは、神様の言葉の本当の意味、つまり、その根本の精神が分からなくなってしまい、ただただ「神様の言葉だ。」といって、「その表面の言葉を暗記、暗唱し、繰り返し主張して有難がっている状態」だと思います。
そういう死語を暗記し、繰り返している状態」を、塩辛さを失った塩の状態だと言うのだと思うのです。
そういうものは「人々に捨てられ、踏みつけられてしまう。」とジーザスは言っています。(13節b)

【神様のささやき】
祈りに応じて、神様が一人一人に、その人にとって最も大切なことを、ささやかれます
その言葉は、大変貴重なものです。それは、私たちの生涯、生活、人生、命をうるおし、生かすからです。

私たちは、「その意味での塩」を求めて、毎日、必至に祈り、探し求めなければなりません。

なお、私たちに最も必要な 「神様の言葉という塩」は、また私たちののようなものです。宝を探し出して、それを見つけた人は、急いでそれを畑に隠しておくのです(マスュー(マタイ)による福音13章44節)。それは、もちろん、あとから大事に使うためです。そしてその畑を、全財産を売り払ってでも買うのです(同46節)。
私たちは、その宝を求めて、つまり「塩」を求めて、日々、思いを集中し、心を尽くして、熱心に祈り求めるべきだと思います。

「全人類のための塩」と言う翻訳の意義
ところで、なぜGood News Bible, Good News Translation だけが、ここを「全人類のための塩」と翻訳したのでしょうか? それは「地の塩」「salt of the earth」では、まったく意味が分かりにくいからだと思います。「地」「the earth」と言えば、地球、あるいは、この世の世界という意味にとるしか理解しようがありません。この世の世界では、やはりまだ抽象的で、分かりにくい、そこで、この「地」「the earth」とは、「地球上の人々」つまり「全人類」という意味だと理解したのでしょう。そうすると、ここは、素晴らしく分かり易くなります。これはいわばGood News Bible, Good News Translation の「独創的な、創造的な翻訳だ」と思います。
「全人類のための塩」と言えば、この塩は人々に役立つものだということになります。
そして人々に役立つものは、一番には、神様からの声です。私たちは神様からの声によって生きるからです。

≪まとめ≫
ジーザスが、『あなたたちは、全人類のための塩のようなものです。(マスュー(マタイ)による福音5章13節、Good News Bible, Good News Translation MATTHEW5.13.の翻訳)』と申しました。
私たちが「全人類のための塩だ」というのは、まさに、「神様の声を伝える者だ」という意味に違いありません。
つまりジーザスは、ここでは『あなたたちは神様の声そのものです。』と言っているのです。
「全世界のための光」も同じような意味でしょう、それは、私たちが、神様の栄光と喜びをあらわすという意味に違いありません。
(2013.8.9.) (2013.8.17.改定)


2013年08月06日

今年の私の今日の誕生日は、実に数年ぶりかと思えるほど熟睡できて、8時15分過ぎにすっきり目が覚めました。10時間弱は眠ったと思います。長引いていた発熱のため、東京大学医学部付属病院(東大病院)の感染症内科の主治医 四柳 宏先生から、昨日から

抗生物質ロセフィン1グラムの点滴を受け、急に熱が下がったのも安心の原因だったと思います。今日、私と妻は長女恵理花の運転で、東京大学医学部付属病院(東大病院)に12時半に到着しました。そして今日も、四柳 宏先生に診ていただき、ロセフィン1グラムの点滴を受けました。妻は、東大病院で整形外科、アレルギー内科、眼科の診察がある日で、長女と一緒に東大病院にとどまりました。しかし、私は、妻の発案で、一人で東京ガーデンパレスに宿泊に行き、2時からレストランオーロラで、ステーキランチを食べ始めました。今日は、私の誕生日の食事を一人で摂る午後になりました。

そうしたたら、窓の外の植え込みの中に薄緑色に光る動く物体が見えたのです。それがどう見ても緑色の亀の形をしたロボットが、手を振り、時々は、首を振り、赤い舌をのぞかせているように見えて、気になってしようがありませんでした。
そこでスタッフに聞いたのです。そうしたら、見に行ってくれて、あれは、ほかの緑より薄い緑の別の植物が植えてあり、それが風でゆれているのだと言いに来ました。
それで考えたのが、「幻想」と「信仰」の関係ということです。実際は、そうでは無いのに、自分には「こう見える」というのは、もちろん「幻想」です。
月の中の灰色のマダラが、「ウサギが餅をついている絵に見える。」と言って、子供を納得させようとするのは、科学的に分からないから、「こう見える」と言って、事柄を想像させて、有益な「幻想」を作り出そうとするです。
その「幻想」から、何か神様の偉大な力を思い、ほんとうの神様をたたえる「結果」を生むなら、その幻想は、その範囲で「非常に有益な幻想」です。それが、信仰上にも有益な力を生み出すなら、それは、その人にとっての信仰的事実と考えてもよいと思います。

しかし、「月の中でウサギが餅をついている」ということを、どんな人にでも、どんな時にでも あてはまる科学的な事実として、思い込むなら、その幻想は、無益であるばかりでなく有害です。それは、科学、科学技術や医学の発展にも大きな害があるからです。

ところで私は、客室で3時過ぎから日本の電子出版の会社の最大手である株式会社会社ボイジャーの原田 悠太朗さんから、かねてから問い合わせていた件について回答の電話を受けました。そこで今後、2〜3年以上先の話になるでしょうが、私の書いたものを電子出版の形で電子ストアーに置く方法や手順について、詳しく説明をうけました。5時2分までお話しました。話はマークによる福音の翻訳文から、「イエスの福音誌」の電子出版化の話にまで及び、私の将来の執筆活動の在り方を示唆する、重要な話を、私の誕生日に聞けました。これは、私にとっては大変ありがたい神様から私への「お誕生日プレゼント」でした。

さて、幻想と信仰の関係ということですが、ここで一番重要なことがあります。
それは、今、自分がここにあるということが、神様の力によって、支えられてきているからだということを信じるかどうかの、大問題です。
別の言葉で言うと、人は、生きている神様の 今の生きた力を信じるかどうかが大切だということです。
私たちは、これは神様がなさったことだと、簡単に信じますが、それを科学的な証拠がないと批判する人たちが多くいるからです。

風が吹いたくらいで、それを神様がなさった恵みだなどとと思うなという批判です。それはただ偶然に、たまたま、気圧の関係で、そうなっただけだと、私たちをあざけるのです。

しかし、その問題は、聖書に書いてあることが真実かどうかという話にも通じてきます。聖書に書いてあることが真実であるのは、それが霊的な意味で、永遠的にほんとうの事だからです。しかし、そこが見抜けない人は、聖書に書いてあることを信じる人をあざ笑うのです。

信仰とは何か?
マスュー(マタイ)による福音25章8から9節に次の文があります。
8 “そこで愚かな人たちは、賢い人たちに言いました。‘あなた方の油を少し私たちに分けてください。私たちのランプは消えそうなのです。’9 ‘しかし賢い人たちは、次のようにか答えました。‘だめです、私たちとあなたたちとの両方に足りるほど油を持っていません。だから売っているお店に急いで行って、あなたたちの分を買ってきなさい。’』(マスュー(マタイ)による福音25章8から9節、MATTHEW25.8-9.NKJVの翻訳)』とある「ランプの油を準備する」ジーザスのお話です。

ここで、ランプをともすための「油」とは、「いつでも、なんのときでも、神様の恵みと力の存在を信じる信仰のこと」だと私は思います。
ですから、それがないと、主人(花婿、主ジーザス)を信じられず、主人が帰るのが遅いなどと思ってしまうのです。

≪まとめ≫
今日は、神様の守りと恵みに満ちた、恵まれた私の誕生日でした。
そこで、『幻想と信仰』ということを考えました。
賢い人は、すべてのことの中に神様の意志と恵みと神様の力を見てとります。

しかし、愚かしい不信者は、どんなことも、神様がなっさたことだとは信じません。たまたまだ、偶然だ、起こるべくして起こったのだと言うのです。
しかし、そういう人を聖書では「愚かしい人」と言うのだと思います。

(2013.8.6.) (2013.8.21.改訂)


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2013年07月20日

カール・ヒルティの名著に、『眠れぬ夜のために』(岩波文庫)というのがあります。ここでヒルティが言いたかったのは、眠れない夜は、聖書の言葉を思い、神様に祈れと言うことだったのだと思いました。私には「良く眠れない経験」は、2013.7.13.の例のほかにも

いっぱいあります。今朝も、昨夜11時半にベッドに入って熟睡はしたのですが、4時に目が覚めてから眠れなくなりました。気になることがいっぱいあったからです。それでベッドでずっと考えました。
そして、結局5時50分に起床して、このブログを書くことにしました。
そして気づいたのは、このように眠れないのは、『神様の声を聴け!』という神様からの合図だったと分かったのです。神様が私にそのことを教えてくださったのです。

ジーザスも、眠れない夜を過ごしました。その代表的な非常に有名な聖書の言葉があります。これは、ジーザスが逮捕されそうだと分かった 逮捕の前日の祈りとして有名な個所です。
ジーザスがゲッセマニ(ゲッセマネ)で祈る
(マスュー(マタイ)による福音26.36-46、ルーク(ルカ)による福音22.39-46.)
32 彼らは、ゲッセマニ(ゲッセマネ)と言われるところに来ました。そこで、ジーザスは弟子たちに言いました“私が祈る間、ここで座っていなさい。”33 ジーザスはピーター(ペテロ)とジェイムズ(ヤコブ)とジョン(ヨハネ)を連れて行きました。不安とこころの苦悩がジーザスを襲いました。34 そこで、ジーザスは、彼らに“私は心の悲しみがあまりにも強くて、それで押しつぶされそうだ。ここに居て見張っていて欲しい。”と言いました。35 ジーザスは、少し先に行き、地面に身を投げ出しました、そして、もし可能ならば、この苦しみの時を過ごさせないで欲しいと神様に祈りました。36 “お父様、私のお父様!あなたにはすべてのことが可能です。この苦悩の盃を私から取り去ってください。でも、私が望むことではなく、あなたが望まれるようになさってください。”
37 それからジーザスが戻って来ると、3人の弟子たちは眠っていました。ジーザスはピーター(ペテロ)に “ピーター(ペテロ)、あなたは眠っているの?1時間でさえ眼を覚ましていられなかったのですか?”と言いました。 38 そして、ジーザスは彼らに次のように言いました。“見張って誘惑に陥らないように祈っていなさい。霊はその気なのだが、体が弱いのです。”
(マーク(マルコ)による福音14章32から38節、Good News Bible, Good News Translation MARK14.32-38.の翻訳)。
これはジーザスが眠れない時を過ごしたことと、誘惑に陥らないで祈っていることの大切さを教えた個所でもあると思います。
眠るのが悪いと言っているのではありません。ジーザスは、不安なときには祈ることが大切だと、教えているのだと思います。

また、サーム(詩篇)には、眠れない夜に神様に祈った言葉で満ち満ちています。

眠れない夜への対処の仕方:
眠れない夜が訪れるのは、確かに、神様が、私たちに、何かを ささやこうとしているのが原因だと思います。ですから、眠れない夜はとても大切な夜なのです。
そういう時は、聖書をぱっと開けて、どこでもよいから、じっと聖書の文字を 神様を思いながら見つめるのが良いと思います。
そうすると、思いがけない思いがやってきます。
私が今一番、考えなければいけないこと、しなければいけないことに、私たちは、ふっと気づくのです。
私たちが『昨日、一番考えなければいけなかったこと、一番しなければいけなかったこと』を、神様が、そのようにして気づかせてくださるのです。
そのように良く祈って、神様の声に従ったあとは、また、良く眠れるようになります。

≪まとめ≫
神様は人に、眠れない夜を与えて、人が、神様に帰る 一つのチャンスを作られるのだと思います。
だから人は、そのチャンスを けっして逃してはいけないと思います。
(2013.7.20.)

2013年07月14日

昨日は、11時0分に消灯してほどなく眠りにつきました。しかし、殺される夢とか怖い夢の連続でした。2時半にお手洗いに行きたくて起床しました。「何故あんな怖い夢を見たのだろう」と思いました。夢の始まりは、「夜、私と妻とわたしの実の姉が広い部屋で寝ていて、

「実の姉がお手洗いに行ってくる。」と言って部屋を出たのです。妻はリウマチのため、玄関の鍵のノブを回せないので、「鍵を閉めないで行って。」と言いました。問題はそのあとでした。しばらくして、頭から足先まで、紺色の薄いパンティストッキングのようなものを全身かぶって変装した同じくらいの背丈の二人が、私を殺そうと部屋に入って、ゆっくりと私のほうに歩いてきたのです。
普通なら、そこで目が覚めるのですが、私は、よほど眠かったのか夢は現実のようになってずっと続きました。
私は何とかそこを逃げなければと、二人のあいだをすり抜けて、部屋を出て、逃走を始めたのです。まず電車の切符を買って、電車に乗り、逃げ続けました。
でもその二人連れは、執拗に私を追いかけてきているようで、怖くて、ドンドン逃げ続ける夢でした。

『なぜこんな怖い夢を見たのか』がわかりませんでした。2時半に起床して、お手洗いに行き、しばらく、その原因を考え続けました。

この怖い夢の原因     
妻は、リウマチで、今、ほとんどゆっくりしか歩けず、しかも玄関のカギを内側から閉める操作を嫌って、いつも私に「今日はヘルパーさんが来るからドアは開けておいて」とか、私が出かける時には、「必ずドアのカギを占めて行って」とか言っていたのが、それが「、そのまま夢になりました。
それに今、日本福音ルーテル東京教会のErik Rothさんのバイブルクラスで、デイビッド(ダビデ)王の生涯を英語で習っていますが、そこには殺人に続く殺人が、平然と行われる話が続き、最近、さらに怖くてしようがなくなりました。

また、姉は、幼いころから私をひどく嫌っていまして、私を自分の「敵」のように思っていますから、そのバカらしさと怖さは、幼いころから私に染みついていました。

愛がない世界が、愛がない環境が、私を怖がらせる原因だと思いました。

それに、昨日の夕食後、2013.5.11に.放映されたNHKの対談、SWITCHインタビュー達人たち「隈省吾×林真理子」を録画で見直しました。そこて、流行作家の林真理子が、『書くのが億劫になるようでは、ほんとうの作家ではない。』と言った言葉がとても気になったのです。それも、今日、眠れなかった原因の一つだと思います。

もちろん、私はいわゆる流行作家ではありません。その点、林真理子とは正反対の部分があると思いました。私が、ブログなどを書くとき、書く体力と書く時間が与えられさえすれば、すらすらと文章が書けるのですが、神様がそのような力を与えられないときには、書く気にまったくなれません。 後世に永続的に残るような、独創的な仕事をする人は、それで良いのだと思っています。

私がブログを書く気になれないもう一つの理由があります。それは、これに打ち込んでいると、私の時間を奪われ、私は健康を害され、しかも、考え、祈ることなど、もっと今しなければならないいろいろの事柄が出来なくなるかもしれないと思えるからです。
それに一番気になるのは、ブログを書くことによって、遅れている「イエスの福音誌」の原稿が書けなくなるという恐れが、いつもそれに伴って、私に起こってきます。

そんなことが、私に、林真理子のように、精力的に文章を書けないもう一つの原因だと思います。それに、私のような「神様の言葉」を書く作家(?)は、報酬もまったく無料ですが、聖霊が示されるままに書くのですから、「妄想」さえあれば、自由に書ける流行作家とは違うと思います。

参考になった林真理子の言葉
それにしても、林真理子が、仕事を進めるには、
1.良く食べて、良く眠って、自分の基礎体力を作っておくことと、
2.それと自分の周りの環境への心配があっては、仕事は何も出来ない。
と言われた点は、ほんとうの事だと、身に染みて、つくづく感じました。
林真理子はさすがに、ある程度、事の本質を見抜ける人だと思いました。

≪まとめ≫
だからこの「建築家隈省吾と作家林真理子のスイッチインタビュー」は、私には、有益でした。
しかし、そこで言われなかった一番肝心なことは、人は、どうしたら良く眠れるか?です。その点について、私が納得できる言及は、この番組では、まったくありませんでした。
二人は、嫌なことはすぐに忘れる資質が重要だと言い切るのですが、その「嫌なことをすぐに忘れる」にはどうしたら良いか? それに言及しない点が、私にはとても気になり、歯がゆく感じられました。
(2013.7.14.)


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2013年06月30日

今日は、善悪にかかわらず、『人の評価は、あてにならないものだ。』と言うお話をします。そんなことが聖書に書いてあります。その最も象徴的な個所が、ルーク(ルカ)による福音16章13節の『人は神様とお金との両方に仕えることはできません。(ルーク(ルカ)による福音

16章13節、Good News Bible, Good News Translation LUKE16.13.の翻訳)』という個所だと思います。
お金は、誰もが、その価値をいちばん高く評価するものでしょう。人はお金が、もし、まったく無かったら、ほとんど何もできなくなります。それに健康も維持できなくなります。それは、ほんとうにまったくお金がない場合です。

お金が有難いのは、そして必要なのは、それを有効に使える場合に限ります。有効に使える場合…とは、「神様が喜ばれる仕方で使える場合に限る」と言う意味です。
それを別の言い方で言いますと、『お金を神様のために使える場合に、お金の価値は、絶大なのです。』 そういう場合ならば、その人は、お金に仕えているのではなくて、実は、神様に仕えているのです。

ジーザスがここで言った『お金に仕える』の意味は、「お金を稼いだり、節約して貯めたりすることには、非常に熱心で上手だけれど、貯まったお金を有効に使わないことを言う」のだと思います。
場合によっては、自分の正当に必要なことのためにさえも使わないのです。もちろん人を助けるためには、絶対に使いません。弱い人、困っている人のためには、もちろん、決して使いません。そして、ただじっとお金を貯めに貯めている。 そういう行為が、「お金に仕える」ということだと思います。

そういう人は、お金を貯めに貯めたいから、むしろお金を使うこと自体が罪だと思っています。日本には、会社、個人を問わず、こういう人がとても多いのが、残念ながら、日本の特徴です。

日本の個人総資産(預貯金など)に限って言っても、現在1千400兆円に上っていることが知られています。これは、株式や投資信託には しているものの、何にも使わずに貯めている個人のお金です。だからそこに付け込んで、おれおれ詐欺(お母さん助けて詐欺)が、こんなに横行しているのでしょう。

人が、求めに求めているものは、【1.お金 2.名声3.若さ 4.健康5. 社会的な地位 6. 仕事をこなす速さ 7.多くの人に支持される活動。】などです。それをほかの人が持っていると知ると、その人やその人々を急に高く評価します。人の評価などと言うものは大体、皆、そういうものです。
昨日発送した「イエスの福音誌」106号(全8ページ)には、そのようなことを書きました。

私のブログにしても、今現在、インターネットを見る人の2万人に1人くらいが、定期的に見ておられるようです。有難いと思う半面、オウム真理教(現在アレフ)を評価・支持する人も、今現在でも何百人といるようですから、人に評価されたと言って、決して手放しで安心しているわけにはゆきません。

≪まとめ≫
結局、人の善悪の評価の基準は、どこが間違っているのでしょうか? 目的を達成したこと自体を尊ぶのは、間違いだと思います。求めるものを達成した人を褒め称える態度が間違いなのです。
褒めたたえ、感謝するべきものは神様です。大切なのは、、
1.それをわれわれに与えられた 神様の我々に対する恵みを感謝することです。
2.神様がその人や、人たちに授けた優れた能力を、その人たちにではなく、それを与えた神様に感謝し、神様を賛美する態度が必要なのです
そうでないと、人や人物を全体的に高く評価することにつながり、それは神様が最も嫌われる「偶像崇拝」になるからだと思います。
そこでジーザスは、何故なら、人々に大きな価値があると考えられているものは、神様の目から見ると、なんの価値もないものだからです。(ルーク(ルカ)による福音16章15節b、Good News Bible, Good News Translation 、LUKE16.15b.の翻訳)」と言ったのだと思います。人にとって、「神様を賛美する以外の価値」なぞは あってはならないのです。
(2013.6.30.)


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2013年06月22日

『人が神様の前に正しいとされるのは、信仰によるのであって、行いによるのではありません。』という考え方は、私は新約聖書特有の新しい教えだと思っていましたが、どうも旧約聖書全体に貫かれている教えであることに気づきました。ソール(サウル)王が、神様に捨てられ、

代わってデイビッド(ダビデ)が、イズリエル(イスラエル)の王になる経過と理由(1サミュエル(サムエル記上に詳しい)は、良くこのことを物語っています。

28 人は、信仰によってだけ神様の前に正しいとされるのであって、律法が命ずることを行うことによってではありません。(ロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)3章28節、Good News Bible, Good News Translation ROMANS3.28.の翻訳)』は有名で、新約聖書特有の考え方だと思っていました。しかし、実はこの考え方は、旧約聖書の時代から貫かれていたことに気づいたのです。

年代記上【歴代誌上】に『13 ソール(サウル)は、主(神様)に忠実でなかった(unfaithful to the Lord)から死にました。彼は主(しゅ)の命令に従わなかったのです;つまり、彼は、14 主(しゅ)に相談しようとせず、死人の霊に相談して、教えを仰ごうとしたのです。そこで、主はソール(サウル)を殺し、その王国を支配する権利をジェッセ(エッサイ)の息子であるデイビッド(ダビデ)に与えられました。(年代記上【歴代誌上】10章13〜14節(Good News Bible, Good News Translation 1CHRONICLES10.13-14.)の翻訳)』と書かれています。
これは、のちの時代になって書き加えられたものだそうで、『サウル王からデイビッド(ダビデ)に王国がゆだねられた理由を簡潔に記した個所』です。
ここを何げなく読むと、ソール(サウル)の「主の命令に従わなかった行いの間違い」が、主に捨てられた原因と読めますから、やはり行いによって人は、神様の前に正しいとされたのだと思ってしまいがちです。

しかし、1サミュエル(サムエル記上)をよく読むと、どうも、そうではないことに気づきます。

ここで、『死人の霊に相談して、教えを仰ごうとした』の箇所は、Good News Bible, Good News Translation 特有の、分かり易い独創的な翻訳です。私が知るほかの聖書では、NKJV,NRSV,NIVとも、medium【原義では、「仲介をする人」とでもいう意味です】に相談したと書かれており、日本語の聖書ではmediumをすべて、一様に「口寄せ」と翻訳しました。「口寄せ」は広辞苑によると、「巫女(みこ)などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること。」とありますから、間違った訳ではないでしょうが、この「口寄せ」は古来の日本の宗教から出ている独特な言葉であるために分かりにくいと思います。
OXFORD英・英辞典によりますと、midium(ミディウム)はその5番目に意味として、「死者の霊と交流出来ると主張する人のこと。」とあります。なぜ死人の霊に相談して、教えを仰ごうとしたのがいけないかは、聖書のデュートロノミ(申命記18章9から13節【「世界のおもな宗教にはない宗教的信仰を持っている人」に対する警告】の箇所の11節bに書かれている戒めだからです。

「死者の霊と交流出来ると主張する人」の力を借りて、もの事を相談すること』が、なぜいけないのかと申しますと、そこに神様に直接相談しようとしない心があるからです。神様に打ち明けられない、打ち明けたくない、相談したくない心が、そこにある、それは聖書では、「神様に忠実でないことを意味しますから、戒めているのです。

「口寄せ」の現代的な意味:
さて、「口寄せ」に相談する』と言うと、何か神がかりな特殊な、一般にはあまりない行為のように思えます。  しかし、そこには深刻な、意味が込められています。
死者の霊(精神)を呼び寄せて、相談することは、現代でもよくあることです。
たとえば、内村鑑三ならこの場合、どう言うだろうかとか、矢内原忠雄ならどういうだろうか、マルチン・ルッターならどう言うだろうか、キング牧師ならどう答えるだろうか、ポール(パウロ)が生きていたら、どう言うだろうかと考えるのは、神様の声を直接聞かずに、死者の霊を呼び寄せて、つまり、死者の精神(霊)から推測して、物事の可否を考えようとする仕方です。
これらは、皆、この「口寄せ」に相談するのと同じ行為だと思います。

デイビッド(ダビデ)の心:
「信仰か行いか」と言えば、デイビッド(ダビデ)は沢山、一見、戒律に違反した行いをしました。また、神様の意志をよく聞かずに行動を起こしたこともあったと思います。しかし、そのデイビッド(ダビデ)が、神様から祝福されました。それは、間違いなく、デイビッド(ダビデ)が、神様に近づこうとする心を持っていたからだと言わざるを得ません。
デイビッド(ダビデ)は、
1.いつも、人がどう思うかではなく、神様がどう思われ、どう要求されるかで、自分の行動や考え方を決めました。それは神様がいつも生きておられて、デイビッド(ダビデ)を、また人を見ておられるという、生きた神様への恐れの心から出たものでした。
2.また、デイビッド(ダビデ)は、すべてのことを神様がなさると信じていました。だから、神様の声に従ってした行いでも、神様が、すべてなさったものとして自分を誇らずに謙虚でした。

≪まとめ≫
デイビッド(ダビデ)は、自然現象を含めて、すべての現象の裏に、神様がいらっしゃると信じていました。それは、数多くのデイビッド(ダビデ)のサーム(詩篇)を読んでも、すぐに分かることです。
敵の攻撃の裏にも、神様がいらっしゃると信じていました。何故なら、敵の自分に対する攻撃を神様はご存じだと信じていたからです。だから、デイビッド(ダビデ)は敵からのいじめ、迫害に対しても神様に助けを求めました。
デイビッド(ダビデ)は、「たまたま」と言う考え方はしなかったと思います。どんな些細なことについても、神様がなさったこととして、神様の導きを信じていました。
そこにデイビッド(ダビデ)の本当の信仰、神様に対する真実な態度があったのです。
この「信仰」は、それから約1000年たったジーザスの時代にも受け継がれました。ジーザスも、同じ信仰を持っていて、デイビッド(ダビデ)を高く評価していたように感じられます。ジーザスの弟子たちも、同じ信仰を持っていました。そして現代でも、「ほんとうの信仰を持っている人たち」に、その信仰は受け継がれているのです。
(2013.6.22.)


2013年05月31日

今日は長くなりますが、「信仰から出た行動」、「信仰から出た判断」、「信仰から出た言葉」、「信仰に基づいた聖書の解釈」ということを書きます。さて、私は、長年の懸案でした『英語のバイブルクラス』に参加することにしました。そこで2013.4.4.(木)から、

午後7時からの日本福音ルーテル東京教会のErik Roth牧師主宰の英語のバイブルクラスに出ています。

実は、妻輝子が2年ほど前から、義理の娘(長男の嫁)からのひどい言葉【私は、今後、あなた(義母の輝子)とは付き合いません。】がきっかけのショックで悩み始め、それでリュウマチも悪くなって、ずっと意気も消沈しがちなのです。そこで、輝子が日本福音ルーテル東京教会の日曜礼拝に出ると 心が休まる、楽しいとしきりに言うので、体と事情が許す限り、所属の日本福音ルーテル東京教会の日曜礼拝になるべく出ようと、約1年前から神様にあって私は決断していました。

それに私は最近、日本人牧師の話に限界を感じておりました。たぶん一つにはそれは、
1.彼らが、そろって、妙な翻訳の日本語聖書を使うからだと思います。
2.二つ目には、教条的な解釈と妙な専門用語が、あまりにも多いからだと思います。

私は、日本福音ルーテル小岩教会の松田繁雄牧師の話に比べて、ここの関野牧師の話には、時々たいへんに傷つけられ、慰められなかった経験があったために、日曜礼拝行きを渋っておりました。しかし、日本語礼拝の直前の10時からの英語礼拝に出たあと、妻と11時からの日本語礼拝にも出ようかと 2年前から思っていました。

日本福音ルーテル小岩教会は遠いいし、去年の夏ころから松田繁雄牧師の 『信仰のとらえ方』について疑問を感じ初めていました。日本福音ルーテル東京教会の関野牧師は、言葉は足りないのですが、信仰の動機には真実なところがあります。

そこに、たまたま昨年暮れに牧師として着任したErik Rothさんの、2月の復活祭でのお話を聞くと、たいへん信頼がおけそうで、まじめで、お世辞の無い、若いけれど堅実で優れた信仰がある牧師のように見受けられました。
そこでエリック・ロスさんに、バイブルクラスへの参加を申し出たわけです。そうしたら、いろいろな翻訳の聖書を読み比べることが重要だと強調され「Good News Bibleでよい。」とおっしゃったので、4月から出席することにしたのです。

私の場合、『Good News Bibleを、良くない聖書だ。』と言う牧師のもとでは、とうてい話を聞けません。ストレスが増えるばかりだからです。

さて、これらの経過は、まったく、神様が導かれたものでした
私は、最近、英語で話すことから しばらく遠ざかっていたせいもあって、まったく思うことが しゃべれません。英語を聞いても、よくて60%くらいしか理解できません。 しかし、勇気を出して出ることにしました。復習が思うようにいかないのが悩みです。

【私どもの最近の体調】
今、妻は、非常な疲労感の上に、2週間ほど前から一人では歩くこともできないほど右足の痛み【2013.6.4.の東京大学医学部付属病院(東大病院)整形外科の田中栄先生の診断によると、恥骨の骨折が原因】が激しく、外出も出来ません。しかし、昨日から一人で家の中をそろそろと歩けるようになりました。
私の疲労感と脱力感、認知機能の低下は、ウィールスと細菌のダブル感染が原因だったらしいと、2013.6.3.東京大学医学部付属病院(東大病院)感染症内科の主治医、四柳 宏先生から言われました。不思議にも神様の恵みで2013.6.2.ころから急に元気が出てきて、頭もすっきりし、記憶力も回復してきました。ここ数か月つづいていた微熱と物忘れと脱力感は、ウィールスと細菌のダブル感染による「認知機能の低下」が原因だったかも知れないそうです、たぶん最新の医学の研究で明らかになってきた事実なのでしょう。CRPが最高5.53と高い値がずっと続いたのに、2013.6.3.には、0.16に低下し、あれほど低下していた記憶力も急激に戻りました。 
睡眠、食事、休養といろいろ気を使いましたが、改善のすべては神様がなさったのです。

【英語のバイブルクラス】
2013年4月から、新約聖書の黙示録がテーマで7日間ありました。ここでも、いろいろ私にとっては、新しい『信仰的なこと』をたくさん学びました。
今日は、昨日から始まった『The life of King David デイビッド(ダビデ)王の生涯』のお話で、私が神様から直接教えられたことを中心に書きます。

『The life of King David デイビッド(ダビデ)王の生涯』
一日目は、預言者、兼、最高の祭司、兼、裁判官のサミュエルが、信仰を失ってしまったソール(サウル)王に代わる次の王【実は幼いデイビッド(ダビデ)】を選ぼうと、ジェッセ(エッサイ)の子供たちに面会する有名な場面から始まりました。
そこには、『1 主(神様)は、サミュエル(サムエル)に“あなたは、なぜそんなに長くソール(サウル)について嘆き続けているのです?私(神様)は、彼(ソール(サウル)はイズリエル(イスラエル)の王であるべきではないと考えています。しかし、今あなた(サミュエル)は、オリーブオイルを持って、ベスレヘム(ベツレヘム)に行き、ジェッセという男の人に会ってきなさい、私(神様)は、その息子の一人を王にしようと選んだからです。”とおっしゃいました。(1サミュエル16章1節、Good News Bible, Good News Translation 1SAMUEL16.1.の翻訳)』と書いてあります。
聖書では、サミュエル(サムエル)は、この神様の言葉に従って、主が命ぜられたとおりに、ジェルースレム(エルサレム)に行き、主に捧げものをし、皆を宗教的に清めようと、そのジェッセ(エッサイ)とその息子たちを呼び集めました(1サミュエル(サムエル)16章4節)。

そこで、『何故サミュエルは、ジェッセ(エッサイ)の息子を選んで、会いに行ったのですか』と、私は、愚かな質問をしてしまいました。
これは、サミュエルが、ジェッセ(エッサイ)の子供たちに目を付けたには、何か、科学的に説明できる理由があるに違いないと思ったからでした。たとえば評判が良かったからとか、信仰的に優れた子供がいるとかのうわさを聞いたからとか、それでジェッセ(エッサイ)の男の子たちを呼び寄せたのだと思ったのです。信仰、神様の声というものは、そんなことで聞こえてくるものだと私は思い込んでいたから、こんな愚問をしたのです。

ところが、エリック・ロスさんの答えはとても簡単でした。『ジェッセ(エッサイ)の子供たちがそういう風に有名だったとかそういう事実はありません。ただ、神様がジェッセ(エッサイ)の息子の一人を王にしようと選んだからです、それにサミュエル(サムエル)はまじめに従いました。そう1節に書いてある。』と申されました。

さて、これは一見何の変哲もない答えのようですが、私は、ここで『神様が言われた言葉』というものの重さを感じました。

というのは、人、特に私は、神様の声を聴いて、何故神様がそう言われたのかと、いろいろ吟味します。日常でも、ある行動を決める時に、自分は何故そういう行動をとるほうが良いのかと思いめぐらします。そして結局、そのほうが「得(とく)」だからという結論に達します。
しかし、この預言者であり裁判官であり、同時に最高の祭司であったサミュエル(サムエル)の場合、こういう因果関係、たとえば、ジェッセ(エッサイ)はルース(ルツ記)のナオミの孫だったからとか、いろいろ吟味します。しかし、神様はナオミやジェッセ(エッサイ)やジェッセ(エッサイ)の子供たちに信仰が伝わっていることも知っておられたと思いますが、それはすべて神様のご計画のもとで行われたものです。そこのところが大切です。いっさいはジェッセやデイビッド(ダビデ)の手柄ではなかったのです。
そうでないと、神様の祝福を受けるためには、血筋が大切だとか、そういう話にもなってしまいます。あるいは、信仰の日々の勉強が有益で、そういうことを続けていれば、人は神様に祝福されて、王にもなれるというような話になってしまいます、ついには、行いが大切だとか、行いで神様の祝福を掴み取れるとか、どうもそういう話にさえなってしまうと思います。
しかし実際の話は、そういうことではなかったようです。すべて神様がなさったことだったのです。

むすび:

人間には分からない「神様の恵み」や「神様のご計画」や「神様のこころ」というものが まずあります。それに沿って神様は人をお使いになるのです。
その際、理由など神様は説明されません。この場合なら、『ジェッセという男の人に会ってきなさい、私(神様)は、その息子の一人を王にしようと選んだからです。』とだけ言われました。そして、サミュエル(サムエル)はその言葉に、素直に従ったのです。

≪まとめ≫
神様の言葉や命令に、理由をつけてから従うというのは、「信仰」を科学的に解釈しようとする【科学的な信仰】です。
しかし、神様は、そういうことを人に求められていません。ただ、神様の栄光が表われるために事は、進んでゆくべきなのです。
だから神様は直観を重んじられます。その神様の命令には、何か理由はあるのでしょうが、神様は、聖霊によるインスピレーションを通して、人に直観を与え、ただちに人が神様を信じて行動することを求められます。
この「直観」が神様の言葉であり、それにただちに従うというのが、「信仰」なのです。
損得を考えて行動するのは、ほんとうの信仰ではありません!
(2013.5.31.)(2013.6.6.改訂)


2013年05月26日

昨日、『殺人同盟』という面白い喜劇を見てきました。例年開演される演劇集団「たつのとしご会」の第24回公演(東京の日本橋劇場)で、友人の佐藤修君から招待状をもらって見ました。これは21世紀後半に活躍したフランス人、ロベール・トマの原作の喜劇でした。

これは 物騒な題ですが、現代をよく風刺した 『現代演劇』といってよいと思いました。

内容は、フランスの劇や小説でしばしば取り扱われる、男女間の性的欲望と憎しみをテーマにした劇でした。女性たちは、夫や弟につらく当たります。そこで、3人の男たちは、妻や実姉に不満を持ち、共謀してそれぞれの妻や姉を殺してしまおうと相談します。そこで3人の男たちの「殺人同盟」が結成されるのです。

ところが、いずれも、その完全犯罪を目指す殺人に失敗し、逆に自分たちが死んでしまうという筋書きです。
ここでとくに面白いところは、その3人の女性も、実は共謀してそれらの夫や弟を殺そうと、もくろんでいたのだという設定です。
3人の女たちも、その3人の男たちを 疎ましく思って、殺そうと実は「殺人同盟」をひそかに結んでいたのです。
女のほうが男よりも、はるかに利口で強いものです。これも20世紀以降の女性の実態をよく表わしていて、とても面白いと感じました。

20世紀以降の先進国では、女性の立場が強くなりました。そこで、こういう作品が出てきたのでしょう。そして、この劇の最後は その3人の女性のうちの二人は、男たちが作った毒入りのブランデーを知らずに飲んで死んでしまうという筋書きです。
最後にもっとも利口な 男爵の妻だけが生き残ります。それも、この彼女の計画だったという複雑さが女の強さを表していて、また、また、おもしろいところでした。

2年前に、このブログに書きましたが、ある娘連れの母親が、「結婚するなら、早く死んでくれる夫をかならず選ぶのよ。」とレストランで、まじめに娘にさとしていたのを私は思い出しました。

それとは別に、話に聞くと、最近、ほとんどの夫婦は、必ず、妻から夫に対して離縁話を持ちかけるようです。そして離婚を振りかざして夫を責めたてるのです。
これは、女性のほうが男性よりも暇で、しかも体も丈夫で長生きしますし、とくに最近日本では、離婚すれば、夫の年金の半分は妻がもらえる制度が出来たようで、なおさら妻が強くなったようです。

ほんとうの愛がない「男女の関係」がどういうものかを、この劇の作者は、皮肉を込めて書いたのだと思います。そういうところがいかにも、性的欲望だけを基にした男女の関係のもろさを良く表していて、こころにせまります。

これは20世紀以降の先進国の 『信仰の無い男女の関係』の実態を良く表しています。それで、人々の共感を呼ぶのだと思います。

男女の関係は永遠のテーマです。

『ほんとうの愛がない男女の関係』とは。
ジーザスへの信仰がない場合、仲の良い夫婦もいるけれど、夫婦といえども、男女の関係は、とてもあやふやなものです。
自分の性的欲望を満たし、あるいは子供を作る目的を達成してしまったら、相手に飽きて、男女双方とも相手を嫌い、うとましく思い、憎みます。自分は、早くもっと別の素敵な人と楽しく過ごせると思う。つまり、考え方が自分中心なのです。
もちろん相手中心ではありません。そして神様・ジーザスが中心ではない家庭は崩壊します。そのことをこの劇は如実に表わしていると思います。

だから、信仰が無い場合の夫婦の間柄は、とてもあやふいものです。それは、薄氷を踏むような夫婦の生活・男女の関係のように思います。だから結婚は、墓場なのでしょう。

『ほんとうの愛がある男女の関係』
『ほんとうの愛がある男女の関係』を構築するのは、とても難しいことです。
それは、『自分に死んで 神様のために生きる心の転換』が基本的に、絶対必要だからです。
その場合、神様が私たちを愛する愛を持って互いに愛し合い、思いやる。相手を神様のものとして尊敬し愛する、そういう男女の関係が築かれるのです。

≪まとめ≫
相手の中にジーザスを見る 男女の関係、夫婦の関係が、『幸せな社会』の実現のためにも、ぜひとも必要だと思います。
それが無い場合、苦痛と忍耐に満ちた関係が続くのだと思います。

(2013.5.26.)


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2013年05月24日

今日は、『聖霊(The Holy Spirit)が人に宿るという事実』は、どういうものかの話をします。2013.5.19.(日)10時半から、日本福音ルーテル東京教会でペンテコステ(聖霊降誕節)を祝う英語礼拝との合同礼拝がありました。礼拝終了直後には、イタリアの慣習に

従って牧師たちがバラの花びらをカゴに入れて聴衆の頭上にいっぱいふりまきました。213名の参会者がありました。私は昨年暮れに着任した新牧師のErik Rothさんのお誘いで、この礼拝に行ってきました。妻は、先週水曜日から始まった右足の筋肉痛のため、まったく歩けなくなったので行けませんでした。

礼拝では、まず使徒たちの行動(使徒行伝、使徒言行録、THE ACTS of the Apostlees)2章1節〜16節が読まれました。ここには、『ペンテコステ【五旬祭(ごじゅんさい)】の日が来て、信者たち全員が1か所に集まっていた時、2 急に強い風が吹いてくるような音がして、彼らが座っていた家全体に響きました。3 そこで、火の舌のようなものが伸びてきて、そこにいた人々に触れました。4 彼らは皆、聖霊に満たされて、聖霊が彼らをしゃべれるようにしたので、それぞれが別の言葉で話し始めました。(使徒たちの行動(使徒行伝、使徒言行録)2章1から4節、bGood News Bible, Good News Translation ACTS2.1-4の翻訳)』という、なんとも不思議な出来事に見える書き出しで始まる個所です。しかしここを読み進んでゆきますと、『5 世界中のそれぞれの国から来たジェルースレム(エルサレム)に住むユダヤ人たちで、神様がいらっしゃることを強く信じる人たち(religious people)が、そこにはいました。(使徒たちの行動(使徒行伝、使徒言行録)2章5節b、Good News Bible, Good News Translation ACTS2.5の翻訳)』と書かれています。
このあとの聖書の翻訳は省略しますが、要するに、その信者たちが、自分の国の言葉で、神様がなさった素晴らしいことを 自分自身の母国語で話し始めた(同11節b)のです。

【関野 和寛牧師のお話】
ここでの関野和寛牧師のお話は、たいへん感動的で信仰的でした。それをErik Roth牧師が、逐次、英語に翻訳しました。 そのお話の内容を不完全ながら以下に要約します。

ここをどう解釈するかですが、関野牧師は、彼らが、これをすべての人々にジーザスが救い主だということを伝えたくなった、その心の表れだと、とらえているようでした。それが、聖霊の働きなのです。おにぎりのおいしさを伝えてゆくのに、言葉は要りません。おいしそうな表情、おいしそうに食べる食べ方で、そのおにぎりがおいしいことが伝わるのです。
それと同じように、ジーザスに救われた救いの喜びも、まず、言葉で伝えるのではなく、当時の人々は、その喜びの表情や、しぐさで伝えていったのです。

キリストの弟子たちにも、強さや知識はありませんでした。それなのに、ジーザスの救いの喜びの知らせは、その後、強く広く 全世界に伝わっていったのです。
ですから、『言葉は、最後でいいのです!(The word should be the last!)』というのが、だいたいのお話だったと思います。

【聖霊(The Holy Spirit)が、人に宿るわけ】
私が思うに、人に「自分がジーザスに救われた喜びと救われた感動の体験」が無ければ、人は何を話しても、いっさい無駄だと思います。牧師がいくら名演説をしても、無駄だと思います。いくら論理的に整然と話をし、聖書の解釈の古い間違った部分を批判し、新しい解釈を述べ、人の理性に訴えるやり方で、しかも人を傷つけない言葉を選んで話をしても、その『救われた喜びの一粒の体験』が無い人の話す言葉は、人を救うのに役立ちません。それは無益だと思います。ジーザスの福音を伝えるためには、それらは役立たないのです。

それは、心に深い喜びの無い人が 上手に古典音楽を演奏するのと似ています。

ジーザスに心が救われたたった一粒の喜びの体験からだけ、聖霊は人に宿るのです。牧師・祭司・神父の力によるのではありません。もちろん私の力によるのでもありません、それは聖霊の力によるのです。

聖霊は、聖書の知識や、理性的な研究や、信仰生活の長さから与えられるものではありません。今日、今、神様から聞いたほんとうの事を、ほんとうだと心から受け入れ、自分の心が神様のほうに向いて新たにされたときに、人には聖霊が宿るのだと思います。

この聖霊は、ペンテコステの出来事のように、大波のように人々の心を揺り動かします。
そして、何の牧師の資格もない人たちが、かえって自分の言葉で、神様とジーザスの救いを 喜びを持って、周りの人たちに伝え始めるのです。

今の日本をはじめ、ジーザスへの信仰が、増えない地域、むしろ減ってゆく地域・国々の人々には、間違いなく、このすべての人に宿る聖霊が、活発に湧かないためだと言えるでしょう。

≪まとめ≫
神様からの救いのメッセージを伝えられる人には、「自分がジーザスに救われた喜びと感動の体験」が、どうしてもなければなりません。
それが、人々にジーザスが救い主だと伝えられるための、必要最小限、唯一無二の資質だからです。
(2013.5.24.)(2013.9.8.改訂)


2013年05月17日

今朝は、二つの悩み事があって嫌な夢ばかり見て良く眠れず、朝3時50分に起床しました。そうしたら4時頃、外からしきりに小鳥たちの目覚めの鳴き声が聞こえてきました。それは小鳥たちが、神様を讃え、神様に感謝しているように聞こえて、たいへん慰められました。

小鳥たちのさえずりと違って、人の言う言葉、人のする行動は、なんと神様に反したことばかりなのでしょうか。ウソを言う、事実を見つめずに、自分に都合の良いように勝手な発言をする、そういう言葉が、最近テレビなどを通じて耳に入ってくるたびに、これらは悪魔からの言葉、悪魔をたたえる言葉、人々を究極的には殺すための言葉に私には聞こえてきます。
そして、私を深く傷つけ、悩ませます。今朝は 早朝に起床したついでに、それに関してのブログを書くことにします。

そんな中で、最近特に気になる声は、第二次世界大戦(太平洋戦争)に対する間違った見方、勝手な解釈です。それが超保守のタカ派である現政権の人々からしきりに聞こえてくるのです。

いわく、日本は、侵略戦争はしていないとか、当時の軍がした韓国の慰安婦問題は解決済みだとか、誰が見ても軍隊である自衛隊(??)を軍隊にするべきだとか、軍隊を持たない日本は世界中から軽蔑されているとか、 だから憲法を変えやすくするために憲法96条を改正(??)するべきだとか、村山首相の談話(1995年)は、見直さなければならないとか、これらは皆、歴史的事実を無視した「ウソのかたまり」の悪魔的な発言です。
最近そういう声が、しきりに聞こえてきて、私を悩ませています。私は、こういう発言をなるべく聞かないようにと、テレビのニュースなどで、そういう話になると、テレビをすぐに消すのですが、どうしても聞こえてきて、もうやり切れません。

以下に、何故これらが、間違った悪魔的な発言であるかを聖書的に説明します。

1.聖書の文化は、神様の前に悔いる心を何よりも尊ぶ文化です。それは、人の罪に対して正直な文化です。神様に対する自分の過ちを認める心こそが、何よりも正しいのです。

2.つぎに聖書的信仰の文化では、「誇り」ということも、これに関連します。人の誇り、国民の誇りとは、神様の前にへりくだって、神様とジーザスがともにいてくださることを信じられる「誇り」のことです。それは、『30 もし私(ポール(パウロ))が誇らなければならないのなら、私がどんなにか弱いかということを示している事柄について誇ろうと思います。(2カリンシアンズ(コリントの人たちへの第二の手紙11章30節、Good News Bible, Good News Translation 2CORINTHIANS 11.30.の翻訳)』と言った「自分の弱さを誇ること」と言ってもよいと思います。

これらに反して「悪魔の誇り」は、自分たちと先祖たちが過ちを犯していないと信じ込むことから生じる「誇り」です。傲慢な誇りなのです。
具体的に言うと、日本が、戦前、戦中、過ちを犯したと認めることは、日本人の自信を無くす屈辱的な考え方であって、それは日本人の愛国心(?)を損ない、日本人が自信と誇りを失わせることになると彼らは考えています。それが悪魔的な誇りの源でもあり、まず、第一の間違いなのです。
ですから日本人は、決して、『自分(たち)が過ちを犯した!』とは言いませんね。その代わり、『多大のご迷惑を皆様に、あるいは周辺諸国におかけした。』とだけ言います。
これは、自分たちの善意(??)に反して、迷惑をかけたということにもとれますから、それは、「故意」ではなく「過失」であったと言い張ることです。これは自分(たち)の過ちを認めないで、責任を逃れるための発言の仕方なのです。
侵略戦争についてもそうです。あれは侵略しようとしてした戦争ではないと言い張ります。善意でした戦争だけれど、結果的には侵略みたいになってしまったとして、自分たち、先輩たちの罪を認めようとしないのです。
こんなことでは、またいつか、条件がそろえば、程度の差はあれ、同じような侵略戦争もしかねません。

≪まとめ≫
『神様の前に、スィン・罪や失敗を犯しても、それを悔いて、ジーザスを信じれば、神様にいちばん喜ばれ、神様の前に正しいとされるという良い知らせ、そういう喜び』を知らない国民、それが、今の日本人なのです。
このような「超右寄りの、誤ったタカ派的保守派の台頭」が、今の日本国を良くすると言いながら日本をダメにするのです。
その原因は、キリストの福音を受け入れない、この国民にあります。
それがこの国の宿命であろうと、今、私は毎日、悲しい思いに包まれています。

(2013.5.17.)

2013年05月09日

今朝、東京調布市の自宅で、この春初めての鶯の鳴き声が聞こえました。それで神様の恵みが再び、私にも訪れてくることを感じました。さて、ジーザスが、初めて公にギャラリー(ガリラヤ)でお話されたときに、『17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」

(マスュー(マタイ)による福音4章17節、新共同訳聖書)』と言ったと日本語聖書で翻訳されています。「悔い改めれば救われる。」という表現は、ここのほか日本語の新約聖書にいっぱい出てきて、日本人なら、みな良く知っている表現だと思います。
これがキリスト教の中心的な教えだと思っている人はとても多いと思います。
しかし、今日は、この翻訳を中心に、「日本語聖書の翻訳の基本的な問題点の一つ」を指摘したいと思います。
ここのジーザスの最初の発言【悔い改めよ、】は、Good News Bible, Good News Translation では、まったく違う、目が覚めるような翻訳になっています。つまり、『17 その時からジーザスは、“あなたたちのいろいろな罪から離れなさい、天の王国が近いからです!”』と書いてあります。
なぜ、この翻訳が良いかというと、行いを強調しないで、こころ(心)を強調しているように読めるからです。【悔い改めよ、】という表現が使われていないのは、そのためです。

英語の聖書では、「悔いるrepent」という言葉は、しきりに出てきますが、【悔い改める、】という表現は、どの英文聖書にも出てきません。
和英辞典を引いても、「悔い改める」の英語は、「repent悔いる」となっています。英語には、「悔い改める」という言葉はないのです。つまり、英語のどの聖書にも、「repent and reform」などとは書いてありません。みな「repent」です。

この【悔い改める、】という日本語は、日本語特有の言い回しで、『人は悔いただけではいけないので、行いを改めなければいけない。』という宗教思想から出ている言葉です。
これは形を重んじ、行いを重視する、非常に日本的な宗教をよく表している思想です。そしてそれは、ジーザスの考え方とも、聖書の考え方とも、まったく違う、逆の考え方から出ていると思います。

ここで、「逆の考え方
とは、行いが良ければ、心もよくなるとか、形を整えれば、おのずから心もよくなるという間違った思想です。

さて、人は、なかなかそうそう、すぐに【改める】ことは難しいですから、【悔い改め】なくてもよいとしても、日本人は、まず【悔いる】ということをまったくしません。「悔いる」のは「恥」だと思っているのです。この神様の前に【悔いない】日本人の特性が、いま実は、日本で明らかになってきています。そのことが今の日本をむしばんでいるのです。これについては、日を改めてブログで書きます。

≪まとめ≫
わたしは、【悔い改める、】という表現が出ている日本語聖書に非常な抵抗感を持っています。それは、聖書的ではないし、ジーザスの考え方とも矛盾するからです。
そしてそれは、心よりも、形を重視する日本的宗教をよく表した言葉なのです。
(2013.5.9.)


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2013年05月06日

2013.5.5.五月晴れの子供の日、長い間苦心してきました「イエスの福音誌」105号、2013年6月号(全10ページ)を遅ればせながら、ヤマト運輸調布支店からメール便で発送できました。苦心した主な原因は、「信仰による確信と不信仰・奇蹟の解釈」について、

どう書こうかと苦心したためです。『聖書に書かれている奇蹟の解釈と、信仰とは何かの問題』は、キリスト教とジーザスの考え方との基本問題であり中心問題だからです。私はこの問題で少なくとも、ここ8か月間は苦心しました。もし、これらの問題を的確に解釈され、解決できなければ、それは、キリスト教信仰そのものを失ってしまうことになりかねません。そして、信仰は名ばかりの形だけのものとなり、あるいは、職業宣教師のように、それによって職業として生活費を稼ぐため というお金を稼ぐ手段に成り下がってしまうからです。そして、さも信仰を持っているかのように振る舞うのです。実際、食べるために、牧師になったと正直に?告白した牧師を私は知っています。

「イエスの福音誌」105号では、「奇蹟の解釈」に絞って取り上げ詳しく書きました。結論として、
1.聖書に書かれている2000年前の当時の人々が、奇蹟と信じ、伝えた「奇蹟の記事」は、人々をキリストを信じる信仰に引き込もうと、ウソを承知で、人々をだますために伝えたものでは決してないという点です。
2.2番目に重要なことは、神様は人を言葉ではなく、「その言葉が出てきた心」、「その言葉が出てきた動機」を重視なさるという点です。
私たちは、神様やジーザスがなさった「奇蹟」と言われる出来事を感じ伝えた当時の人々の、神様に対するひたむきな感謝の気持ちを、神様の全知全能を信じる心を、神様がいつもともにいてくださるという心を、そして神様に、すべてのことをもって神様に感謝し神様をたたえたい心を尊重しなければなりません。
現代の科学、現代の医学の知識に反するからと言って、当時の人々の信仰を軽蔑するなどは、とんでもないことです。

≪まとめ≫
「人の行いの動機」を重視する、神様の判断の仕方に、私たちは多くを学ばなければいけないと思います。何事も、動機が大切なのです。
(2013.5.6.)


2013年04月26日

ポール(パウロ)の言葉として最も有名で、非常に誤解されている言葉に、1コリント 13章の愛の賛歌があります。それによれば、「たとえ、私に山を動かすほどの信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。」から始まり、「13永遠に続くものは信仰と希望と愛である。

そしてこのうち最も大きなものは、愛である。」というようなことが書いてあります。そして、ほとんどの人々は、これを読んで、勝手に感激するようです。

しかし、ジーザスは、ぜんぜん、このようなことは言いませんでした。
1.ジーザスは、信仰は、神様を愛する愛から出ると教えました。
2.そして本当の愛は、そのような信仰から出ることを 教えたのでした。

信仰の無い人たちは、「愛の実践?」をすれば、クリスチャンだと言っている人たちより「偉い」と思う「俗信」に取りつかれていると思います。
この「俗信」は、結局、社会奉仕活動が、最も尊いとの迷信を生みます。

社会奉仕活動は絶対に必要ですけれど、それだけは不十分です。この場合の社会奉仕活動とは、人々の肉体的なニーズを満たし、人々に利便をもたらし、人々の物質的な環境からくるストレスを減少させ、さらにそれらの結果、人々の健康寿命を延ばせる。そういう側面の愛の活動にすぎません。

しかし、それだけが、愛の奉仕活動なのでしょうか? 私はそこのところに、いま、深刻な疑問を持ち始めています。

いま日本に必要な「愛の活動」
悩む人、救いがたいほどの体の弱い人、能力が非常に劣っている人たち、経済的に非常に貧しい人たち、『そういう身近な人たちの心を救う考え方』こそ、つまり、そういう、心からの愛に満ちた信仰こそ、人を根本的に救う力なのではないでしょうか? お金をただ分け与えるだけでは不十分なのです。
人に永遠的な喜びと希望を与える力は、そういう愛であり、そういう力なのではないでしょうか?

心の救いを提供しない愛の活動の限界
人々の「心の救い」を提供しない「愛の活動?」は、部分的に必要ですけれど、結局は、それは、動物的にきわめて健康で頑丈な人間を作るだけのことになります。そのようにして生まれてきた人間は、がむしゃらに働くことになる、それこそ自分の利益だけで動き、働く機械のような人間を生むでしょう。
そういう人は、神様の前に謙虚でないから、お金は稼ぐでしょうが、自分の近くにいる弱い人を顧みない鬼のような人間集団になります。

≪まとめ≫
肉体的にだけ健康な人間集団は、いつかは、誤った傲慢な確信を持つようになります。
たとえば、ジーザスの考え方とは正反対の精神を持った首相が、日本は、過去に侵略戦争はしていないなどと言い始めるのです。
そういう国は、そのうち、弱い立場の人や、弱い立場の国を顧みない、鬼のような活動を始めると思われます。つまり、経済第一の、お金儲けばかりしていて、他国へのむごい戦争や、貧乏人の切り捨てや、弱者に寄り添わない政治をするようになるのです。このようにして、いつかは神様からの刑罰―つまり精神的な破たん、傲慢さと絶望が、このような国、このような人たちの上に下るのです。
(2013.4.26.)


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2013年04月01日

最近、日本では、東日本大震災を機に、「鎮魂歌」と言う言葉が、しきりに聞かれます。神戸淡路大震災のあと、それのための「レクイエム」として、多くの歌や、作曲もなされたようです。昨日の夜、NHKの総合テレビを見ていましたら、なにか21世紀のベートーベンであると

世界的に、もてはやされているとの「触れ込み」で、ある日本の聴覚障害の男性の作曲家が取り上げられ、東日本大震災のためのレクイエムとして、ピアノ曲を作曲したという番組が放映されました。私と妻は、「ベートーベンに匹敵する」と言うので、驚いてこの番組をずっと見ました。録画もしました。
ところが聞いてみると、死者の魂が癒されるのかどうか知りませんが、どう聞いても、私たち生きている人間の魂が癒される曲ではありませんでした。それどころか、私たちの心に、「死」をもたらす曲にしか聞こえませんでした。
番組終了後、音楽家の端くれである妻は、「こんな曲、ちっともよくないよ。聞いていて、怖いだけだわ。」と言いました。「まだ、盲目のピアニストの辻井伸行さん作曲のレクイエムのほうが、よほどメロディが美しいわ」と言いました。『聞いていて、不愉快になり、怖くなる旋律は、作曲でタブー視されている「悪魔の音程」を使っているためかもしれないけれど、聴いていて少しも鎮魂の感じが出ていない、自分が習った吉田秀和先生が生きていたら、きっとこの曲を「猛烈に非難するだろう。』と言っていました。

そこで、私は、電子辞書で、「レクイエム」を引いてみました。
そこには、「レクイエムとは、1.最近死んだ人に対するキリスト教の儀式で、人々が、その人の魂に祈りをささげるクリスチャンの儀式。2.その儀式のために作曲された音楽。(OXFORD英英辞典の翻訳)」と書いてありました。いったい、キリスト教の信仰が無い者が、もっとはっきりと、正確に言えば、「ジーザスの考え方のすべてに深く共鳴していない者が、レクイエムなど書けるはずはない。」と思います。

この国では、キリスト教の皮だけをとって、そこに、自分の思想や感情を注ぎ込むのです。そしてそれが世界的だと人々も思い込むのです。そんな日本の実情を、昨晩、私は憂いとともに、唖然として見つめていました。それで夜眠れなくなりました。ひどい目にあいました。

≪まとめ≫
死んだ人の魂や、人の魂に向かって、捧げる祈りは、当然のことながら、そこに、神様からの慰めと、神様の涙と、赦しの声が響いてこなくてはなりません。そうでなければ、「鎮魂」にはなりません。怖いだけではだめなのです。
ですから、鎮魂のテーマは、「復活のテーマ、復活のメロディーでなくてはならないト思います。」
今年の復活祭、イースターの日に当たって、私はそのことを強く感じています。

(2013.4.1.)


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2013年03月23日

昨日テレビを見ていたら、「あるデパートの社長」が、「人は形を整えれば、おのずと心が付いてくる。」というようなことを言っていました。それを聞いて、私は唖然としました。妻も、この考え方に反対でした。この人は、禅仏教の教えに心服している人のようで、

そのために、禅の教えの本を推奨していました。私がショックを受けたのは、こういう考え方が、キリスト教や聖書に表われている教えとは正反対だと思えたからでした。

ジーザスは、『お互いに愛し合いなさい!』とは教えましたが、『誰とでも笑顔で接しなさい!』とは教えませんでした。形を教えず、心を教えたからです。

誰とでも、自然に笑顔であいさつできることは、確かに人の究極の目標ではありますけれど、そこに心がこもっていない、ただの習慣的な演技である挨拶の場合、人をだますのです。
だからジーザスは形は教えず、人の心を救うことで、愛の社会を実現しようとしました。

形を悪くしたり、悪い言葉を使っていれば、心のなかもそれにつられて悪くなることは、たしかにありうることです。でも、ジーザスは、『すべての悪は、心の中から出てくるのだ。』と言いました。たとえば、『36 お前たち蛇たち― あなたたちが悪いのに、どうして良いことを言えるでしょうか? 人は心にあふれることを話すものだからです。35 良い人は、良い宝の蔵から良いものを持ってきます。;悪い人は、悪いものがいっぱい詰まった宝の蔵から、悪いものを取り出すのです(マスュー(マタイ)による福音12章35から36節、Good News Bible Good News Translation,MATTHEW12.35-36.の翻訳)』と言いました。
笑顔や、お辞儀の綺麗な仕方などの「形(かたち)」をひたすら練習して、作ることは、そこに心がない場合、まったくの虚偽です。相手をだますウソです。
ウソは人を欺くものでして、聖書では、それをとても嫌っています。それは、むしろ悪魔から出るものとして嫌っているのです。

日本では、うわべは当たりさわりのないお世辞やウソを、平気で言い合います。しかも、それが心からのように見せる演技をするのが上手な人が多いと思います。とくに、商売でそれが多く見受けられます。そして、そのウソが見抜けず、言葉の裏が読めない人にたいしては、「場の空気が読めない!」と言って非難するようです。

私なんか正直ですから、人が言うことをそのまま信じてしまいます。レストランで、「どうぞごゆっくりしていってください。」と言われると、「ほんとうに、ゆっくりしていって良いのだ!」と思ってしまいます。でも実は、「ごゆっくりしていってください。」とは、「早く帰ってください。」と言う意味らしいのです。 

言葉の裏を読んで過ごさなければならない社会は、とても住みにくい社会です。今日の日本の社会は、どう考えても、そうした悪魔(?)の騙し合いの社会のようなものだと思わざるを得ません。
こんな社会は、ほんとうの真実な社会ではないと思います。

≪まとめ≫
何事も、愛を持って、穏やかに言うことは重要ですが、「ストレートに言ってはならない。」と言ったり、心と正反対のきれいごとを言って、相手をだまし、表面的には、愛があるかのように見せる社会は、いつか破綻すると思います。
同じことは、「信仰」についても言えると思います。「形」を作る「信仰」は、ウソです。いつか破綻すると思います
(2013.3.23.)


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2013年03月22日

みなさん、おはようございます。東京地方は、このところ、暖かい春の陽気になり、桜の開花も宣言され、桜は5分咲きになりました。いっぽう私は、このところの気候の急変のためか、風邪気味となり、微熱と体のだるさと、まともに立っていられないほどの状態に悩まされ

つづけました。氷枕をし、PLとフロモックスを飲み始めたためか、19日あたりから、急に快方に向かいました。
そんな中、投稿した2013.3.17.の記事に重大な間違いを発見しました。『英語の接尾語-lessを「少ない」と言う意味だと思って書いてしまったのです。』 英・英辞典RANDOMHOUSE WEBSTER’S UNABRIDGED DICTIONARYを引いて、その誤りが決定的になりました。そこで19日から、ほとんど眠らずに、このブログを修正し、再構築しました。

私に誤りやミスが今、多いのは、まだまだ疲労が残っているためです。仕事が順調にはかどらないのです。その原因を解消するいくつかの手段の一つとして、私の書斎の机まわりを中心に、昨年暮れから改造を計画し、一部実行しています。
改造の目標は、『46 ‘私(神様)の宮は、祈りの家となるであろう’と神様は言われたと聖書に書いてあります。(ルーク(ルカ)による福音19章46節a、Good News Bible, Good News Translation LUKE19.46aの翻訳)』」というジーザスの言葉です。「祈りの家」とは、必ずしも、教会堂やクリスチャンの集会所などの意味ではありません。それは、「神様が一緒にいてくださる家」という意味だと思います。

このジーザスの言葉は、もともとアイザイヤ(イザヤ書)が書いたものです。「7 “私(神様)はあなたたちを私の聖な丘、ザイアン(シオン)に連れてきて、私の祈りの家の中であなたたちを喜ばせよう、そして、あなたたちが私の祭壇に捧げる犠牲の供え物を受け入れよう。私の宮は、全国の人たちのための祈りの家と呼ばれるでしょう。”(アイザイヤ(イザヤ書)56章7節、Good News Bible, Good News Translation ISAIAH56.7.の翻訳)」とある言葉を引用したものです。私はこの「祈りの家」と言う言葉がことのほか好きで、かつて、3軒の家を建築した時も、すべてこれを目標に設計しました。

家というものは、もちろん、人々が憩い、体を休養し、愛し合い、栄養を取ることが基本です。しかし、同時に、それらを通して、神様のために働き、神様に感謝でき、皆が愛し合えるような家でなくてはなりません。
私の場合も、そのために、「静かに集中して仕事ができる環境」がとても大切だと思っています。そこで、6畳間の書斎兼寝室を勉強に集中出来る場にしよう、独創的・創造的な発想が豊かに出る場所にしようと、昨年末あたりから、いろいろ試みてきたところなのです。

その矢先、19日にWBS(テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライト)の録画を見ていましたら、東大生と東大教授が開発した「赤門机(あかもんづくえ)」というものが紹介されていました。それは、集中力を高め、さらに創造性を発揮するために有効という触れ込みでした。これは、私が今、計画している勉強机と非常に似ているので、とても共感しました。

創造性・独創性の発揮には、
1.基本的に、まず、既存の考え方にとらわれない自由に発想できる心が必要です。すでにある伝統的なものに価値があるかを疑える力が必要なのです。
2.第二に、「神様が考える正しいこと」とは何かについて、つまり、「当面の本当の一番の価値」とは何かについて見通せる力が必要なのです。これは、他人の意見に流されず、「自分に示された独創的な価値観」への信仰による確信が必要です。
3.これら二つの基本を踏まえて、さらに体力的に必要なことがあります。それは、頭が冴えていて、健康なことです。
4.そして、さらに、集中できる環境を作り出すことも絶対に必要だと思います。それは、神様のために働くため非常に有益なことです。そうすれば、優れた図書館やホテルの静かな客室などに出向かなくても、家で集中できる場が作れます。それは、研究者や受験生には必須です。これは私の大学受験の受験勉強の時を思い返しても確かに言えることなのです。

しかし、「赤門机」のような設備をそろえさえすれば、創造性が発揮できると信じるのは大間違いです。神様に結び付いた価値観という基本の「創造的な心の無い人」に、ほんとうの創造も、ほんとうの独創も起りえないからです。 独創に見えることは起こってもきっと何かの真似です。

≪まとめ≫
祈りの家」は、発想が湧く家でなければなりません。それは、信仰的には、神様に思いを馳せ、ジーザスに思いを集中できる家でなければなりません。それは、そこに住む一人一人が、静かに、自分一人で考え祈ることが出来る環境が必要だと言っているのだと思います。
「祈りの家」の発想は、単に、教会にとどまらず、個人の住宅、公共の施設、ホテル、社会、国家へと広げて考えられる理想の環境づくりの最低限必要な条件であり、すべての設計の原点でなくてはならないと思えるのです。
(2013.3.22.)


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2013年03月17日

今日は、『信仰がある、信仰が無い。』という日本語聖書の翻訳に疑問を感じたので、書きます。『19 イエスはお答えになった。なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。その子をわたしのところに連れてきなさい。(新共同訳聖書、

マルコによる福音書9章19節a)』とある箇所です。ここは新改訳聖書では、その前半を『何と不信仰な世だ。』と訳してあります。いずれも、ジーザスがその弟子たちと人々に向かって言った言葉です。ですから、ジーザスが弟子たちに向かって『信仰が無い』と言ったともとれます。ここも少し難解な個所です。
広辞苑によれば、「」は、打ち消すか、否定の意味です。ですから、信仰があることを打ち消すか、否定するのです。文語訳聖書では、ここは、『ああ信なき世なるかな。』となっていますから、日本語聖書では、伝統的に、金太郎蒲鉾(かまぼこ)よろしく、昔からここは、「信仰が無い」という意味合いで理解され、翻訳されていることが分かります。
英文の聖書では、「O faithless generation(NKJV)」、「You faithless generation(NRSV)」、となっていますから、日本人は、この英文聖書に習って翻訳したつもりなのでしょう。「faithless」は、【宗教心が無い】という意味【ジーニアス英和辞典による】です。

そこで、Good News Bible, Good News Translation ではなんと翻訳してあるか見てみました。『19 ジーザスは、彼らに向かって次のように言いました。“あなたたちは皆、なんと信じない人たちなのか!(マーク(マルコ)による福音9章19節a、Good News Bible, Good News Translation MARK9.19aの翻訳)』とあり、ここは、「How unbelieving you people are!」となっていました。NIVも、「unbelieving」を使っています。「unbelieving」は「信じない」とか、「疑い深い」という意味です。ですから「信仰」が無いという「信仰」の有無や否定とは違い、おだやかです。 つまり、信じるという動的な状態がないと言っているだけです。

「信仰が無い」と言ってしまうと、なにか「信仰」というものの本来の存在を否定するニュアンスがあります。
ですから「信仰」という抽象的なものが、存在するか、存在しないかのどちらかを人は見分けるべきだというような考えも生みます。また、少しでも信仰がある人を誇らせることにもなります。それに、「信仰」はありさえすればよいのでしょうか?もしそうなら、キリスト教会に属している人たちは「自分たちは信仰がある」と思えて、安心することでしょう。だから、信仰がある、無いの考え方は、何か問題が起こりそうです。

このように「無い」を頻繁に使う「日本人の聖書の読み方」、つまり、「すべてを抽象的な考え方で二つに極端に区切る考え方、読み方」は、そこに「観念的な二元論」があるからだと思います。これは実は、「霊」と「肉」など、非常に日本人の信仰のとらえ方に多く見られます。

この考え方は、日本人の虚無の思想や、禅仏教の「無の境地」から出た西田哲学(西田幾多郎、1884〜1940)の考え方と無関係ではないのです。

無教会は、「無」という文字が付いていますから、多くの日本人の関心を引きます。しかし、この場合の「無」とは、もともと、教会の無い人、反発やその他いろいろな理由で、教会へ行けない人、行かない人のための「教会」という意味でした。それは、教会をなくすという意味でもありませんでしたし、教会を批判することは多くあっても、「教会」の反義語でもなかったし、教会を否定するものでもありませんでした。

なお、この「信仰が無い」ということを非難する表現の裏に、「信仰がある」と思える人、「信仰がある」と言う人に対する嫉妬心も生まれてくると思います。「本当に信仰がない人」の立場からすると、そういう人は、「信仰を誇っている」ようにさえ思えるのです。そして信仰のあらゆる側面、つまり情熱的に神様を慕う表現や、単にたまたま環境が改善しただけと思えるのに、それを神様の助けだと信じ込んでいる人に対する、愚かで非科学的だ、迷信だという軽蔑心さえ出てきます。そして、『神様がなさった奇蹟』だと信じる信仰への嫌悪感さえ生みかねません。

≪まとめ≫
信仰が無いことが科学的なのではありません!信仰が少ないことが人の不幸なのです。信仰が有るか無いかで言えば、「信仰」は、哲学的で観念的な概念に成り下がります。

信仰とは、生きておられる神様の実在と愛を感じることです。そして、それが、人の心の健康にとって、とても大切で、必要なことなのです。

最近、無教会では、信仰とは、信仰が無い(と自覚する)こと【無信仰】、あるいは信仰を意識しないこと【?】が、ほんとうの信仰だなどという議論が出てきました。大変に残念な日本的現象です。それには、このあとの「信仰のないわたしをお助けください、マルコによる福音書9章24節b、新共同訳聖書」とある聖書の箇所が引用されます。しかし、ここも不適当な翻訳だったのです。
ここは、Good News Bible, Good News Translation では、「“私は、信仰は持っています、でもたくさんは持っていません。私がもっと信仰心を持てるようにお助けください!マーク(マルコ)による福音9章24節b、Good News Bible, Good News Translation MARK9.24bの翻訳」と翻訳されています。NKJV,NRSV,NIVも同様です。
いかに日本語の聖書が、心もとない物であるかが、こんなところからも分かると思います。
(2013.3.17.)


2013年03月09日

『あなたのしたことは正しい』、『あなたの考えていることは正しい』、と誰もが、そう言われたいのだと思います。その『自分は正しい』という確信は、どうしたら得られるのでしょうか?それが人々の人生の最大の問題です。私たちは、信者も不信者も問わず

それを得たいための格闘を日々みんな送っているのだとも言えると思います。
神様やジーサスは、「神様が喜ばれる人たち」にその言葉を言ってくださいます。そして、その声を聴いた人たちが、神様とジーザスを慕い、神様とジーザスを強く信じるようになるのです。

それでは、神様やジーザスが言う「正しい人」とは、どういう人のことでしょうか、それが図らずも、マークによる福音2章17節に書いてあります。日本語の聖書では、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。(マルコによる福音書2章17節b、新共同訳聖書)」、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くために来たのです。(マルコによる福音書2章17節b、新改訳聖書)」とあります。そこでの「正しい人」ですが、代表的な英文の聖書NKJV、NIV、NRSVでは、いずれも「the righteous」となっています。この英語は、「道徳的に正しくて、良い」という意味です。道徳的にとは、英語では、『「正しい、又は誤った行動」についての「強い信仰または信念(belief)」に照らして』という意味です。なので、「正しい人」は、この英文の聖書でわかる通り、「神様の前に正しい人、つまり神様の目から見て正しい人」の意味でなくてはいけないと思われます。ところで、ここでの「正しい人ですが、これは、人々の目から見て判断した、みんなが言う「正しい人」のことです。
そこで、Good News Bible, Good News Translation GNTでは、ここが「the respectable(人々から尊敬されている人たち)」となっています。

神様とジーザスが言う「あなたは正しい。」とは、人が言う「あの人は正しい人だ。」というのとは大きく違います。いや、まったく違います。その場合の「正しい」は、もちろん、正確だという意味ではありません。「神様の前に喜ばれる」という意味です。ですから、それは、ほんらい神様からのその人への祝福」を表わしている言葉なのです。

ところで、神様やジーザスが言う「正しい人」、「神様に喜ばれる人」とはどういう人のことでしょうか? それは、神様やジーザスが、その人に求められることに従っている人のことでしょう。
神様が人に求められることは、人が人に期待するところとは大きく違います。
人は、人が何か規則にたがわずに行動するとき、あるいは、目的をすばやく正確に達成したとき、または、その時の法律に違反していないときに、正しいと判断するのです。つまり、「常識や人が決めた道徳的な規範」にかなっているときに、その人を正しいと言います。そして、その人を高く評価し、その人を尊敬するのです。

ところが、ジーザスが祝福する人、ジーザスが正しいと判断する人は、そういうこととは無縁でした。「山の上でのお話」という、ジーザスがしたとても有名なのお話があります。その中で、この「正しい人になり易い人たち」のこと、「つまり神様から祝福され、神様から喜ばれる人たちのこと」、その意味で「幸福な人たち」のことを次の8つに分類して言われました。
1.自分が、精神的に貧しい(spiritually poor)と知っている人たち。
2.嘆き、悲しんでいる(mourn)人たち。
3.自分をほかの人たちのように、偉いとは思っていない(humble)人たち。
4.神様が自分に求められていることをしたい(want to do what God requires)と思っている人たち。
5.ほかの人たちに対して憐み深い(mereciful)人たち。
6.神様の前で心の中に混じりけがない(pure in heart)人たち。 
7.平和のために、心を砕く(work for peace)人たち。
8.神様が自分に求められていることをしているために、人々からいじめられている(are persecuted bcause they do what God requires)人たち。
の8つです。
これらは、いずれも、決して人々から尊敬されることではありません。うらやましがられるところでもありません。
私たちは、こういう意味で、神様やジーザスに「あなたは正しい」と言われていることを信じられて、初めて私たちは、心が救われるのだと思います。心の中のストレスが解消されるのだと思います。

≪まとめ≫
現代の、ストレス社会でのストレス回避、つまり心の救いは、神様やジーザスに褒められ、喜ばれているとの確信が中心となります。それがストレスの解消にどうしても必要なのです。そのことに、このところ、私は気付きました。

なお、昨日、私の精神神経科の主治医 笠井清登先生に相談した結果、今後のブログでは、記事を簡単に、やや急いで書き、それをさらに深めた内容を、「イエスの福音誌(105号以降)」に書くことにいたしました。それが、私のストレス解消に決定的に必要な方法だと考えられます。
そのために、ブログの内容は簡潔で、やや理解しづらくなることもあろうかと思います。ご了承ください。

(2013.3.9.)


2013年02月28日

2013.2.22.(金)に日本語聖書に、『15 貧しい人の一生は、災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会に等しい。(新共同訳聖書聖書の格言(箴言)15章15節、Good News Bible, Good News Translation PROVERBS15.15.の翻訳)』という翻訳を見つけました。素直に読めば、

とても分かりやすい良い翻訳だと思います。しかし、難点を言えば、ちょっと誤解も起きやすいと感じたので、ほかの聖書の翻訳を見てみました。
日本語の新改訳聖書では、ここは、『15 悩む者には、毎日が不吉の日であるが、心の楽しみのある人には、毎日が宴会である。(新改訳聖書箴言15章15節)』と書いてありました。
新共同訳聖書では、「心が朗らかなら」の主語が、あいまいです。しかし、「貧しい人」が、その主語である可能性を、どうやら感じます。ところが、新改訳聖書では「悩む者」と「心の楽しみのある人」とは、まったくの別人である可能性を強く感じさせる翻訳なのです。「心の楽しみのある人」が、同時に「悩む者」であることはないと思えるからです。

この箇所をGood News Bible, Good News Translation で読んでみました。
15 貧しい人たちの一生は、苦難との戦いの連続だけれど、心が楽しい人たちはいつでも人生を楽しんでいます。(聖書の格言(箴言)15章15節、Good News Bible, Good News Translation PROVERBS15.15.の翻訳)』とあります。「貧しい人たち」の反対語は、「富んでいる人たち」ですから、貧しい人たちのなかでも、「心が楽しい人たち」が居ても、おかしくはない印象を受けます。

ところで、また別の英文聖書の同じ個所を読んでみました。
NKJVでは『15 人からいじめられている人たちの毎日は、いつも人を傷つける悪いものです。しかし、楽しいこころを持つ人たちは、宴会の連続です。(New King James Version. PROVERBS15.15.の翻訳)』
NIVでは『15 いじめられている人たちの毎日は、傷つけられっぱなしですが、心が楽しいひとたちは、いつも宴会の連続です。(New Interenational version PROVERBS15.15.の翻訳)』
NRSVでは、『15 貧しい人たちの毎日は、厳しいものですが、楽しいこころは、宴会の連続です。(New Revised Standard Version. PROVERBS15.15.の翻訳)』
と、NRSVは、まだましですが、ほかはの二つは、分けのわからない妙な翻訳になっていました。

ここで一般に聖書の翻訳についての問題が四つあると思います。
1.まず、原典・原文にはどう書いてあろうが、聖書の翻訳にあたっては、聖書全体が述べようとしている精神を理解したうえで、語句を翻訳する必要があるという点です

2.少なくてもこの聖書の箇所では、実際、いずれも語句を機械的に置き換えてはいません。その言おうとしている意味をくみ取って、置き換えているようです。ただし、その意味の汲み取りかたが誤っているようです。
3.そして、主語があいまいなのに、原典で主語があいまいにとれるからと言って、主語をあいまいのままにして翻訳するのは、原典に忠実な翻訳とは言えないと思います。それは、原典には見かけ上、忠実なのですが、その言おうとした精神には忠実ではないことになる場合が多いのです。
4.この点をさらに追及すれば、その翻訳は、読む人に、不親切な翻訳であり、聖書の言葉を聖霊を持って翻訳しているとは決して言えない翻訳が多いと言えましょう。

ここの聖書の格言(箴言)15章15節の翻訳がなぜ重要かと申しますと、ジーザスの有名な言葉に、『貧しい人たちは幸いです。(ルーク(ルカ)による福音6章20節、Good News Bible, Good News Translation LUKE6.20.の翻訳)』というのがあります。
貧しい人たちが本当に幸いなのは、神様・ジーザスを信じれば、これらの人たちこそが、心が楽しくなるからです。

≪まとめ≫
ジーザスの言葉に矛盾するような聖書の翻訳は、旧約聖書の翻訳であろうと、たぶん間違った翻訳、不適当な翻訳だろうと断じて、構わないだろうと信じています。

聖書の格言(箴言)15章15節の翻訳を見比べてみると、新共同訳聖書は、かなり丁寧な翻訳だと思います。ただし、主語の記述があいまいで、誤解を生みやすい点が気になります。Good News Bible, Good News Translation では、その点の主語も明確に受け取れて、有益な翻訳になっています。
『貧しい人たちが本当に幸いである』ことが、この聖書の格言(箴言)15章15節の翻訳を通して、人々に通じるような翻訳こそが、この場合、良い翻訳と言えるでしょう。
(2013.2.28.)


2013年02月22日

2013.2.19.(火)は雪交じりの小雨の降る中、11時半からハイアット・リージェンシー東京のロビー階イタリアン・レストラン「カフェ」で、パスタ・ランチを一人で楽しみました。混んでいて席が取れないとのことでしたが、行ってみると、いつもの窓際のソファー席が

用意されていました。そこで、「神様がしつらえてくださった食事」ということを思い出しました。これについては、ジーザスがした次のたとえ話が有名です。『15 食事の席についていた客の一人が、“神様の王国の宴会の席に座る人はなんと幸福なことでしょう!”と言いました。16 これに対してジーザスは答えて、“たくさんの人を招いて大宴会をした人がいました。17 宴会が始まる時間が来たので、召使をやって、‘いらしてください!全部用意が出来ていますから!’と言わせたのです。しかし、彼らは、みんなひとりずつ、かわるがわる言いわけを言い始めました。初めの人は、その召使に、‘私は畑を買いましたので行って見てこなくてなりません。申し訳ないのですが。’と言いました。別の人は、牛のつがい5頭を買ったのです。今それを調べに行くところです。申し訳ございませんが。‘と言いました。もう一人の人は、‘私は、今ちょうど結婚したばかりなのです。ですからうかがえません。’と言いました。24 その召使は帰って主人に、このことを全部話しました。すると主人はとても怒って、”早く出て通りや町の路地に出向いて、貧しい人たち、身体障がい者、目の不自由な人たち、それに肢体が不自由な人たちを連れてきなさい。‘と申しました。22 間もなく、その召使は、’あなたのご用命通りにいたしました。でも、まだ空きがあります‘と申します。23 そこで主人は召使に、こう言ったのです。‘村の道路や狭い道に出て行って、人々を連れてきなさい、そうすれば私の家はいっぱいになるでしょう。24 よく聞いておきなさい、招かれた人は誰も、私のご馳走を味わうことはないでしょう。’“(ルーク(ルカ)による福音14章15から24節、Good News Bible, Good News Translation LUKE13.15-24.の翻訳)とある記事です。

ジーザスがした、このたとえ話は、意味がとても深いと思います。ちょっと考えますと、私たちが天の王国の宴会の席に座って、神様と一緒に食事をするなどということは、とても素晴らしいことのように思えますよね。
そこで、次の三つのことに気づきました。
1.ここで肝心なことは、その宴会の席に神様が、私たちみんなを招待してくださっているということです。そのことが、まず第一に重要です。
2.そして第二に重要なことは、そんな大切な食事の席に 人々はつこうとせず、招待を断ってしまうという点です。
その断る理由は、この世の仕事やこの世の生活で忙しいということです。それは何を意味するのでしょうか?
それは、人は、神様と一緒にいることよりも、自分が決めた仕事や事柄を達成し、エンジョイする事のほうを重要だと思うからです。そして、しかもそれを正しいことだと思っているのです!つまり神様に対する熱情の無さが原因ですね。言い換えると、神様とジーザスに対する信仰が生きていないのです!

ジーザスは、食事をとても、とても大切に思っていました。それは私たちの体の栄養管理を通して、私たちが肉体的にも精神的にも元気になる源だからです。
ところで、天の王国にも宴会の食事が出るなどという発想は、どのほかの宗教にもない発想ではないでしょうか。そして食事を通して神様をたたえ、神様に感謝する。また、的確に摂られた食事には、そういう意味があるからだと思います。だから天国にも食事があるのです。いや、天国にこそ、食事も、宴会もあるのです。
人は、食事によって、お互いに心が一つになり、元気をもって「神様のために働く知恵と力」も与えられるのです。
3.第3の重要なことがあります。それは、そういう天の王国で、宴会の席につける人は、神様に招かれているから、自分は、天の王国に入れるのだと、うぬぼれている人ではありません。それを自分の既得権のように思っている人たちではないという点です。

天の王国の宴会の席に座って、神様と一緒に食事をすることが出来る人たちは、招かれた人たちではありません。そうではなくて、貧しい人たち、弱い人たち、身体障がいを持つ人たち、身体の不自由な人たち・・・・・なのです。そういう人たちは、自分に何も自慢できるものは無いと知っている人たちです。そういう、心の低い、貧しい人たちに、神様は、宴会の席を用意し、神様と一緒に、楽しく食事をさせてくださるのだと思います。

≪まとめ≫
いったい、ジーザスは、しばしば食事を楽しみました。それは食欲を満たすということ以外にも、重要な意味があったようです。ジーザスは、食事を通しての栄養管理には、重大な関心を持っていたように見受けられます。
それですから、食欲があるのに断食をするそれまでの断食の仕方には、おおいに疑問を持っていたようです。(マーク(マルコ)による福音2章18から20節、マスュー(マタイ)による福音9章14から15節、ルーク(ルカ)による福音5章33から35節を見てください。)。
(2013.2.22.)


2013年02月18日

世の中には、こんな書物は一つもないのに、聖書は、人に信仰がないことをとがめ続ける書物です。「信仰がない。」ということと同時に、「神様に対して罪を犯し続けるということ。」を非常にとがめて書いているのです。それは旧約聖書、新約聖書のどこを開けても、

結局は、そんなことが書いてあります。

だから、人々、特に日本の人々は、聖書を煙たがるのだと思います。

聖書は、救いの知らせを伝えると同時に、こういうことを言おうとしているのだと思います。
ジーザスも、そうでした。ただ、この二つのことの本当の意味をジーザスは教えました。「信仰とは何か。」、「スィン・罪とは何か。」ということをジーザスは、間接的に、徹底的に教えました。そして、それは、目が覚めるくらい、新鮮なものでした。
ですからこのブログも、この二つを明確に示すことこそが、まずその第一目的でなくてはなりません。

つまり、
1.神様が生きて、今も働いていらっしゃるということ と、
2.神様が、今、喜んでくださることとは何か、神様が、今、喜ばれないで不快に思われることとは何かを人が知ることが、人の人生の第一目的でなくてはなりません。この二つが、きわめて大切なのです。

サーム(詩篇)53篇2から3節に
愚かな人、愚かしい人たちは、一人でつぶやきます、“神、神様なんて居ないのだ。”と。彼らはみんな、腐り果てていて、ひどいことをし続けています。的確な正しいことをする人などは、一人も居ません。
2 神様は天の上から人々を見下ろし、賢い人が一人でも居るか、神様を尊敬して神様に祈り、神様をたたえる人がいるかどうかを見ておられます。
3 でも、彼らはみんな神様に背き去っていて、みんな同じように悪いのです。
彼らのうち一人として、的確な正しいことをする人は居ません。たったの一人もいません。
(サーム(詩篇)53篇1から3節、Good News Bible, Good News Translation PSALMS53.1-3.の翻訳)』
と書いてあります。もうサーム(詩篇)に、すでに、このことが書いてあるのです。有名なポール(パウロ)のロウムの人たちへのポール(パウロ)の手紙(ロマ書)3章10から13節を挙げるまでもありません。

もし、人に信仰がないということ と、神様に対して罪を犯し続けているということとに、すべての人が気づかなければ、いくら人が復活の信仰を学んでも、意味はありません。その意味が分かるわけがないからです。優れたものや、優れた人に感心して褒めれば、それは偶像崇拝になりかねません。それをもって、神様をたたえ、神様に感謝することがないからです。だから、意味はありません。
また、世の中で驚くことが起こっても、ただそれは、一時的な刺激になるだけです、その意味が分かりませんから、驚いても益はありません。
また、人が警世の言葉を繰り返しても意味はありません。
それはただ自分の怒りの感情をつのらせるだけで、自分は高慢になり、神様に対する謙虚な気持ちを持つことをさまたげるからです。だから、世の中の細かな腐敗を嘆いても意味はありません。そういうことでは、世の中を独創的に創造する力は生まれてこないからです。それは、その土台に,この二つのことがらがないからなのです。

≪まとめ≫
まずは、神様が今も生きて働いておられることを信じて、神様のさばきを恐れること、しかも、神様が私たちに、今、本当に求めておられることを祈って知って動くのでなければ、すべての良いことは、何も起こらないのです。
(2013.2.18.)


2013年02月14日

私の妻を筆頭に、私のブログなどに、首を傾げたり、反対したりする人が、とても多い中、東京大学医学部付属病院(東大病院)精神科の主治医、笠井 清登先生は、2013.2.8.(金)の診察で、私がこのブログを書くことは良いことだと、しみじみとおっしゃいました。

以前から笠井 清登先生は、『花田さんのブログを見る人が、一日に何十人もいるのは、皆、花田さんのブログのファンなのです。花田さんのブログを読んで癒されているのです。』と言われていました。これに私はたいへん力づけられていましたが、この2013.2.8.のご診察で、そのお考えが、私に決定的に伝わってきました。

この日、私は、いつも忙しくて、力のない中、私の大きな使命が、「イエスの福音誌」や私のブログ(聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳)などで、聖書の新しい解釈を伝えることだと思っていると申しました。それに対して、笠井 清登先生は、賛同してくださいました。

夜眠れないのも、この私の仕事が進まないためであることも、大きな原因なのだとも受け取れました。笠井 清登先生には、睡眠障害で、10年くらい前からひと月1回診療を受けているのですが、この先生は、いろいろな事例に対するご指摘が非常に的確で、私のメンタルヘルスを保つために、非常に有益になっています。

そんなわけで、私の体調もそろそろ戻りつつある中、しかも、私の環境因も改善の兆しを見せていますので、神様が許せば、そろそろ、「イエスの福音誌」やブログの執筆などに時間をさけそうな気がしています。

≪まとめ≫
この世で起こってくるすべてのことは、神様が選ばれたときに起こるのです。イクリジアスティーズ(コヘレトの言葉)3章1節、Good News Bible, Good News Translation ECCLESIASTES,3.1.の翻訳』という聖書の言葉があります。
この言葉は、すべての良いことは、人の祈りに応じて、神様が準備をし、神様が力を与えてくださって、初めて起こり、出来るのだ。ということを、教えているのだと思います。だからあせってはいけないのです。
この聖書の言葉は、真理の法則に根差した深い洞察の言葉だと思います。今日は、そのことを、つくづくと思った一日でした。
(2013.2.14.)


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2013年02月12日

私は、2013.2.9.午前3時に目が覚めてベッドで新共同訳聖書を開きました。『38 神に背いたこの時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときにその者を恥じる。』というマルコによる福音書8章38節の言葉が目に飛び込んできました。

そこで、Good News Bible, Good News Translation では、ここをどう翻訳してあったかと、GNTを開きました。そうしたら、
38 神様を信ぜず、神様を尊敬しない(godless)、悪い(wicked)この時代に、もしあなたが私を恥じ、私の教えを恥じるなら、人の子は、人の子が聖な天使を伴ってその父の栄光のうちに来るとき、その者を恥じます。(マーク(マルコ)による福音8章38節、Good News Bible, Good News Translation MARK8.38.の翻訳)』とありました。
GNTと新共同訳聖書と大きく違うとは思えませんが、やはり違います。

さらに、NKJVではどう翻訳してあるかを調べました。ここは、なんと、『38 姦淫を行う、罪深いこの時代に、誰でもわたしとわたしの言葉を恥じる者は、その者に対して、人の子もまた、聖な天使たちと一緒に父の栄光のうちに人の子が来る時に、その者を恥じるでしょう。(マーク(マルコ)による福音8章38節、New King James Version, MARK8.38.の翻訳)』とありました。さらに調べてみると、ほかの聖書、NRSV,NIVも新改訳聖書も、まったく同様な翻訳がなされていました。
たとえば、日本の新改訳聖書には、「38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしの言葉を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて、聖なる御使いたちと共に、来るときには、そのような人のことを恥じます。(新改訳聖書マルコによる福音書8章38節)」と訳してありました。

ここの「姦淫を行う(adultrous)、罪深い(sinful)この時代に、」という翻訳は、神に背くということが、姦淫(たぶん、狭い意味での男女間の姦淫のことでしょう)を行うことと同一であると考えている証拠です。数千年前、あるいは2千年前のジーザスの時代には、そのように考えられていました。
いまだに、そのことをスィン・罪深いということの中心に、あるいは、その象徴のように考えようとしているのです。

これは、行いで、人の罪を判断する考え方がにじみ出ているので、前時代的な翻訳だと、たいへん驚き、NKJV、NRSV,NIV、そして新改訳聖書のこの部分に失望しました。

ところで、新共同訳聖書の翻訳は、その中間をいった翻訳とも取れます。
しかし、「神に背いたこの時代」と言ってしまってあります。「神に背く」というのは、「神を知っていながら、意識的に神に背く、反抗する。」という意味にとれますから、たいていは、『箇条書き的な「神の命令の言葉、戒律に違反する行動」をとる』という意味でしょうから、やはり、人を、その行いの面から責めている感じが否めません。

ジーザスは、その生涯を通して、人の行いを責めるというより、人の心のあり方を責めた方でした。ですから、これも、どうもジーザスの考え方にそぐわない翻訳だと思います。

実は、現代も、おおむね、神様を信ぜず、神様を尊敬しない(godless)、悪い(wicked)時代です。
日本の現代も、godlessつまり『神様の無い人』ばかりが目につきます。神様という言葉を使うと、科学に反すると思っている。迷信だと思っている。そして、人は自分の「我(が)、つまり、自分の凝り固まった石頭」で、その自分の誤った考え方を押し通そうとします。問答無用なのです。

そういう人たちは、謙虚に、ほかの人の意見を聞こうとはしません。もちろん、神様の前に悔いることはしません。自分の考えが神様なのです。だから自分の考えを変える習慣がないのです。
このようにして人も社会も硬直化して、社会や組織の創造的・独創的発展がないのです。それが、今の悪い時代のあり方です。

ここで「悪い」という意味は、英語でwickedと言っている意味です。それは、「道徳的に悪い。」という意味なのですが、その「道徳的に」という言葉の真意は、広い意味での真理に従わない、真理の法則を知ろうともしない、だから、それに従いもしない、神様に従わない、つまり、神様が今望むことを知ろうとしないことを言うのです。その意味で「不信仰で悪い」のです。人も、会社も、国も、いつも謙虚でなければいけません。

悪い時代の特徴は、「ジーザスやジーザスの教えを口にすると、信仰のない人々を傷つけることになるからという考えと、人々から嫌われるとの理由」から、ジーザスを信じている(?)ことを明かさない人たちが多く居ます。

しかし、それは、人々が、実は、心の中で、ジーザスの教えと言葉と行動を嫌っているのです。だからジーザスという存在を恥じているのです。
だからジーザスの教えに従わない。形の上では従っているように見せても、ジーザスの教えを恥じて、やはりジーザスの考え方に反発を感じているのです。

だからジーザス、イエスという言葉を口にすることを恥ずかしいと思うのです。
そして人々は、聖書を読むのを恥ずかしいことだとさえ思います。だから聖書を読みません。突き詰めていえば、人を恐れて、神様を恐れないのですね? 
だから、牧師・祭司・神父など職業柄そういうことを言う人は許すとして、ジーザスの教えを話す普通の人を恥じる、非常識だと言う、バカにする。今も、実は、そういう時代なのです。

≪まとめ≫
ジーザスの教えを恥じる者は、決してジーザス、イエスという言葉を口にしません。それは、心の中で、ジーザスを自分の救い主だと信じていないからです

逆にそれを口にする人を嫌い、間違いだと言い、そういう人をつまはじきします。この事実で、彼らが、ジーザスを恥と思っていることが分かります。

神様の目から見れば、こういう人たちこそ、恥ずかしい人です。神様は、そういうクリスチャンの存在を恥と思われるでしょう。そのことが、ジーザスが言った言葉として、このマーク(マルコ)による福音8章38節に記されているのです。
(2013.2.12.)


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2013年01月03日

皆さん、新年明けましておめでとうございます。キリスト教界の側からすれば、神道に根差した日本の「新年の祝い方」は、まあ言ってみれば「迷信」に見えます。しかし、世界的にキリスト教界の側にも『迷信』がないとは言えない事実があり、暗い気持ちになった新年でした。

「キリスト教」と、「ジーザスの考え方に従うこと」とは、相当違います。いや、まったく違います。人々が、『それまでの伝統的な聖書の解釈とキリスト教界のおもだった考え方』に従って行く限り、多くの『本当の意味での悲劇、つまり多くの迷信』が起こらざるを得ません。
もちろん、その中にも、目立たないけれど、健全なジーザスへの信仰が、脈々と続いていったことは事実です。だから、ジーザス誕生以来今日まで、宗教改革に見られるように、キリスト教や聖書の解釈が徐々に進化して、社会が進歩していったのです。

宗教は迷信を生みやすくあります。そこが、おそらく、およそ「宗教」というものが持つ最大の大問題、最大の欠陥だと思います。
宗教は、悪魔に利用されやすいのです!
宗教にこれがあるから、キリスト教界にも、それが極度にあります。ほんとうのことに反対する『迷信』が生まれやすいのです。
このようにして、「ほんとうの事」を見つけ、それを信じる人たちへの「憎しみ」と「いじめ」や「迫害」が起こりました。ジーザスが十字架につけられる過程で起こった出来事を記した4つの「福音」をよく読めば、この間違った迷信が、ジーザスへの憎しみと迫害を生んだことが、明白にわかります。

今日のキリスト教の迷信は、大きく分けて7つあると思います。これは、はじめは信仰から出るのですが、そのうち、聖書の記述を盾にとって、新しい科学、新しい学問、新しい文化、新しい芸術、およそ、すべて新しいほんとうのこと(真理)を一切受け入れなくなります。間違った信仰(?)が、古い常識や古いしきたりや、古い習慣や、古い思い込みを離れられない「迷信」を生むのです。 なぜか? それは、ほんとうのスィン・罪が何であるかが見えなるから、生じてくるのです。
キリスト教界の「迷信」は、具体的には、大きく分けて、
1、学問、科学、医術の研究成果を受け入れない迷信。
2.子孫を作ること以外にもある「性的欲望」の、 価値がある部分を無視する「迷信」。つまり、性欲、性的欲望を悪いこと、スィンである、罪深いことだと考える迷信です。
3.つぎに、昔から言い伝えられている「戒め」を文字通りに守るのが正しいと考える迷信。
4.社会体制の進歩が、間違いると考える迷信、  
5.聖書を文字通りに、逐語訳的に読むことが、聖書の正しい読み方であると考える聖書に関する迷信です。
6.自分たちの思い込みが正しいと考える迷信。これは、その社会の慣習的な価値順位観に従った「変型キリスト教信仰」を生みます。たとえば日本の儒教的キリスト教。武士道的キリスト教などです。
7.自然法則に反した「奇蹟」の記事を、文字通り起こったことであると信じこもうとする迷信。

「迷信」は、この7つにになると思います。これらの迷信は、不信者を名乗る人たちが持っているだけではありません!むしろ、クリスチャンと名乗っている人たちこそが持っているのです!
それは、ほんとうのスィン・罪が何であるかが見えなくなった時に生じてくるのです。
だから、ほとんどすべての、クリスチャンと名乗る人たちが、これらの迷信を持つことになります。

キリスト教が持つ迷信の危険性:
そこで、生まれつき、それなりに心ある、それなりに頭の良い、それなりに判断力がある、生まれて初めて聖書やキリスト教に接する若い人たちが、キリスト教信仰に反発を感じるようになります
これが、キリスト教界が持つ迷信が生む、もっとも危険なところだと思います。

それで、彼らは、聖書を読もうとしなくなります。聖書をまじめに学ぼうとはしなくなります。それで人々に神様の栄光、神様をたたえる力が失われて行くのです。

ですから、人々、特に日本の人々は、ジーザスを自分の救い主だと気が付くこともなくなっています。心(こころ)が救われることもなくなってしまう。そこに日本人の大きな悲劇があります。彼らは結局、無神論者を名乗ることになるのです。これは、たぶん、悪魔の仕業でしょう。

≪まとめ≫
これらの「ほんとうの悲劇」の真の原因、真の責任は、今あるキリスト教界の広い意味での指導者たち、聖職者たち、聖書研究家たち、神学者たち、聖書解説者たちにあると言わざるを得ないのです。
(2013.1.3.)


posted by goodnews at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪魔の仕業(しわざ)。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月28日

2012.12.23.(日)に、2012.11.4.以来、ほんとうに久しぶりに日本福音ルーテル小岩教会に行ってきました。この日は、クリスマス礼拝でした。礼拝後に若い男子音大生のヴァイオリンとクラリネットとピアノのトリオもありました。

松田繁雄さんの話は、羊飼いたちがジーザスの誕生を尋ね当てたルークによる福音2章1節からのお話でした。そのお話で、私がいちばん重要と思った部分を、そのあとのクリスマスのお祝いの会の時に松田繁雄さんから直接聞いたお話をまじえて、かいつまんで書きます。
『「羊飼いたち」は、当時、一般の人たちより少し下の人たちと思われていました。しかし、「人々から尊敬されているわけではない羊飼いたち」が、主イエスの誕生を祝うのが、むしろ適当なのでした。
羊飼いたちは、最も貧しい人たちでした。学問も教養もありませんでした。
けれどもメサイヤ(メシヤ)の到来を信じている羊飼いは、「直観によって、」メサイヤの到来を知らされたのです。
民の代表である者は、神様の声を聞く力さえあればよいのです。それで、羊飼いは天使の声を聴いていたのです。
いっぽう、マスュー(マタイ)による福音に書かれている『博士たち』は異邦人でしたから、直観に頼るのではなく、学ばなければ知ることが出来ませんでした。それで直観だけではなく、星の導きによって、主イエスのもとにたどり着きました。しかも、博士たちは、エルサレムに来て、人々に尋ねなければなりませんでした(マスュー(マタイ)による福音2章1から2節)。
でも、彼らには、救い主の誕生を知ろうとの熱心はありました。そこに異邦人である私たちの信仰のあり方を知ることが出来ると思うのです。>『博士たち』には、『博士たち』として、つまり、異邦人としての熱心な信仰』があったのです。』 だいたい、そういうお話でした。

このクリスマス礼拝の後の祝会で、私が松田繁雄さんに、後半の「異邦人の信仰」の部分を質問しました。そうしたら、「『人の信仰』にはいろいろあって、『こういう信仰でなければだめだ。』と言ってしまえば、ジーザスを救い主だと信じる人々の多くの人たちを信仰から遠ざけてしまうことになります。直観や、悪く言えば、直情的な人たち(直情径行の人たち)の感情によって信じる人もいれば、論理的に考えて、勉強して信じる人たちもいる。
「私たち異邦人は、後者の人間である。」と言おうとされているようでした。
ですから、私には、とても参考になりました。

≪まとめ≫
私が、そのあと考えましたのは、結局、聖書が伝えようとしている信仰とは、『ジーザスを自分の救い主だと信じて、喜びの生涯に入ることである。』ことだけは確かだと思いました。
そこに至る道は、いろいろあるでしょう。でも、最後は、ジーザスを自分の救い主だと信じられて、喜びと希望と神様に対する感謝の気持ちが湧かなければ、『その信仰』は、あっても意味のないものになってしまうと、私は思いました。
心のどこかで、神様とジーザスを信じる一粒の信仰があることは、とても、とても大切なことです。人が、その段階でとどまっていることだけでも貴重なことです。なぜなら、その信仰がなければ、いつまでたっても。その人に喜びも感謝も希望も生まれてはこないからだと思います。
(2012.12.28.)